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'''陳 震'''(ちん しん、? - [[235年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[蜀漢]]に仕えた。[[字]]は'''孝起'''。子は陳済。[[荊州]]南陽郡の人。 == 略歴 == [[劉備]]が荊州[[牧]]となったとき、従事として招かれ、その家臣となり諸郡の管理を掌った。 劉備が[[益州]]を攻略する際には[[ホウ統|龐統]]らと共に益州に向かった。[[214年]]、劉備が益州を支配すると蜀郡北部[[都尉]](後に郡名が変更され汶山[[太守]])となり、後に[[犍為県|犍為]]太守へ転任した。 [[劉禅]]が即位すると、陳震は[[225年]]に中央へ戻されて尚書に任じられ、[[尚書令]]に昇進した。同年には[[呉 (三国)|呉]]に使者として派遣されているが、目的が史書に記されていない。この年には[[諸葛亮]]が南征を実施している。 [[229年]]、同盟関係にあった呉の[[孫権]]が即位すると、蜀の国内が動揺したが、諸葛亮は呉との同盟関係を維持することに決め、[[衛尉]]に昇進していた陳震を祝賀の使者として呉に赴かせた(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。諸葛亮は兄の[[諸葛瑾]]に手紙を送り、陳震の人物を「老いてますます誠実な性格である」と賞賛し、呉蜀の友好関係を発展させるに相応しい使者だと紹介している。陳震は使者として謙虚に振舞い、[[武昌]]において孫権と会盟し、天下を分配することを誓約し合った(呉志「呉主伝」)。それは呉が[[徐州]]・[[豫州]]・[[幽州]]・[[青州]]、蜀が[[并州]]・[[涼州]]・[[冀州]]・[[兗州]]をそれぞれ所管し、[[司隷]]は[[函谷関]]を境に東西で折半する、という内容であった。陳震は帰国後、城陽亭侯に封じられた。 呉へ使いに赴く前、諸葛亮に対し「[[李厳]]は腹に一物をもっているため、郷里の者からも近付かれておりません」と忠告した。しかし諸葛亮は李厳の欠点を棘と例え、触れさえしなければよいと考え、引き続き重用していた。[[231年]]に李平(李厳)が失脚すると、諸葛亮は[[蒋エン|蔣琬]]・[[董允]]に手紙を送り、陳震の言葉を聞き入れなかったことを後悔したという。 235年死去。子が跡を継いだ。 [[陳寿]]は陳震を「忠実・謙虚で、老いてますます慎ましい人物であった」と評している。 小説『[[三国志演義]]』では、はじめ[[袁紹]]に仕えていたが、徐州で[[曹操]]に敗れ袁紹に身を寄せて来た劉備と親しくなり、曹操に降伏していた[[関羽]]への連絡役を引き受けている。劉備が[[劉表]]との同盟の使者に行くと称し袁紹の下を離れた後は、袁紹の命を受け[[江東]]の[[孫策]]との同盟の交渉に赴いたが、袁紹との同盟に乗り気であった孫策が急死すると、後継者の孫権が曹操と同盟を結ぶことにしたため失敗している。後に劉備の元へ身を寄せるようになるが、ほぼ名のみの登場である。 {{DEFAULTSORT:ちん しん}} [[Category:蜀漢の人物]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:235年没]]
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