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'''奥州将軍府'''(おうしゅうしょうぐんふ)とは、[[1333年]](北朝の[[元弘]]3年)に[[後醍醐天皇]]が京都で開始した[[建武の新政]]における地方統治機関である。廷臣の[[北畠親房]]・[[北畠顕家]]親子が、義良親王(後の[[後村上天皇]])を奉じて[[陸奥国]]の国府・[[多賀城]]に下り、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(の3ヶ国)を管轄。建武政権の統治機構を指す。 [[鎌倉時代]]後期、奥州では[[蝦夷]]の[[蜂起]]や[[安藤氏の乱]](蝦夷大乱)が起こるなど内乱が続き、[[鎌倉幕府]]も平定のために兵を派遣し、幕府の権威が動揺する原因にもなっていた。 1333年、後醍醐天皇の[[倒幕運動]]に応じた[[足利尊氏]]、[[新田義貞]]らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、京都で建武の新政が開始される。足利尊氏は6月に[[鎮守府将軍]]に任命、奥州の[[北条氏]]旧領の地頭職などが与えられ、奥州における足利氏の勢力が強化された。 同年10月、親房の子の北畠顕家が[[陸奥守]][[鎮守府将軍|鎮守大将軍]]に任命され、後醍醐天皇の皇子である義良親王を陸奥太守として推戴して陸奥国国府の多賀城へ出立した。 陸奥将軍府設置の背景として、足利尊氏と対立し[[征夷大将軍]]に任命された[[護良親王]]は北畠親房らと尊氏牽制のための小幕府構想を運動したとする[[佐藤進一]]の説と後醍醐天皇が[[奥羽]]統治の積極的な展開を目指して設置したとする[[伊藤喜良]]の説がある。いずれにしても、旧北条氏、[[足利氏]]の有力一門[[斯波氏]]の支配地も多かった陸奥国において、奥羽の秩序を安定化させるとともに朝廷の支配下に武士を取り込むことが不可欠であった<ref name=kameda>亀田俊和「陸奥将軍府恩賞充行システムの研究」(初出:『兵庫大学論集』16号(2011年)/改題所収:「陸奥将軍府恩賞充行制度の研究」亀田『室町幕府管領施行システムの研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1675-8)</ref>。 北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった[[白河結城氏]]の[[結城宗広]]のみとされた<ref name=kameda/>。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所、侍所、引付衆をはじめ[[公卿]]や在地の武将からなる[[式評定衆]]を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。 奥州の有力地頭である[[南部政長]]や、結城宗広、[[伊達行朝]]らの勢力を糾合し、1335年に顕家が鎮守府将軍を兼ねると軍事権も強化され、足利氏の代官たる斯波氏と競合していった。 12月、[[足利直義]]が相模守に任命され、[[成良親王]]を奉じて鎌倉へ赴き、[[鎌倉将軍府]]が成立する。鎌倉将軍府は建武政権の一機関としての性格を持ちながらも、新政から距離を置いていた尊氏にとって、関東における足利氏の勢力基盤を敷く大義名分となり、さらに1334年11月には、尊氏の政敵であった護良親王が失脚して鎌倉に幽閉され、尊氏の地位が優位となる。 7月、[[信濃国]]で北条氏の残党が蜂起して、鎌倉を奪還する[[中先代の乱]]が起こると、尊氏は救援に向かった後に鎌倉に留まり、帰京を拒否する。足利勢が追討に派遣された[[新田義貞]]らを撃破して京都へ進軍すると、顕家は義良親王とともに陸奥を出立し、鎌倉で[[斯波家長]]を討ち、義貞と連携して足利勢を駆逐し、1336年3月には陸奥へ帰還する。 [[1337年]]([[延元]]2年)、足利方の攻勢により国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移転。その後も9月に武蔵国児玉郡浅見山に出兵するなど、足利方との一進一退が続く。 尊氏は九州落ちした後に東上し、[[持明院統]]の[[光厳天皇|光厳上皇]]を[[治天の君|治天]]に擁立すると、後醍醐天皇は吉野に逃れ、これに対抗した(南朝・吉野朝廷)。顕家は南朝の武将として各地に転戦し、1338年5月に戦死する。このため、同年閏7月に弟の[[北畠顕信]]が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに[[伊勢国]][[大湊_(伊勢市)|大湊]]から海路陸奥を目指すが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返すことになる(父・親房は[[常陸国]]にたどり着く)。顕信は再度陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥に入国することに成功する。1343年、父の親房が[[関城・大宝城の戦い]]に敗れて吉野に逃れた後も、顕信は陸奥に留まり、北朝が1345年に設置した[[奥州管領]]と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、[[観応の擾乱]]に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった[[宇津峰城]]が陥落すると事実上崩壊した<ref name=kameda/>。 親王太守と北畠顕家の威望によって陸奥将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、[[1338年]](延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の[[奥州管領]]・[[奥州探題]]として送り込まれた[[吉良氏]]、[[石堂氏]]、[[畠山氏]]、石橋氏、斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥州将軍府はその実を失ってしまった。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == *[[鎌倉将軍府]] {{DEFAULTSORT:むつしようくんふ}} [[Category:日本の将軍|*むつしようくんふ]] [[Category:建武政権の職制]]
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