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'''顔 師古'''(がん しこ、[[581年]] - [[645年]])は、[[中国]]・初[[唐]]の学者である。本貫は、[[琅邪郡]]臨沂県([[山東省]][[臨沂市]])、[[諱]]は'''籀'''、師古は[[字]]である。 == 経歴・業績 == [[北周]]代の祖父[[顔之推]]の時より、万年県([[陝西省]][[西安市]])に移住した。学家に育ったため、師古も学識は広く、文辞にもすぐれていた。とりわけ、[[経書|経典]]解釈に対して深く研鑽した。 [[隋]]の[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間([[601年]] - [[604年]])に、安養県([[湖北省]][[襄陽市]]近郊)の県尉となったが、辞して都の[[長安]]に戻り、学究として10年を過ごした。 唐が建国する([[618年]])と仕官し、[[三省六部 |中書]]舎人などを歴任する。彼のものした詔勅文は、当代随一と賞された。[[太宗 (唐)|太宗]]が即位する([[626年]])と、中書侍郎に就任し、琅邪県男に封ぜられた。[[630年]]([[貞観 (唐)|貞観]]4年)、太宗の命により、[[五経]]の考定を行い、3年後に定本を上呈した。[[633年]](貞観7年)、天下に頒布された。その後は、'''秘書少監'''の任に就き、諸本を校定した。 [[637年]](貞観11年)、[[魏徴]]や[[房玄齢]]等と共に'''五礼'''の撰定に与かり、'''『大唐儀礼』'''100巻を撰した。[[638年]](貞観12年)、太宗は[[孔穎達]]らの学者たちに命じて、五経の解釈の統一と、その注釈の作成を命じた。[[642年]](貞観16年)に完成し、'''『[[五経正義]]』'''と名づけられた。180巻。 また、皇太子の'''承乾'''の命により、『''[[漢書]]''』100巻の注釈を作成した。完成は、[[641年]](貞観15年)である。最後は、秘書監・弘文館学士で終わった。 == 筆跡 == === 等慈寺碑 === 『等慈寺碑』(とうじじひ)は、637年から641年(貞観11年から15年)の間に書かれた。[[等慈寺]]は629年(貞観3年)、太宗の詔によって戦没将士の菩提を弔うために建てられたもので、[[河南省]][[汜水県]]にある。碑高245cm、幅117cmの碑は、はじめ寺内にあったが、近年、壊されて残石となり、現在は鄭州市博物館にある。碑額は篆書陽文で、「大唐皇帝等慈寺之碑」と3行に刻され、本文は楷書32行、各行65字である。撰文も書も顔師古で、祖父の顔之推以来、学芸をもって北朝に歴任した家柄だけに、彼の書も鋭く力強く、[[北魏]]の書風を受け継いでいる。 == 伝記資料 == * 『[[旧唐書]]』巻73 * 『[[新唐書]]』巻198 == 参考文献 == * [[木村卜堂]] 『[[日本と中国の書史]]』([[日本書作家協会]]、1971年) * 「中国7 隋・唐Ⅰ」(『書道全集』第7巻 [[平凡社]]、1971年5月) * 西林昭一 「隋・唐」(『書芸術全集』第6巻 [[雄山閣]]) {{DEFAULTSORT:かん しこ}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:7世紀の学者]] [[Category:隋代の人物]] [[Category:唐代の人物]] [[Category:顔氏|しこ]] [[Category:西安出身の人物]] [[Category:581年生]] [[Category:645年没]]
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