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高宗 (宋)
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{{基礎情報 中国君主 |名 =高宗 趙構 |代数 =初代 |呼称 =皇帝 |画像 =[[画像:Gaozong Of Song.jpg|200px]] |説明 = |王朝 =南宋 |在位期間 =[[1127年]][[6月12日]] - [[1162年]][[7月24日]] |都城 = |諱 =趙構 |字 = |小字 = |諡号 =受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝 |廟号 =高宗 |生年 =[[1107年]][[6月12日]]<br/>([[大観 (宋)|大観]]元年5月2日) |没年 =[[1187年]][[11月9日]]<br/>([[淳熙]]14年10月8日) |父 =[[徽宗]] |母 =韋氏 |皇后 = |陵墓 =永思陵 |年号 =[[建炎]] : [[1127年]] - [[1130年]]<br/>[[紹興 (宋)|紹興]] : [[1131年]] - [[1162年]] |注釈 = }} '''高宗'''(こうそう)は、[[南宋]]の初代[[皇帝]](在位:[[1127年]][[6月12日]] - [[1162年]][[7月24日]])。[[北宋]]の第8代皇帝であった[[徽宗]]の九男。実子に[[趙フ|趙旉]](元懿太子)がいたが、嗣子が無いまま高宗より先に死去したため、[[太宗 (宋)|太宗]]以来の皇統は断絶することとなった。 == 人物 == 北宋時代には康王に冊封され、[[1126年]]には大元帥に登用されている。 翌1127年、[[金 (王朝)|金]]軍の侵攻により、父である徽宗と長兄の[[欽宗]]、そして妻の邢氏が金軍により北方に連れ去られる[[靖康の変]]が発生した際に、南京(現在の[[商丘市]])へ逃れた。その地で、[[哲宗 (宋)|哲宗]]の皇后であった孟氏([[掖庭の獄]]と呼ばれる事件によって皇帝の不興を買って廃立され、尼となっていたため金に捕らえられず無事であった)を利用し、その指名を得て皇帝に即位した。これが南宋の起源である。 しかしこの即位の手続きについては、宮廷の一部からその正当性に疑問があるとされ、即位した地位は宮廷で確立したものではなかった。このため兄・欽宗を金側が送還させようと申し出て来た時も、高宗は皇帝地位が動揺すると考え、帰国を許可しなかったとされる。その一方、正妻の邢氏([[憲節皇后ケイ氏|憲節皇后]])に関しては積極的であったが、願いは成就しなかった。金人は高宗に屈辱を与える為、母の韋賢妃、妻の憲節皇后<ref>『靖康稗史箋證・卷5』賜宋妃趙韋氏、鄆王妃朱鳳英、康王妃邢秉懿、姜醉媚,帝姬趙嬛嬛、王女肅大姬、肅四姬、康二姬,宮嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男兒、何紅梅、方芳香、葉壽星、華正儀、呂吉祥、駱蝶兒浣衣院居住者。</ref>、及び娘の趙仏佑、趙神佑の四名<ref>『靖康稗史箋證・卷3』 康一即佛佑、康二即神佑均二起北行、入洗衣院</ref>(他にも多くの趙氏の女性が同様の辱めを受けた)を[[洗衣院]]と呼ばれる金の皇族・官吏用の[[売春宿|妓楼]]に送っており、彼女は五国城(現在の[[黒竜江省]][[依蘭県]])で病没した。(韋氏と憲節皇后は、一旦は後宮に送られた後、洗衣院に下げられた。<ref>『靖康稗史箋證・卷3』韋賢妃、隨入齋宮</ref>その後、呉氏を皇后に立てた。 即位の正統性に問題があった高宗の地位は安定せず、国内では即位反対派による反乱、国外では金の南下などの内憂外患の時代であった。そのため国内各地の移動が続き、[[1132年]]にようやく首都を[[杭州市|臨安]]に定め、南宋の統治体制を確立するに至った。 高宗は金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。[[1138年]]、和平派を代表する[[秦檜]]を宰相に任用し、同年には金と和睦条約を締結することになった。このため、主戦派である[[岳飛]]と秦檜の対立を生み、[[1141年]]には岳飛が秦檜によって処刑されている。統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、江南の開発が進められた。 [[1162年]]、皇太子である元懿太子が3歳で夭折し、高宗に嗣子が無かったため、族子である[[孝宗 (宋)|趙{{lang|zh|昚}}]]を立太子、譲位して自ら[[太上皇]](上皇)となった。その後20余年も余命を保ち、81歳で崩御した。 == 書 == 高宗は[[能書家]]で、多くの[[書道|書]]を遺している。そのうち『[[#徽宗文集序|徽宗文集序]]』は日本の[[文化庁]]が保有し、[[国宝]]に指定されている。 === 徽宗文集序 === 徽宗文集序(きそう ぶんしゅうのじょ)は、[[紹興 (宋)|紹興]]24年(1154年)の書で、先帝・徽宗の文集百巻に、高宗自ら小楷で書した序文である。前半部分が失われ、現在32行が存在している。書風は温雅で気品が高く、極めて自然に悠々と[[筆]]を運んでいる。高宗は[[黄庭堅]]、次に[[米フツ|米芾]]に学び、最後に[[二王]]を学んだといわれるが、この序文は黄庭堅や米芾の影響を脱し、唐人以上の激跡と評される高宗の代表作である。紙本・縦27.4cm、全長137cm<ref>木村 P.175</ref><ref>飯島 P.233</ref><ref>中西 P.164</ref><ref>西林 P.100</ref>。 == 宗室 == === 后妃 === *[[憲節皇后ケイ氏|憲節皇后]](邢秉懿) :康王妃。嘉国夫人に封じられる。靖康の変の際に北遷され、寿聖院(金皇帝用の慰安施設)に送られた後、[[洗衣院]]<ref>金の官営の[[売春]]施設。他に徽宗・欽宗の娘や妃たちなどの北宋の皇族女性の多くが送られている。</ref>に入れられた。 *[[憲聖慈烈皇后呉氏|憲聖慈烈皇后]](呉氏) *潘賢妃 *張賢妃 *劉賢妃 *劉婉儀 *張貴妃 *馮美人 *韓才人 *呉才人:呉皇后の一族 *李才人 *王才人 *田郡君 *姜郡君 === 子 === *[[趙フ|趙旉]]:3歳で夭逝 *趙伯琮:養子。後に[[孝宗 (宋)|孝宗]]として即位 *[[趙伯玖]]:養子となり趙璩と改名 === 女 === 康王時代に5人の娘がおり、いずれも[[靖康の変]]に際し北遷された。 *趙佛佑(康大宗姫):北遷時4歳、後に洗衣院に入る。 *趙神佑(康二宗姫):北遷時4歳、後に洗衣院に入る。 *康三宗姫:北遷時3歳、その途中夭逝。 *康四宗姫:北遷時2歳、その途中夭逝。 *康五宗姫:北遷時2歳、その途中夭逝。 == 年号 == #[[建炎]]:[[1127年]] - [[1130年]] #[[紹興 (宋)|紹興]]:[[1131年]] - [[1162年]] == 脚注 == {{reflist}} == 出典・参考文献 == * 飯島春敬編 『書道辞典』([[東京堂出版]]、初版1975年) * [[木村卜堂]] 『[[日本と中国の書史]]』([[日本書作家協会]]、初版1971年) * 中西慶爾編 『中国書道辞典』([[木耳社]]、初版1981年) * 西林昭一・[[石田肇]] 「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 [[雄山閣]]、初版1992年)ISBN 4-639-01036-2 {{北宋・南宋の皇帝|南宋|初代:1127年 - 1162年}} {{DEFAULTSORT:こうそう}} [[Category:宋の皇帝]] [[Category:中国の能書家]] [[Category:開封出身の人物]] [[Category:1107年生]] [[Category:1187年没]]
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