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館山藩
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'''館山藩'''(たてやまはん)は、[[安房国]]に存在した[[藩]]。藩庁は[[館山城]]・館山陣屋(現在の[[千葉県]][[館山市]]城山)に置かれた。[[江戸時代]]初期、[[戦国大名]]を出自とする[[里見氏]]を藩主として安房一国を統治していた時期と、江戸時代後期に[[稲葉氏]]を藩主とする譜代の小藩であった時期の2つに分かれる。 == 藩史 == === 里見家時代 === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安房国]]から勃興した里見氏は[[上総国]]に勢力を広げ、[[後北条氏]]と関東の覇権をめぐって争った。[[館山城]]の築城年代については諸説あるが、[[岡本城]]を居城としていた[[里見義頼]]が[[天正]]8年([[1580年]])頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ[[里見義康|義康]]が天正16年([[1588年]])から天正18年(1590年)にかけて改修したとされる。 天正18年(1590年)、義康は[[小田原征伐]]に遅参し、さらに[[惣無事令]]に反して独自の制札を発したことから[[豊臣秀吉]]の不興を買った。[[上総国]]は没収されて安房一国のみが安堵され、里見家は[[豊臣政権]]下の[[大名]]として位置づけられる。義康は居城を館山城に移し、9万2000石の所領を治めることとなった。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]において義康は東軍に与して[[宇都宮城]]の守備にあたり、戦後これが功績とされて[[常陸国]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]に3万石を与えられ、都合12万2000石の大名となった。また、義康の弟の[[里見義高]]も[[上野国]][[板鼻藩]]1万石の大名に取り立てられている。 義康は館山城の改修と城下町の整備を進めた。鹿島郡の領民が普請したとされる堀が「鹿島堀」の名で残っている。慶長8年([[1603年]])に義康は31歳の若さで死去し、後を子の[[里見忠義]]が継いだ。しかし忠義は[[大久保忠隣]]の孫娘を妻としていたため、慶長19年([[1614年]])の[[大久保長安事件]]に連座して改易された。なおこれより先、叔父の義高も改易されている。忠義は[[伯耆国]][[倉吉藩]]に移されたが、実際には流刑に等しいものであったという。館山藩は廃藩となり、館山城は破却された。 === 旧館山藩領の解体 === 館山藩の廃藩後、安房国は[[天領]]、[[旗本]]領、小藩、他国の藩の飛び地領に細分化され、安房一国を治めていた旧館山藩の規模を継承する藩は現れなかった。 旧館山藩領には、元和6年(1620年)に[[東条藩]](1万石)、元和8年(1622年)に[[安房勝山藩]](3万石)、寛永15年(1638年)に[[北条藩]](1万石)と[[安房三枝藩]](1万石)が成立している。ただし、安房勝山藩・北条藩を除いていずれも短命に終わっている。最大の[[安房勝山藩]]も藩主の相次ぐ早世によって寛永6年(1629年)に除封されているが、寛文8年(1668年)より酒井家を藩主として再び立藩され、1万2000石の藩として、江戸時代初期に成立した藩では唯一幕末まで存続する。 === 稲葉家時代 === [[天明]]元年([[1781年]])9月、[[旗本]][[稲葉正明]]は安房・上総国内で3000石の加増を受けた。正明は山城[[淀藩]]の分家の出身で、[[徳川家治]]のもとで小姓組番頭・御側申次と出世を重ねて[[田沼意次]]と共に権勢を振るった人物である。正明は旧領の7000石と合わせて1万石の諸侯に列し、館山藩が立藩された。 天明5年([[1785年]])1月、正明はさらに安房・上総国内で3000石を加増されて都合1万3000石となる。しかし、翌年に家治が没して意次が失脚すると、正明もその余波を受けて3000石を没収され、出仕停止処分となった。[[寛政]]元年([[1789年]])7月、正明は隠居して子の[[稲葉正武]]が後を継いだ。正武の代の寛政3年(1791年)、城山の南麓に館山陣屋が建設されている。正武は[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])3月に隠居して家督を子の[[稲葉正盛]]に譲ったが、正盛は[[文政]]2年([[1819年]])12月、大坂加番中に29歳の若さで死去し、翌年に長男の[[稲葉正巳]]が後を継いだ。 正巳は有能な藩主であり、[[幕末]]期の動乱の中で[[徳川慶喜]]の信任を得て[[若年寄]]、[[老中格]]、[[海軍総裁]]、陸軍奉行、大番頭、[[講武所]]奉行などを歴任し、[[幕府海軍]]の創設や外交問題などに大きな功を挙げた。[[明治]]元年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では、正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を[[稲葉正善]]に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、[[榎本武揚]]率いる旧幕府海軍が館山湾から、上総[[請西藩]]などの旧幕府方が陸からそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めた。しかし正巳はこれを乗り切り、新政府に恭順した。 正善は翌年の[[版籍奉還]]で藩知事となった。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で館山藩は廃されて館山県となり、正善が県知事となった。同年11月14日、館山県は[[木更津県]]に編入されて廃された。明治17年([[1884年]])の[[華族令]]公布に伴い、正善は[[子爵]]に叙せられた。 == 歴代藩主 == === 里見家 === 12万2000石 [[外様大名|外様]] #[[里見義康]](よしやす) #[[里見忠義]](ただよし) === 稲葉家 === 1万石→1万3000石→1万石 [[譜代大名|譜代]] #[[稲葉正明]](まさあき) 従五位下 越前守 #[[稲葉正武]](まさたけ) 従五位下 播磨守 #[[稲葉正盛]](まさもり) 従五位下 播磨守 #[[稲葉正巳]](まさみ) 従四位下 兵部大輔 #[[稲葉正善]](まさよし) 従五位下 備後守 == 幕末の領地 == * [[安房国]] ** [[長狭郡]]のうち - 11村(うち7村が[[花房藩]]、1村が[[安房上総知県事]]、3村が安房上総知県事を経て花房藩に編入) ** [[朝夷郡]]のうち - 2村([[長尾藩]]に編入) ** [[平郡]]のうち - 4村(うち2村が長尾藩、2村が[[西尾藩]]に編入) ** [[安房郡]]のうち - 20村(うち2村が長尾藩、3村が安房上総知県事を経て長尾藩に編入) * [[上総国]] ** [[市原郡]]のうち - 1村([[鶴舞藩]]に編入) ** [[長柄郡]]のうち - 4村(うち1村を花房藩、3村を安房上総知県事に編入) * [[下総国]] ** [[香取郡]]のうち - 2村 [[明治維新]]後、安房郡33村(旧[[天領|幕府領]]5村、旧[[地方知行|旗本領]]3村、旧[[前橋藩]]領2村、旧安房上総知県事領24村、内訳は旧幕府領18村、旧旗本領4村、旧[[船形藩]]領2村)が加わった。なお[[相給]]が存在するため、村数の合計は一致しない。 {{s-start}} {{s-bef|before=([[安房国]])|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷 |years=[[1781年]] - [[1871年]]<br>|years2=館山藩→館山県}} {{s-aft|after=[[木更津県]]|表記=次}} {{end}} {{江戸時代の藩}} {{DEFAULTSORT:たてやまはん}} [[Category:藩]] [[Category:安房国]] [[Category:里見氏|藩たてやま]] [[Category:稲葉氏|藩たてやま]] [[Category:千葉県の歴史]] [[Category:館山藩主|!]]
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