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'''馬淵 嘉平'''(まぶち かへい、[[寛政]]元年([[1789年]]) - [[弘化]]4年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[1847年]][[12月18日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[土佐藩]]士、[[石門心学|心学者]]。 == 生涯 == 下級藩士の子として、[[高知市|高知城下]]で生まれる。[[江戸]]に出府した際に[[石門心学|心学]]を学ぶ。藩主[[山内豊熈]]に登用され、藩政改革に当たった。 馬淵嘉平を批判する人々は、嘉平とその周りの人物を[[おこぜ組]]と呼んだ。嘉平の力により思いのままの役職に就く事ができることを揶揄したものである。 神儒仏の思想を交えた心学は幕府によって禁学とされていたが、嘉平は密かに人目を避けて心学を講説し、同志の数は五十名程に増えた。しかし、この講説が発覚し、嘉平は[[天保]]14年([[1843年]])に投獄された。同志も次々と捕まり、[[おこぜ組]]は処分を受けた。弘化4年(1847年)、59歳で獄中に没する。 == 系譜・家族 == 馬淵氏は[[宇多源氏]]で、祖先の[[馬淵高政|馬淵孫左衛門高政]]は[[天正]]13年([[1585年]])[[近江国|近江]][[長浜市|長浜]]にて[[山内一豊]]に仕え、[[慶長]]6年([[1601年]])に[[土佐国|土佐]]に入国した。嘉平は高政から数えて七代目にあたる。 子の[[馬淵桃太郎]](とうたろう)は、[[坂本龍馬]]と共に[[桶町千葉道場|千葉道場]]で剣技を習い、[[堺事件]]では六番歩兵隊長[[箕浦猪之吉]]の介錯人を務めた。 {{DEFAULTSORT:まふち かへい}} [[Category:1789年生]] [[Category:1847年没]]
馬淵嘉平
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