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院政
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'''院政'''(いんせい)は、在位する[[天皇]]の直系尊属である[[太上天皇]](上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。上皇は「[[院]]」と呼ばれたので、院政という。「院政」という言葉自体は、江戸時代に[[頼山陽]]が『[[日本外史]]』の中でこうした政治形態を「政在上皇」<ref>『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏([[平治の乱]]後):「この時に当たり、'''政、(後白河)上皇に在り'''。[[藤原経宗]]、[[藤原惟方]]、帝([[二条天皇]])に勧めて政を親らせしむ。両宮交々(こもごも)悪(にく)む」。</ref>として「院政」<ref>『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏「平氏論賛」:「是に由りて之を観れば、平宗を延いて以て相門に抗するは、'''院政'''・廟論、相伝承する所、其れ猶を寛平の菅氏を擢任するが如きか」(大意: これらの歴史的事例から察するに、平氏の一族の力を借りて藤原氏に対向するのは、天皇家において代々相伝されたことであり、[[寛平]]年間に[[菅原道真]]を抜擢任用したようなものだろうか)</ref>と表現し、[[明治政府]]によって編纂された『[[国史眼]]』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は'''[[治天の君]]'''とも呼ばれた。 特に[[白河天皇|白河上皇]]の[[1086年]]から平家滅亡の[[1185年]]頃までを「'''院政時代'''」と呼ぶことがある。 == 概要 == === 前史 === 天皇が余力ある内に引退し、若き子(孫)の天皇を後見するという意味では、院政の萌芽は[[持統天皇]]・[[元正天皇]]・[[聖武天皇]]などから見られる。当時は[[皇位継承]]が安定していなかったため([[大兄]]制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。尚、日本の天皇に於いて[[譲位]]の最初の例は[[皇極天皇]]で、それまでは皇位は所謂終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。 平安時代に入っても[[嵯峨天皇]]や[[宇多天皇]]や、[[円融天皇]]などにも見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく<ref>奈良時代には聖武天皇([[紫香楽宮]])と元正上皇([[難波宮]])のもとで短期間ながら宮廷が分裂し、平安時代には天皇の[[内侍宣]]を掌る[[尚侍]][[藤原薬子]]が[[平城天皇|平城上皇]]の復位を画策したために、[[嵯峨天皇]]が命令系統を一時的に喪失する危機にさらされた[[薬子の変]]などの教訓から[[蔵人所]]の設置など天皇権力の強化が行われた影響もある(筧、2002年)。</ref>。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた[[藤原北家]]が天皇の職務・権利を代理・代行する[[摂関政治]]が隆盛していくことになる。 だが、[[治暦]]4年([[1068年]])の[[後三条天皇]]の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて[[皇位継承]]の安定が大きな政治課題とされており、皇統を[[一条天皇]]系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、[[宇多天皇]]以来藤原北家([[摂家|摂関家]])を[[外戚]]に持たない170年ぶりの[[天皇]]であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に[[摂家|摂関家]]を持たない強みも背景として、[[延久の荘園整理令]]([[1069年]])などより積極的な政策展開を行った。[[延久]]4年([[1072年]])に後三条天皇は第一皇子貞仁親王([[白河天皇]])へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が[[慈円]]により主張されて(『[[愚管抄]]』)以来、[[北畠親房]](『[[神皇正統記]]』)、[[新井白石]](『[[読史余論]]』)、[[黒板勝美]]、[[三浦周行]]などにより主張されていたが、[[和田英松]]が、災害異変、後三条天皇の病気、[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、[[平泉澄]]が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では[[吉村茂樹]]が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら[[美川圭]]のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。 その一方で、近年では宇多天皇が[[醍醐天皇]]に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、[[円融天皇]]が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である[[摂政]][[藤原兼家]]と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。 === 白河院政 === 次の白河天皇の母も[[摂家|摂関家]]ではない[[閑院流]]出身で[[中納言]][[藤原公成]]の娘、[[春宮坊|春宮大夫]][[藤原能信]]の養女である[[女御]][[藤原茂子]]であったため、白河天皇は、[[関白]]を置いたが後三条天皇と同様に[[親政]]を行った。白河天皇は[[応徳]]3年([[1086年]])に当時8歳の善仁皇子([[堀河天皇]])へ譲位し[[太上天皇]](上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。[[嘉承]]2年([[1107年]])に堀河天皇が没するとその皇子([[鳥羽天皇]])が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は'''[[治天の君]]'''、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮([[皇太子]])のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。 ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化(というより自系統による皇位独占)という意図があった。弟である実仁親王・[[輔仁親王]]が有力な皇位継承候補として存在している中、我が子である善仁親王に皇位を譲ることでこれら弟の皇位継承(およびそれを支持する貴族)を断念させる意図があった。[[佐々木宗雄]]の研究によれば、『[[中右記]]』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった[[藤原師実]]と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と[[関白]][[藤原師通]]が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、[[藤原師通|師通]]の急逝と若年で政治経験の乏しい[[藤原忠実]]の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い[[藤原忠実|忠実]]ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い[[鳥羽天皇]]が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、[[樋口健太郎]]は白河法皇の院政の前提として[[藤原彰子]](上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場<ref>本来は父院である一条上皇の役目であるが、上皇は既に死去している。なお、彰子は道長の娘、頼通の姉にあたる。</ref>から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の[[令旨]]などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与<ref>母后である[[藤原賢子]]の関与の可能性も考えられるが、賢子は既に死去している。なお、賢子は師実の養女にあたる。</ref>を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の[[行幸]]に公卿を動員し、院御所の造営に[[諸国所課]]を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた<ref>摂関政治全盛期である上東門院と藤原道長・頼通親子の先例を範として成立した白河天皇(上皇・法皇)と摂関(大殿)藤原師実の先例は後世の摂関家においては「吉例」として考えられていたのである(樋口、2011年)。</ref>。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。 直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。 また、外戚関係を媒介に[[摂政]][[関白]]として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として'''[[院庁]]'''を設置し、[[院宣]]・[[院庁下文]]などの命令文書を発給した。従来の学説では[[院庁]]において実際の政務が執られたとされていたが、[[鈴木茂男]]が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、[[橋本義彦]]がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて[[朝廷]]に圧力をかけ、院独自の側近を[[院の近臣]]として[[太政官]]内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として[[北面武士]]を置くなど、[[平氏]]を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって[[中世]]の起点とする事もある。 === 院政の最盛と転換 === 白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子([[崇徳天皇]])を皇位につけた後に没し、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ<ref>『[[古事談]]』によると崇徳天皇は白河天皇の実子であるとされており、両者の疎遠な関係の傍証とされてきたが、近年の研究では信憑性は疑問とされている(美川圭 2006)。</ref>、第九皇子である[[近衛天皇]](母、[[藤原得子|美福門院]])へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の[[後白河天皇]](母、[[藤原璋子|待賢門院]])が継いだ)。そして、[[保元]]元年([[1156年]])に鳥羽上皇が没した直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した([[保元の乱]])。 後白河天皇は保元3年(1158年)に[[二条天皇]]へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い[[二条天皇]]は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされた。したがって、二条天皇の時代の後白河院政は強固なものとはとうていいえなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165)6月25日に幼い[[六条天皇]]に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、[[平治の乱]]と[[平清盛]]政権の登場およびその崩壊、[[治承・寿永の乱]]の勃発、[[源頼朝]]の[[鎌倉幕府]]成立など、[[武士]]が一気に台頭する時代となった。 ただ、[[後白河天皇|後白河法皇]]は後年には[[平清盛]]と対立、治承3年(1179年)11月の[[治承三年の政変]]によって[[鳥羽殿]]に幽閉され、院政を停止されてしまった。ここで一旦[[高倉天皇]]の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に[[安徳天皇]]に譲位、ここに高倉院政が成立した。高倉院政下では[[福原京|福原]]への「遷都」などが行われたが、もともと病弱であった高倉上皇は福原で病を得、平安京に還御した直後の養和元年(1181年)1月14日に崩じてしまった。まもなく清盛も世を去ったため、清盛の後継者であった[[平宗盛]]は後白河院政を復活させた。 後白河法皇の後は、その孫の[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が院政を行った。後鳥羽院は、将軍[[源実朝]]が暗殺された事を好機とし、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗([[承久の乱]])、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷へ執権[[北条氏]]の介入を招いてしまった。乱後、[[後堀河天皇]]が即位するとその父親である[[守貞親王|行助入道親王]]が例外的に皇位を経ずして院政を行う([[後高倉院]])という事態も発生している。 院政は承久の乱以降も継続し、[[公家政権]]の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた[[後嵯峨天皇|後嵯峨院政期]]に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事([[弁官]]や[[蔵人]]による奏上)を取り次ぐ役職である[[伝奏]]の制度化、そして院が[[評定衆]]とともに相論(訴訟)裁許に当たる[[院評定]]を確立し、院政の機能強化に努めた。 後嵯峨院以後の[[両統迭立]]期には、実際の院政を行う治天の君は天皇の父(あるいは祖父・曾祖父)である必要性が特に強調されるようになる。[[持明院統]]の[[伏見天皇]]が即位した際に実父である[[後深草院]]が院政を行うものとされ、前天皇である[[大覚寺統]]の[[後宇多院]]がこれに抗議したものの顧みられず、反対に後宇多院の子である[[後二条天皇]]が即位した際には同時に前天皇である[[後伏見院]]の下で院政を行っていた伏見院の院政も停止されて後宇多院の院政が開始されている。なお、この際に伏見院の皇子で後伏見院の弟にあたる富仁親王(後の[[花園天皇]])が立太子された際に後伏見院の[[猶子]]とされた(『[[皇年代略記]]』・『[[神皇正統記]]』)。花園天皇即位後は当初は伏見院が院政を行ったものの、正和2年([[1313年]])10月17日に治天の地位が後伏見院に譲られ(『[[一代要記]]』)、4年後に伏見院が没した時には花園天皇は実父の崩御にもかかわらず祖父の喪の形式を採った(『[[増鏡]]』)。これは本来は花園天皇の兄である後伏見院が同天皇の治世における治天の資格を得るために、花園天皇と猶子関係を結んだために本来は「父と子」の関係である伏見院と花園天皇の関係も「祖父と孫」の関係に擬制されたことによる。大覚寺統の事例([[長慶天皇|長慶院]]と[[後亀山天皇]])は不明であるものの、以後の持明院統においては治天の君に予定された者と皇位継承予定者が猶子関係が結ばれ、治天の君と天皇の間で親子関係が擬制されるようになった([[光厳天皇|光厳院]]と[[光明天皇]]及び[[直仁親王]](廃太子)、[[後小松天皇|後小松院]]と[[後花園天皇]])。 [[建武の新政|建武新政]]期には[[後醍醐天皇]]が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活し、[[室町時代]]に入ってから院政は継続したが、[[永享]]5年([[1433年]])に後小松院が崩御すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院政は度々執られたが、あくまで形式上の存在でしかなくなっていったためである。実際、次に上皇になった後花園院は譲位後に程なく[[応仁の乱]]に巻き込まれ、実質的な院政をほとんど行う期間も無く崩御した<ref>[[甘露寺親長]]の『親長卿記』や[[甘露寺家]]に伝わっていた「案文書類巻」([[国立歴史民俗博物館]]所蔵)より、親長が院司として作成した院宣の存在(応仁2年12月25日付庭田中納言(雅行)宛・文明2年10月18日付備前国薬師寺宛、ともに所領安堵)が確認できる。なお、後花園院の崩御後も院の仏事を行うために院庁や職員が存在していたことが確認でき、院政の終焉≠院庁の廃止ではないことが分かる(井原今朝男『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)P166-168)。</ref>。その後、財政上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。だが、院庁自体は廃止されず存続していたため、江戸時代に入っても院政は続けられた。 === 江戸時代の院政 === [[江戸時代]]に入ると、『[[禁中並公家諸法度]]』に基づいて[[江戸幕府]]の対朝廷介入は本格化し、皇室の政治介入はほとんど出来なくなった。[[徳川氏]]を[[外戚]]に持つ[[明正天皇]]の即位でこの体制は確立されるが、明正天皇の治世中は[[後水尾天皇|後水尾上皇]]による院政が敷かれたため、明正天皇が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。さらに、[[霊元天皇|霊元上皇]]が院政を行うと、[[江戸幕府]]との間に確執を生み、朝幕関係に緊張を走らせた。結果、江戸幕府は院政の存在を黙認せざるをえなくなる。元々院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであったがために、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できず、江戸幕府による朝廷の統制に限界があることを露呈した格好となった。 江戸時代末期([[文化 (元号)|文化]]年間~[[弘化]]年間)に[[閑院宮]]出身の[[光格天皇]]が、息子の[[仁孝天皇]]に譲位して院政を行ったが、これが現在において最後の院政である。 === 皇位継承の法制化と院政の禁止 === 現在の日本では、院政は事実上禁止されている。[[明治]]22年([[1889年]])に制定された[[旧皇室典範]]第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の[[譲位]]は禁止され、天皇の[[崩御]]によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。 院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の[[朱子学者]](例:[[新井白石]]『[[読史余論]]』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「[[朝廷]]」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった<ref>これは摂関政治や武家政治(幕府)に対する理解にも影響を与えることとなった。本来[[君臣共治]]を基本としていた朝廷概念からすれば、摂関政治や武家政治なども朝廷への参画の形態の1つであって、貴族や武家は一時的な対立はあっても根本においては天皇権力と対立する存在ではないとされる。(河内 1986年、2007年)。</ref>。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。 そして[[昭和]]22年([[1947年]])に法律として制定された現行の皇室典範でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなっている。 == 院政の特殊性 == === 隠居制度との関連 === {{See also|隠居}} 皇位譲渡者が後継君主の後見として実質的な政務を行う政治体制は、日本独自の[[家督]]制度に由来している。当主が存命中から隠居して、家督を次代に譲って、家の実権を掌握し続ける、というもので、この制度がいつ頃から始まったかは、かなり古くからとされており、詳しくはわかっていない。日本人の思想に国家ならびに家の概念が固まりつつあった[[弥生時代]]に確立された、とする説も存在する。 [[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]<ref>[http://books.google.com/books/about/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0%E3%81%A8%E5%A6%BB%E3%81%8A%E6%B1%9F_%E3%81%94%E3%81%86.html?id=z5raxf66zE4C 徳川秀忠と妻お江(ごう)] - [[立石優]]著 Google ブックス</ref>のそれぞれの[[征夷大将軍]]職において、将軍職を退いて[[大御所]]となることも、院政の変形と言える。さらに、武家社会の大名家のみならず公家や神官職、さらには一般庶民の家庭においても隠居制度は浸透しており、いわば院政自体が隠居制度の延長線上に存在していた、と見做すことも可能である。 既述の通り明治年間以降は、皇室典範の施行に伴い、天皇が隠退して上皇になることは無くなった。また、明治以降西洋文化の流入に伴って、家督制度に対する日本人の思考にも変化が表れた影響から、隠居制度は急速に廃れていき、日本国憲法によって法的に家督制度と共に隠居制度は廃止された。 === 世界史上から見た院政 === 元々隠居制度は日本にしか存在しないものである。このことから恒久的な制度としては、日本の院政は非常に稀な政治体制であった。 他の多くの君主国では君主位が終身制となっており、死去するまで在位するのが通常である。他の権力者によって位を廃されたり、あるいは自発的に譲位する例はあるが、譲位の場合もその後は政治の実権を大幅に失うものであり、日本のように実権を握ったままの退位が常態化した例はほとんどない。日本以外では[[ベトナム]]の[[陳朝]]に類例がある。中国において、[[趙 (戦国)|趙]]の[[武霊王]]、[[南宋]]の[[孝宗 (宋)|孝宗]]、[[清]]の[[乾隆帝]]など、君主位を後継者に譲った後も権力を握っていた例である。 生前に譲位する君主はヨーロッパにも古くから今日まで存在するが(近代の[[オランダ]]や[[ルクセンブルク]]などのように譲位が常態化している国もある)、譲位にともない政治的実権も手放すのが常であり、院政とは言い難いものとされる。[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ラミロ2世 (アラゴン王)|ラミロ2世]]や[[神聖ローマ皇帝]]と[[スペイン]]王を兼ねた[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](カルロス1世)のように余生を修道院で送った例、あるいはアラゴン女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ]]や[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[ベレンゲラ (カスティーリャ女王)|ベレンゲラ]]のように女性君主が自らの息子に譲位した例などがある。ベレンゲラは息子[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]を王位に即けた後にその後見人となったが、これは例外的といえる。 == 比喩表現 == {{独自研究|section=1|date=2011年1月}} 「院政」という語は、比喩表現として現代の日本でも使われている。組織の実権が現在の首脳ではなく、前の首脳が握っている政治や企業のシステムを「院政」と呼んで比喩する。 現代日本の政治においては、スキャンダル等によって退陣を余儀なくされた[[内閣総理大臣]]が、なお与党内において最も強力な影響力を保持している場合に「院政」の比喩が用いられる。例えば、[[竹下登]]が政権退陣した後の[[宇野宗佑]]政権・[[海部俊樹]]政権が「竹下院政」と称されたことがある<ref>[[高橋利行]]の「永田町の愛すべき悪党たち」(PHP研究所)や[[浜田幸一]]の「YUIGON」(ポプラ社)に「竹下院政」の文言がある。</ref>。 但し、現代日本政治の「院政」は、名目上実権を持たない地位にいながら実質的な権力を行使することにより、権力行使に伴う法的・道義的責任を回避することを主目的とする「権力の二重構造」の意味で使われており<!--(例をあげれば[[創価学会]]の[[池田大作]]の名誉会長という地位は一般的にはそのように見られている)-->、歴史上の院政とは本質的に異なる。 また外国の政治でも、院政という言葉が使われている。[[ロシア連邦]]における2008年から2012年までの[[タンデム体制]]は、当時の大統領である[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]ではなく、前任の大統領である[[ウラジーミル・プーチン]]首相が実権を握っているとされ、「プーチンによる院政」という表現が日本のメディアで使用された<ref>[http://asahi-newstar.com/web/22_shinsou/?p=364 ロシア大統領選 プーチン“院政”は続くのか?] - 朝日ニュースター </ref>。また、[[江沢民]]が2002年から2003年にかけて総書記・国家主席のポストを江沢民に譲っても、2年間は重大問題について江沢民の裁定を仰ぐ合意が共産党指導部内にあったため、2002年から2004年は「江沢民の院政」という表現が日本のメディアで使用された<ref>[http://www.47news.jp/CN/200502/CN2005020701003054.html 2年間は江沢民院政で合意 02年党大会で指導部] 共同通信 2005年2月7日</ref>。 企業や団体での類似の現象も「院政」と比喩されることがあるが、この場合は、忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより、実権の更なる強化を図る意味合いが強い。例えば、[[社長]]を退任した後も[[会長]]として企業の実権を握り続けることを、「院政」ということがある<ref>[http://wjn.jp/article/detail/3565828/ “お家騒動の血”が騒ぐ! NEC矢野新会長院政のムリクリトップ人事(1)] - [[週刊実話]] 2010年3月11日</ref>。 == 院政一覧 == === 平安時代・鎌倉時代 === * [[白河天皇|白河上皇]] - [[堀河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[崇徳天皇]] * [[鳥羽天皇|鳥羽上皇]] - [[近衛天皇]]、[[後白河天皇]] * [[後白河天皇|後白河上皇]] - [[二条天皇]]、[[六条天皇]]、[[高倉天皇]]、[[安徳天皇]]、[[後鳥羽天皇]] * [[高倉天皇|高倉上皇]] - [[安徳天皇]] * [[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]] - [[土御門天皇]]、[[順徳天皇]]、[[仲恭天皇]] * [[後高倉院|後高倉法皇]] - [[後堀河天皇]] * [[後堀河天皇|後堀河上皇]] - [[四条天皇]] * [[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]] - [[後深草天皇]]、[[亀山天皇]] * [[後深草天皇|後深草上皇]] - [[伏見天皇]] * [[亀山天皇|亀山上皇]] - [[後宇多天皇]] * [[後宇多天皇|後宇多上皇]] - [[後二条天皇]]、[[後醍醐天皇]] * [[伏見天皇|伏見上皇]] - [[後伏見天皇]]、[[花園天皇]] * [[後伏見天皇|後伏見上皇]] - 花園天皇、[[光厳天皇]] === 南北朝時代 === ==== 北朝 ==== * [[光厳天皇|光厳上皇]] - [[光明天皇]]、[[崇光天皇]] * [[後光厳天皇|後光厳上皇]] - [[後円融天皇]] * [[後円融天皇|後円融上皇]] - [[後小松天皇]] ==== 南朝 ==== * [[長慶天皇|長慶上皇]] - [[後亀山天皇]](院政を執ったと推定されているが、異説もある) === 室町時代 === * [[後小松天皇|後小松上皇]] - [[称光天皇]]、[[後花園天皇]] * [[後花園天皇|後花園上皇]] - [[後土御門天皇]] === 江戸時代 === * [[後水尾天皇|後水尾上皇]] - [[明正天皇]]、[[後光明天皇]]、[[後西天皇]]、[[霊元天皇]] * [[霊元天皇|霊元上皇]] - [[東山天皇]]、[[中御門天皇]] * [[東山天皇|東山上皇]] - 中御門天皇 * [[桜町天皇|桜町上皇]] - [[桃園天皇]] * [[光格天皇|光格上皇]] - [[仁孝天皇]] 注: *[[太上天皇|上皇]]の中には後に[[出家]]して[[太上法皇|法皇]]となった者が多い。 *白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇その他多数の上皇(及びごく一部の皇族)は[[治天の君]]として君臨した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * 宮内庁「皇室制度史料(太上天皇(三)」吉川弘文館、1980年。因みに、同書のP66~P69に院政対象者の一覧が掲載されている。 * 美川 圭『院政の研究』(臨川書店、1996年) ISBN 465303284X * 美川 圭『院政 <small>もうひとつの天皇制</small>』(中公新書、2006年) ISBN 4121018672 * [[元木泰雄]]『院政期政治史研究』(思文閣、1996年) ISBN 4784209018 * 槙 道雄『院政時代史論集』(続群書類従完成会、1993年) ISBN 4797106522 * 白根靖大『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4642027874 * 佐々木宗雄『平安時代国制史研究』(校倉書房、2001年) ISBN 4751732005 * 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年) ISBN 4642021612 * 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642028633 * 筧 敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年) ISBN 475173380X * 樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年) ISBN 4751742809 == 関連項目 == * [[院司]] * [[院近臣]] * [[院庁下文]] * [[院宮王臣家]] * [[女院]] {{DEFAULTSORT:いんせい}} [[Category:院政|*]]
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