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陳羣
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'''陳 羣'''(ちん ぐん、? - [[236年]]<ref>魏志「明帝紀」によると、[[青龍 (魏)|青龍]]4年の12月24日。</ref>)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志に伝がある。[[字]]は'''長文'''。[[豫州]]頴川郡許昌県(現在の[[河南省]][[許昌]])の出身。祖父は[[陳寔]]。父は[[陳紀]]。叔父は陳諶。子は[[陳泰]]。妻は荀氏([[荀イク|荀彧]]の娘)。 魏国の法制度の整備に従事し、政略面で活躍した。特に[[九品官人法]]は、[[隋]]代に[[科挙]]が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。 == 経歴 == === 若き日 === 清流派に属する名家に生まれ、祖父・父・叔父ともに皆名声が高かった。陳羣は幼いころから祖父に認められ、将来において一族を盛んにする人物であろうと期待された。[[孔融]]は自身より年長の陳紀と友人であったため、年少の陳羣の才能を認め、陳紀に改めて挨拶をしたという。このことから陳羣は世間に名を知られるようになった。 若い頃は、[[辛毗]]・[[杜襲]]・[[趙ゲン|趙儼]]と並んで名が知られていたという(「趙儼伝」)。ただし、[[禰衡]]には認められなかった。 当時、故郷の[[刺史]]だった[[劉備]]に登用され、別駕となった。[[194年]]、劉備が[[陶謙]]死後の混乱する[[徐州]]を領有しようとした際は、「南に[[袁術]]、西から[[呂布]]が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備は、袁術と交戦状態になった隙を呂布に衝かれ領地を失ったため、陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。陳羣は[[茂才]]に推挙され、柘(しゃ)[[県令]]に任命されたが、就任せず父と共に徐州へ避難した。 === 曹操に仕える === [[198年]]、[[曹操]]が呂布を滅ぼしたとき、陳羣は平伏し降伏者としてこれを出迎えたという(「[[袁渙]]伝」)。 陳羣は曹操に召し出され、[[丞相]]西曹掾属となった。曹操に仕えてまもなく、楽安の王模と[[下邳]]の周逵が推挙されて曹操に仕える事になったが、陳羣は命令書を封緘したまま返上し「その2人は道徳を汚す人物であり、後に災いをなすだろう」と諫言した。しかし、曹操が聞き入れずに任用したところ、彼等は結局、咎を受けて処刑されることになった。このため曹操は自分の不明を陳羣に詫びた。また、曹操の側近である[[郭嘉]]が不行跡であることを咎め、何回も弾劾した。曹操は郭嘉の才能を惜しみその言を用いなかったが、陳羣の誠実さも同様に尊重した(「郭嘉伝」)。 陳羣は、[[陳矯]]や[[丹陽]]の戴乾を始め、多くの人物を推挙した。戴乾が後に[[呉 (三国)|呉]]が叛いたときの国難に殉じ、陳矯も魏の高官に昇ったため、人々は陳羣の人物鑑識眼を高く評価した。 ショウ・賛・長平の県令を務めたが、父が亡くなったため官を離れた。しかし後に[[司徒]]掾となり、高い功績を挙げて治書[[侍御史]]に任じられた。さらにその後、参丞相軍事に転任となった。 魏が藩国として建国されると、昇進して[[御史中丞]]に任ぜられた。 曹操は[[肉刑]]の復活を議論させた時、以前陳紀が肉刑について意見を出していたことを知っていたため、陳羣に発言を求めた。陳羣は死刑の減刑手段として、肉刑を復活させることを提案した。[[鍾ヨウ|鍾繇]]が賛成したが、[[王朗]]など反対が多数であったために、見送りとなった。 後に[[侍中]]となり、丞相東西曹掾を配下においた。 朝廷内では好悪によって物事を判断する事はなく、常に名誉と道義を重んじ、道義に外れた事を人に押し付けたりしなかったとされる。[[曹丕]]がまだ[[太子]]だったとき、彼は陳羣に対して深い敬意をもって接し、[[顔回]]に準え称えた。曹丕は友人に対する儀礼をもって彼を処遇した。[[司馬懿]]・[[呉質]]・朱鑠とともに太子四友になったという(『[[晋書]]』「宣帝紀」)。 [[劉ヨク|劉廙]]が[[魏諷]]の反乱に連座しそうになると、曹操に刑の減免を進言し、劉廙を許させた。このため劉廙が陳羣に礼を言ったが、陳羣は取り合わなかったという。 <!-- 陳羣は文書の機密を扱ったり、法の整備に力を発揮し、曹操存命の間は荀彧や[[鍾ヨウ|鍾繇]]などと共に傑出した働きをした。[[肉刑]]から[[農政]]、身分制、徴兵、[[裁判]]までを取り扱った。不審な挙動に対しては容赦なく[[弾劾]]を行った。陳羣は能臣[[郭嘉]]に対しても、その不届きを法に照らし、罰しようとした。 --> === 魏の重臣として === 陳羣は曹操に対し、帝位へ就くようほのめかしたことがあったが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)。 [[220年]]、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、[[尚書]]に任命された。このとき、九品官人法を建議し制定させた。曹丕が[[禅譲]]により[[皇帝]](文帝)に即位し魏帝国が成立した際には、群臣達と共に尽力したため(「文帝紀」が引く『[[献帝]]伝』)、その功績から重用された。尚書僕射に昇進し、侍中を加官された後、[[尚書令]]に転任となり、頴郷侯に爵位を進めた。 曹丕が呉の[[孫権]]を討つため[[広陵区|広陵]]に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。また曹丕は帰還する時、陳羣に節を与えて[[水軍]]を統率させた。許昌に戻ると、鎮軍大将軍に任ぜられるとともに中護軍を兼任し、尚書の事務を執り扱った。 [[鮑勛]]を推挙し、その出世を取り成したが、曹丕は鮑勛を嫌い処刑しようとした。陳羣は司馬懿と共に鮑勛のために弁護したが、許されなかった(「鮑勛伝」)。 [[226年]]、曹丕が病に倒れると、陳羣は[[曹真]]・司馬懿らと共に遺詔を受け後事を託された。太子の[[曹叡]]が文帝の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取り止めさせたという(「文帝紀」が引く『魏氏春秋』)。 曹叡(明帝)の時代には、頴陰侯に昇進し、500戸の加増を受け領邑が1300戸となった。さらに[[曹休]]・曹真・司馬懿と共に開府を許された。陳羣は、しばらくして[[司空]]に任ぜられたが、尚書の事務も引き続き執り行った。 呉質に讒言を受け譴責されたこともあったが、結局、陳羣に対する曹叡からの信任は揺るがなかった(「[[王粲]]伝」が引く『魏略』)。 曹叡が始めて政務を執ったときは上奏し、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう述べた。 [[太和 (魏)|太和]]年間に曹真が[[蜀漢]]征伐を求めたときは、陳羣が慎重に行動することを求め、曹叡もそれを受け曹真に指示を出した。長雨が降ると、陳羣が曹真に撤退することを求めたため、曹叡は曹真に撤退を命じた。[[張コウ|張郃]]が戦死したとき、その死去を曹叡のために惜しんだところ、それがあまりにも過剰であったため、辛毗に批判された(「辛毗伝」が引く『魏略』)。 曹叡の[[公主]]の一人が亡くなると、曹叡は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。陳羣は上奏し、出費の多さを理由に反対したが、聞き入れられなかった。 青龍年間、曹叡は宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。曹叡は計画を幾分かは縮小させたという。 これらの上奏について、上奏を出した後には草稿をすべて破棄してしまっていたため、当時の人は誰もその内容を知ることが出来ず、高官にありながら何もしていないと批判するものもいたという。死後、[[正始]]年間に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の内容が明らかにされると、人々は皆感嘆したという(『魏書』)。このことにより、陳羣は長者と称えられたともいう(『袁子』)。 また、かつて[[崔エン|崔琰]]が処刑されたとき、多くの人がその死を惜しんだが、陳羣は崔琰が身を処すことができなかったことを批判し、[[崔林]]と論争したという(「崔琰伝」が引く『魏略』)。 236年に没し、靖侯と諡された。子が跡を継ぎ、領邑が分割され列侯に封じられたという。 == 後世の評価 == [[陳寿]]には「名誉と徳義により行動し、高潔な人柄と高い声望を持っていた」と賞讃されている。 陳羣の建議した九品官人法は、隋代までの中国における人材登用の基本制度となったため、中国の政史を考える際に見逃すことができないものとなり、後世の学術的な研究対象となった。一説には、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を法律として再度整備し、そうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こった後漢から魏への[[易姓革命]]に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材の篩い分けを狙う制度であったと考えられている。<ref>宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)第二章より。漢魏の易姓革命に当たって、後漢の官僚の反発を避けるために彼らを魏廷に受け入れる必要がある。ところが、魏の官僚登用は[[毛カイ|毛玠]]らによって厳選されていたものの、一方の後漢は陳羣が「天朝(後漢)の選用、人才を尽さず」(『通典』巻14)と評価される状況にあり、魏の尺度でもう一度試験を行うべきであると考えられたと宮崎は指摘する。いま一つの理由として、魏に対して叛意を持つ後漢の官僚をそのまま受け入れにくいことを挙げている(218年には耿紀による反乱が起きるなど、反魏意識を持つ後漢官僚の存在は簡単に想像された)。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == *<span style="font-size:90%;">[[宮崎市定]]著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)</span> {{DEFAULTSORT:ちん くん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:頴川陳氏|くん]] [[Category:236年没]] [[Category:許昌出身の人物]]
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