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{{三国志の人物 |名前 = 陳祗 |画像 = |サイズ = |説明 = |王朝 = [[蜀漢]] |称号・役職 = [[尚書令]]・鎮軍将軍 |出生 = 生年不詳 |出身地 = [[豫州]][[汝南]]郡 |死去 = 延熙16年([[258年]]) |死没地 = |ピン音 = |字 = 奉宗 |諡号 = 忠侯 |廟号 = |別名 = |主君 = [[劉禅]] |特記事項 = }} '''陳 祗'''(ちん し、? - [[258年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]の政治家。[[字]]は'''奉宗'''。[[豫州]]汝南郡の人。叔祖父(祖父の弟)は[[許靖]]。子は陳粲・陳裕ら。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に独立した伝はなく、[[董允]]伝に付伝されている。 ==略歴== 彼は幼少の頃に両親ら家族を亡くしたため、母方の叔祖父に引き取られてその家で成長した。20歳で名を知られるようになり、昇進を重ねて選曹郎までになった。謙虚であるが威厳のある容姿をしており、天文・暦・占いにも通じていた。 [[費イ|費禕]]にその性格と才能を高く評価され、[[246年]]に董允が死去すると、費禕の推挙により後任の[[侍中]]に抜擢された。その後、[[251年]]に[[呂乂]]が死去すると[[尚書令]]に昇進し、鎮軍将軍となった。 [[253年]]正月、国政の中心であった費禕が[[魏 (三国)|魏]]の降将の郭循によって暗殺された。しかし陳祗の上席である[[姜維]]は、軍事のため外地にあることが多く、留守がちであった。このため費禕亡き後は、陳祗が[[劉禅]]を補佐し蜀の国政にあたることとなった。陳祗は董允と異なり、劉禅に諫言することもなく、また[[宦官]]の[[黄皓]]が国政に関与することを容認した。蜀志を著述した蜀の旧臣の[[陳寿]]は、「劉禅が亡き董允を事追うごとに疎ましく思うようになった一因は、陳祗と黄皓にあった」と評し、また「陳祗の政治は皇帝にへつらい、宦官におもねるものであった」という評価を下している。 また、尚書の[[ホウ宏|龐宏]]([[ホウ統|龐統]]の嫡子)が不遜な態度をとったため、涪陵[[太守]]への就任を阻止したという記述もある。さらに[[ショウ周|譙周]](陳寿の師)が、姜維の連年の軍事活動により、民衆が疲弊するのを憂え『仇国論』をしたためたのも、陳祗との議論がきっかけであったと言われる。 258年に没した。劉禅は陳祗の死を悲しみ、言葉を発する度に涙を流した。ありし日の陳祗の働きを激賞する詔勅が残されており、そこには陳祗の存命時の行為に相応しく、かつ美しい[[諡]]として「忠侯」を与えたと記されている。劉禅は長子の陳粲に[[関内侯]]を与え、次子の陳裕を黄門侍郎に任命した。後の[[西晋]]の時代、陳裕は[[羅憲]]の推挙により仕官している。 なお、後主伝によると、黄皓がはじめて政治的な権限を手中にしたのは258年だとある。 小説『[[三国志演義]]』には登場せず、譙周が『仇国論』をしたためる場面でも陳祗の名は見当たらない。 {{DEFAULTSORT:ちん し}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:蜀漢の人物]] [[Category:頴川陳氏|し]] [[Category:258年没]]
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