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'''陳 式'''(ちん しょく または ちん しき、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]にかけての武将。 俗に『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者[[陳寿]]の父と言われているが、『[[晋書]]』「'''陳寿伝'''」等にはそのような記述はない。彼の本籍地は不明。 == 略歴 == 時期は不明だが[[劉備]]に従った。劉備が[[漢中]]を攻めた際、陳式は馬鳴閣道の封鎖のために派遣されたが、[[徐晃]]に敗れた。[[夷陵の戦い]]では劉備に従い、将軍として[[呉班]]と共に水軍を率い夷陵に駐屯した。 [[229年]]に[[諸葛亮]]が再び[[北伐#蜀の北伐|北伐]]の軍を起こした時、陳式は先鋒の総大将として[[武都]]と陰平を攻略し、その功績を上げた。また、諸葛亮自身は建威を攻略し、当地付近に駐屯していた[[魏 (三国)|魏]]の[[郭淮]]の挟撃を陳式と共に試みた。郭淮は一旦出撃したがすぐに退却し、隴西方面から撤退した。諸葛亮・陳式とも、これを追撃しなかったという。以降、史書に記述は見当たらない。 == 三国志演義における陳式 == 小説『[[三国志演義]]』では、漢中攻防戦において[[黄忠]]の武将として登場する。[[夏侯尚]]の軍勢と戦い捕虜となるが、黄忠も夏侯尚を捕らえたため、数日後に双方の人質交換で無事に黄忠の陣営に戻されている。その後、[[魏延]]と共に軍令を無視して魏軍を追撃する。しかしその結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首されることになっている。このように『演義』での陳式は凡将扱いされることが多い。 なお、『晋書』「陳寿伝」によると、陳寿の父が[[馬謖]]の[[将校|参軍]]で、馬謖の[[死刑]]に連座して髠刑(剃髪の刑で、[[宮刑]]の次に屈辱的とされた)に処されたという。『演義』ではこうした話を元に、陳寿の父としての陳式が諸葛亮に処刑されるエピソードが創作されたのであろう。 {{DEFAULTSORT:ちん しよく}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:蜀漢の人物]] {{people-stub}} {{chinese-history-stub}}
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