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駿府城
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{{日本の城郭概要表 |name = 駿府城 |pref = 静岡県 |img = File:Sunpu-castle tatsumi-yagura.JPG |img_capt = 巽櫓(復元) |img_width =260px |ar_called = 府中城、静岡城 |struct = 輪郭式平城 |tower_struct = 不明(1589年築)<br />慶長1期(1607年再)<br />慶長2期(7階・1610年再)<br />(いずれも非現存) |builders = [[徳川家康]] |build_y = [[1585年]](天正13年) |revamp = 徳川家康 |rulers = [[徳川氏]]、[[中村氏]]、<br /> [[内藤家 (信成系)|内藤氏(松平氏)]] |reject_y = [[1869年]](明治2年) |remains = 石垣、堀 |rebuilding things = 櫓、門 |location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|58|45.96|N|138|23|0.9|E|scale:20000}} }} {{Location map+|Japan Shizuoka|width=250|float=right|caption=駿府城の位置|places= {{Location map~|Japan Shizuoka|lat=34.9794|long=138.3831|position=right|label=駿府城}} }} [[ファイル:Sunpu Castle air.jpg|thumb|right|駿府城の航空写真([[1988年]]撮影)<br />{{国土航空写真}}]] '''駿府城'''(すんぷじょう)は[[駿河国]][[安倍郡]]、現在の[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]にあった[[城]]である。別名は'''府中城'''や'''静岡城'''など。 [[江戸時代]]には[[駿府藩]]や[[駿府]][[城代]]が、[[明治維新]]期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。 == 概要 == 14世紀に[[室町幕府]]の[[駿河国|駿河]][[守護]]に任じられた[[今川氏]]によって、この地には[[今川館]]が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。今川氏は隣接する[[甲斐国]]の[[武田氏]]、[[相模国]]の[[後北条氏]]と同盟を結び領国支配を行ったが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の[[駿河侵攻]]により今川氏は駆逐され、城館は失われた。 今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は[[1582年]](天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、[[駿河国|駿河]]の武田遺領は[[徳川家康]]が領有した。徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて[[天守]]が築造されたという。その後[[1590年]](天正18年)には、豊臣政権による[[後北条氏]]滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の[[中村一氏]]が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。 [[江戸時代]]初期、家康は[[徳川秀忠]]に[[将軍職]]を譲り、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となって[[江戸]]から[[駿府]]に隠居した。ただし名目上は家康の子の[[徳川頼宣|頼宣]]による[[駿府藩]]50万石、ということになっている。このとき駿府城は[[天下普請]]によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ[[曲輪#曲輪の配置|輪郭式]]平城が成立した。[[天守閣]]は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものであった。しかし[[1607年]](慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。その後直ちに再建されたが、[[1610年]](慶長15年)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。 [[1616年]](元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ[[政治]]・[[経済]]の中心地として大いに繁栄した。 現在では、天守・櫓・門などの建造物や三重の堀のうち外堀の三分の一と内堀(本丸堀)は埋め立てられて現存していないが、残された中堀・外堀の石垣が往時の姿を留めている。また、外堀と中堀の間にある旧三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し、中堀の内側にある旧二ノ丸・本丸は「'''[[駿府城公園]]'''」として整備されている。 1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。なお、[[天守台]]は[[明治]]時代に[[陸軍]][[歩兵第34連隊]]を誘致する際に破壊されたが、同時に埋められた内堀(本丸堀)は部分的に発掘され保存されている。また、[[2014年]]([[平成]]26年)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。 === 大工棟梁 === [[1610年]](慶長15年)再建時の大工棟梁(大棟梁)は[[中井正清|中井大和守正清]]であった。また、地元の大棟梁[[華村正重|華村長左衛門尉正重]]とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。 == 歴史・沿革 == [[ファイル:Sunpu castle higashigomon koraimon.jpg|thumb|right|東御門[[高麗門]](復元)]] [[ファイル:Sunpu_castle_higashigomon_yaguramon.jpg|thumb|right|東御門櫓門(復元)]] [[ファイル:Sunpu_castle_nakabori.jpg|thumb|right|中堀]] [[ファイル:Sunpu castle sotobori 2.jpg|thumb|right|外堀]] [[ファイル:Sunpu castle Hitsujisaruyagura under restoration.JPG|thumb|right|坤櫓(2012年9月撮影。復元中)]] {{Main2|駿府城築城以前については[[今川館]]を}} === 安土桃山時代 === *[[1585年]](天正13年) 駿河国を支配した[[徳川家康]]が[[浜松城]]より居城を移して築城。 *[[1590年]](天正18年)[[小田原征伐]]後、[[江戸]]に移封となった徳川家康に代わり、[[中村一氏]]が大名として入城。 === 江戸時代 === ==== 大御所政治時代 ==== *[[1601年]](慶長6年) 家康の異母弟・[[内藤信成]]が駿府城主に任ぜられる。 *[[1606年]](慶長11年) 内藤信成が[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主に移封される。 *[[1607年]](慶長12年)12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。 *[[1608年]](慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。 *[[1609年]](慶長14年) 家康の第十子・[[徳川頼宣]]が駿府城主となる。 *[[1616年]](元和2年) 家康死去(75歳)。 ==== 家康没後の江戸時代 ==== *[[1619年]](元和5年) 頼宣が[[和歌山城]]主に移封。 *[[1624年]](寛永元年) [[徳川秀忠]]の第二子・[[徳川忠長]]が駿府城主となる。 *[[1631年]](寛永8年) 忠長が乱心、兄である[[徳川家光]]に改易と蟄居を命じられる。 *[[1632年]](寛永9年) 忠長が[[高崎城]]で自刃。以後、駿府は江戸幕府直轄([[天領]])となり、駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれる。 *[[1635年]](寛永12年) 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。 *[[1638年]](寛永15年) 御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず。 === 近現代 === *[[慶応]]4年 ([[1868年]]) [[江戸城開城]]に伴い[[徳川慶喜]]は退隠。養嗣子田安亀之助 ([[徳川家達]]) が[[駿府藩]]主となり駿府城に移る<!-- 閏4月24日 -->。 *[[1869年]](明治2年) 江戸が東京に、駿府が静岡に改名される。[[廃藩置県]]により、静岡藩(駿府藩から改称)知県事徳川家達が東京に移る。 *[[1891年]](明治24年) [[静岡市]]に払い下げられ、[[公園]](中央公園)となる。<ref name="sunpupark">[http://www.city.shizuoka.jp/deps/kouen-seibi/sunpupark.html 駿府公園の整備について] - 静岡市</ref> *[[1896年]](明治29年) [[歩兵第34連隊]]の誘致に伴い、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設は凡て取り壊される。 *[[1949年]](昭和24年) [[大蔵省]]より静岡市に再度払い下げ、公園として整備。 *[[1951年]](昭和26年) 公園の名称を公募により駿府公園と命名。 *[[1989年]](平成元年) '''巽櫓'''復元、資料館として公開。<ref name="sunpupark" /> *[[1996年]](平成8年) '''東御門'''復元、資料館として公開。 *[[2006年]](平成18年) [[日本100名城]](41番)に選定。 *[[2009年]](平成21年) [[8月11日]]午前5時7分、[[駿河湾]]沖を震源とする[[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]](M6.5)により、中堀や外堀など複数個所で石垣の一部が崩壊。 *[[2012年]](平成24年) [[4月1日]]、駿府公園を[[駿府城公園]]に改称。 *[[2014年]](平成26年) [[4月2日]]、'''二ノ丸坤櫓'''復元、資料館として公開。<ref name="sunpupark">[http://http://www.city.shizuoka.jp/deps/kouen-seibi/hitujisaru.html 駿府城坤櫓の一般公開について] - 静岡市</ref><ref>[http://mainichi.jp/feature/news/20131011ddlk22040111000c.html 駿府城公園:秋空に映える白い壁 坤櫓の復元工事進む 来年3月完成予定、1階内部一般者見学も /静岡]</ref><ref>[http://www.at-s.com/news/detail/933009837.html 〔Webリポート〕160年ぶり復元 駿府城公園 坤櫓の内部公開]</ref> == 天守 == 駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間([[1573年]] - [[1592年]])または[[1589年]](天正17年)に建てられた天正期天守。次が、[[1607年]](慶長12年) の慶長1期天守で、この天守は完成後まもなく焼失した。最後は、その翌年から[[1610年]](慶長15年)に再建された慶長2期天守である。[[1896年]](明治29年) まで現存した天守台は、この慶長2期のものである。 天正期天守に関しては小天守があったという記録のみで、慶長1期天守も資料が少ない。そのため、現在主に研究対象とされているのは、駿府城最後の天守となった慶長2期天守である。[[大日本報徳社]]蔵の『駿州府中御城之図』より、[[淀城]]の天守と同じく天守台に余裕を持たせて天守をほぼ中央に建て、4隅に二重櫓を建てて多聞櫓を建て廻したという説が最も有力とされている<ref group="出典" name="西ヶ谷">西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年</ref>。この説に対して、2階に廻縁高欄があること、家康が富士山の眺望を無視するはずがないことなどから八木清勝は疑問を指摘している<ref group="出典">平井聖監修『城 4 東海』毎日新聞社 1996年</ref>。 天守の外観は『慶長日記』や『[[当代記]]』などより次の事が判明している(なお、両文献も[[柱間]]は7尺間としている)。 *'''1階''' - 10間×12間、四方に[[縁側|落縁]] *'''2階''' - 同上、四方に[[欄干]] *'''3階''' - 同上(9間×11間)、腰屋根は[[瓦]] *'''4階''' - 8間×10間、腰屋根・[[破風]]・[[鬼瓦|鬼板]]は[[ピューター|白鑞]]製、[[懸魚]]・鰭・逆輪・釘隠は[[銀]]製 *'''5階''' - 6間×8間、腰屋根・懸魚・鰭・唐破風・鬼板は白鑞製、逆輪・釘隠は銀製 *'''6階''' - 5間×6間(5間×8間)、屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製 *'''7階''' - (4間×5間)、屋根・破風は[[銅]]製、軒瓦は[[めっき|鍍金]]、懸魚・鰭・破風の逆輪・釘隠は銀製、筋・[[鯱|鴟吻]]・熨斗板・逆輪・鬼板は[[金]]製 :※括弧内の記述は『[[武徳編年集成]]』による。 他に[[狩野探幽]]筆の『日光東照社縁起』に天守の最上階から下3重目までの外観が描かれている。また駿府築城の様子を描いたものとされる『築城図屏風』(名古屋市博物館所蔵)に三重櫓を伴う重層な天守が描かれているが、近年では、[[金沢城|金沢築城]]の様子であるという説が有力視されている<ref group="出典" name="加藤">加藤理文ほか執筆『よみがえる名城 白亜の巨郭 徳川の城』学習研究社 2008年</ref>。 === 天守復元の検討 === 天守の構造について確定的な資料は発見されていない。このため、復元時に採用する構造については様々な立場から複数の案が出されている。 以下に代表的な例を挙げる(全て慶長2期天守の復元案)。 * [[内藤昌]]案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。3階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁(ただし柱型は黒色)で最上階に高欄を設けている<ref>『駿府城』 文化環境計画研究所編(該当部分は内藤昌) 駿府城再建準備委員会 2000 51~63頁、66~72頁</ref>。 * [[八木清勝]]案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上と5階上に大入母屋を載せた6重7階、後期望楼型。白漆喰壁(ただし3階のみ黒色)で最上階に高欄を設けている。1階の玄関に大きな唐破風があるので、2階の高欄の一部が途切れている<ref>『城 4 東海』 平井聖監修(該当部分は八木清勝) 毎日新聞社 1996 84~85頁</ref>。 * [[宮上茂隆]]案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。5階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁<ref>『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』 宮上茂隆他 学習研究社 1995 67頁</ref>。 * [[三浦正幸]]案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加している。6重7階の層塔式、壁面は黒色処理をした銅板張り<ref>『よみがえる日本の城 11 駿府城 甲府城』 三浦正幸監修 学習研究社 2005 6~7頁</ref>。 * [[西ヶ谷恭弘]]案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。6重7階で白漆喰壁で、最初に後期望楼式<ref>『名城の「天守」総覧』 西ヶ谷恭弘監修(該当部分は大竹正芳) 学習研究社 1994 140~143頁</ref>をその後に層塔式の案<ref>『透視&断面イラスト 日本の城』 西ヶ谷恭弘監修 世界文化社 2009 259頁</ref>を出す。 * [[平井聖]]案 - 5重7階の層塔式で、壁面は黒色(ただし、6重も考慮している)<ref>『名城物語 第3号 家康の城』 平井聖他 学習研究社 2009 口絵、16~17頁</ref>。 ;静岡市による検討 「静岡市駿府城天守閣建設可能性検討委員会」で有識者による検討会が8回にわたって行われた結果、2010年3月に天守復元をはじめとした城跡の公園整備についての提言がまとめられた。 これによると、公園整備は単なる観光目的ではなく「風格」のあるものとして整備することが望ましいとされている。また、天守など復元建築物については史実に忠実であるべきだが、確定的な資料も発見されておらず最低限必要な資料が揃っていないため現時点での復元は困難としている。一方で天守台については確定的な資料があるため、史実に基づく復元は可能という。 同委員会では、現時点で天守復元についての結論を得ることはできない現状とともに、まずは城跡としての文化財的価値についての理解や国による史跡指定が必要な段階としており、その観点から公園名を「駿府城公園」に変更することを提言している。<ref>[http://www.city.shizuoka.jp/000092961.pdf 駿府城天守閣建設可能性検討委員会報告書] - 静岡市(2010年3月付、同年12月23日閲覧)</ref> == 遺構 == === 堀・石垣 === 内堀は、発掘・復元された南東の一部と中堀との間を結ぶ水路を除いて完全に埋められて消滅しているが、中堀と東辺以外の外堀はほぼ江戸期の姿を残している。ただし、歩兵第34連隊が置かれた後に架けられた凱旋橋・城代屋敷跡付近の城代橋・[[静岡県庁]]本館前など、江戸期とは異なる位置に架橋されている箇所がある。 中堀・外堀外縁の石垣・土塁は、[[1854年]](嘉永7年)の[[安政東海地震]]による崩落や明治以降の改変によって積み直されている箇所が多いが、大手御門の[[虎口]]や北御門跡などが往時の姿をよく残している。また、残存する石垣に天下普請を物語る[[刻印]]を確認することができる。 === 移築建築物 === 駿府城の[[養珠院|お万]]の居間が移築され、静岡県[[三島市]]にある[[妙法華寺]]の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。 == 駿府城代 == [[ファイル:Sunpu castle otegomon masugata.jpg|thumb|right|駿府城代警護の大手門枡形跡]] [[ファイル:Sunpu castle yotsuashigomon ishigaki.jpg|thumb|right|駿府定番警護の四足門跡石垣]] === 駿府城代・定番=== [[1633年]](寛永10年) 、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に'''駿府城代'''を置き、[[東海道]]の要衝である当地の押えとした。駿府城代は[[老中]]支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・[[大手門]]の守衛・[[久能山東照宮|久能山]]代拝などを管掌した。[[譜代大名]]の職である[[大坂城代]]とは異なり[[大身旗本]]の職であるが、老中支配の中では最高位の格式を持ち、御役知2000石、[[伺候席]]は雁間詰めであった。 また、[[1649年]](慶安2年)に設置された'''[[城番|駿府定番]]'''は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。駿府城代と同様に老中支配で、御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めであった。 === 駿府在番・勤番=== 駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として'''駿府在番'''が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である[[大番]]が駿府城に派遣されていたが、[[1639年]](寛永16年)には大番に代わって将軍直属の[[書院番]]がこれに任じられるようになった。その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。 しかし[[1790年]](寛政2年)に書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の'''駿府勤番組頭'''・'''駿府勤番'''が置かれて幕末まで続いた。この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高500石・御役料300俵と御役高300俵であった。 === 駿府城代支配=== 駿府城代支配の諸役としては、既述の駿府勤番組頭・駿府勤番の他に、駿府城内の武器・弾薬を管理する'''駿府御武具奉行'''や[[交代寄合]]の[[榊原氏]]が世襲で務めた'''久能山総門番'''などがある。 駿府城代は、こうした支配の諸役と'''駿府加番'''などで構成される駿府における[[番方]](軍事・警備)の要として、駿府の庶政を掌る[[役方]]の[[遠国奉行#駿府町奉行|駿府町奉行]]とともに直轄地・駿府を幕末まで治めた。 === 歴代駿府城代 === *[[渡辺幸庵|渡辺茂]] [[1619年]](元和5年) - ? *[[松平重勝]] [[1619年]](元和5年) - [[1620年]](元和6年) *[[松平重忠]] [[1621年]](元和7年) - [[1624年]](寛永元年) *[[松平勝政]] [[1633年]](寛永10年)2月9日 - [[1633年]](寛永10年)2月 *[[大久保忠成 (旗本)|大久保忠成]] [[1633年]](寛永10年)2月26日 - [[1656年]](明暦2年)1月12日 *[[松平重信]] [[1656年]](明暦2年)1月12日 - [[1669年]](寛文9年)7月23日 *[[松平乗真 (旗本)|松平乗真]] [[1669年]](寛文9年)7月27日 - [[1676年]](延宝4年)4月2日 *[[松平勝易]] [[1676年]](延宝4年)6月3日 - [[1680年]](延宝8年)5月 *[[三枝守俊]] [[1680年]](延宝8年)8月12日 - [[1695年]](元禄8年)12月25日 *[[青山幸豊]] [[1696年]](元禄9年)1月15日 - [[1720年]](享保5年)3月4日 *[[青山幸能]] [[1720年]](享保5年)4月5日 - [[1725年]](享保10年)3月15日 *[[酒井忠隆 (旗本)|酒井忠隆]] [[1725年]](享保10年)3月22日 - [[1736年]](元文元年)8月 *[[板倉勝淳]] [[1736年]](元文元年)9月10日 - [[1739年]](元文4年)9月2日 *[[松平康郷]] [[1739年]](元文4年)9月6日 - [[1751年]](寛延4年)3月25日 *[[土屋秀直]] [[1751年]](寛延4年)3月25日 - [[1754年]](宝暦4年)8月13日 *[[中根正直]] [[1754年]](宝暦4年)8月26日 - [[1759年]](宝暦9年)8月18日 *[[久世広寛]] [[1759年]](宝暦9年)10月21日 - [[1764年]](明和元年)6月24日 *[[花房職朝]] [[1764年]](明和元年)6月28日 - [[1765年]](明和2年)11月5日 *[[菅沼定用]] [[1765年]](明和2年)11月15日 - [[1768年]](明和5年)3月21日 *[[武田信村]] [[1768年]](明和5年)5月1日 - [[1778年]](安永7年)8月9日 *[[本多忠弘]] [[1778年]](安永7年)8月15日 - [[1785年]](天明5年)7月3日 *[[北条氏興]] [[1785年]](天明5年)7月12日 - [[1796年]](寛政8年)5月20日 *[[近藤用和]] [[1796年]](寛政8年)9月14日 - [[1799年]](寛政11年)10月29日 *[[浅野長致]] [[1799年]](寛政11年)11月24日 - [[1800年]](寛政12年)2月3日 *[[杉浦正勝]] [[1800年]](寛政12年)4月2日 - [[1802年]](享和2年)5月19日 *[[松平忠明 (旗本)|松平忠明]] [[1802年]](享和2年)5月19日 - [[1805年]](文化2年)2月8日 *[[安藤直之]] [[1805年]](文化2年)2月29日 - [[1805年]](文化2年)8月10日 *[[内藤正範]] [[1805年]](文化2年)8月21日 - [[1807年]](文化4年)1月29日 *[[浅野長富]] [[1807年]](文化4年)2月8日 - [[1814年]](文化11年)7月28日 *[[高木守富]] [[1814年]](文化11年)8月28日 - [[1816年]](文化13年)10月12日 *[[松平定能]] [[1816年]](文化13年)10月24日 - [[1819年]](文政2年)9月14日 *[[戸田忠従]] [[1819年]](文政2年)10月15日 - [[1825年]](文政8年)2月17日 *[[松平信弥]] [[1825年]](文政8年)2月28日 - [[1825年]](文政8年)4月15日 *[[安藤広栄]] [[1825年]](文政8年)4月28日 - [[1827年]](文政10年)2月27日 *[[諏訪頼存]] [[1827年]](文政10年)3月28日 - [[1829年]](文政12年)5月3日 *[[松平定謐]] [[1829年]](文政12年)5月15日 - [[1832年]](天保3年)3月8日 *[[堀田一知]] [[1832年]](天保3年)3月20日 - [[1835年]](天保6年)5月24日 *[[大久保忠侃]] [[1835年]](天保6年)5月24日 - [[1841年]](天保12年)5月27日 *[[菅沼定志]] [[1841年]](天保12年)6月24日 - [[1845年]](弘化2年)3月 *[[小笠原信名]] [[1845年]](弘化2年)7月8日 - [[1846年]](弘化3年)3月28日 *[[本多忠興 (旗本)|本多忠興]] [[1846年]](弘化3年)3月28日 - [[1852年]](嘉永5年)5月14日 *[[坪内定保]] [[1852年]](嘉永5年)7月8日 - [[1857年]](安政4年)2月9日 *[[室賀正発]] [[1857年]](安政4年)2月9日 - [[1859年]](安政6年)2月24日 *[[土岐朝昌]] [[1859年]](安政6年)4月22日 - [[1862年]](文久2年) *[[酒井忠讜]] [[1862年]](文久2年)12月28日 - [[1864年]](元治元年) *[[本多正訥]] [[1864年]](元治元年) - [[1868年]](慶応4年)3月 == 駿府加番 == '''駿府加番'''は江戸幕府の職制で、大名1名と[[旗本寄合席|寄合]]旗本2名が交代で務める駿府城外の警護役である。駿府城外堀外縁を囲む3箇所に置かれ、詰所・鉄砲場・馬場他を備える広大な役宅を有した。当初は一加番(町口)・ニ加番(鷹乃森)の2箇所であったが、[[1651年]](慶安4年)の[[慶安の変]]で首謀者・[[由井正雪]]が駿府城下で自害した事件を機に城外警備の強化が図られ、三加番(草深)が増設された。 現在は各屋敷に勧請されていた[[稲荷社]]のみが残存している。 == 現地情報 == ;所在地 * 静岡県静岡市葵区駿府城公園1番1号 ;交通 * [[東海旅客鉄道|JR]][[東海道本線]]・[[東海道新幹線]] [[静岡駅]]から徒歩約10分。 == 参考文献 == {{Reflist|colwidth=30em|group=出典}} == 脚注 == {{Reflist}}{{脚注ヘルプ}} == 関連項目 == {{commonscat|Sunpu_Castle}} * [[日本の城一覧]] * [[日本100名城]] * [[江戸城]] * [[岡崎城]] * [[片桐且元]] * [[久能山東照宮]] * [[二丁町遊郭]] * [[旗本寄合席]] == 外部リンク == * [http://www.city.shizuoka.jp/deps/bunkazai/bunkazai_tyousa_sunpujyou_index.htm 駿府城跡] - 静岡市 * [http://www.shizuoka-cvb.or.jp/oogosho400/study/03.htm 大御所の城「駿府城」とは?](大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ) - 静岡市 * [http://kojodan.jp/castle/65/ 駿府城の観光ガイド] {{日本100名城}} {{DEFAULTSORT:すんふしよう}} [[Category:静岡県の城]] [[Category:葵区の歴史]] [[Category:駿河国]] [[Category:葵区]] [[Category:日本100名城]] [[Category:徳川家康|城]] [[Category:徳川氏|城]]
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