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阿川弘之
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{{Infobox 作家 | name = 阿川 弘之<br />(あがわ ひろゆき) | image = | image_size = | caption = <!--画像説明--> | birth_date = {{生年月日と年齢|1920|12|24}} | birth_place = {{jpn}}・[[広島県]][[広島市]] | occupation = [[小説家]] | language = [[日本語]] | nationality = {{jpn}} | education = [[学士]]([[文学]]) | alma_mater = [[東京帝国大学]][[国文科]] | period = [[1952年]] - [[2013年]] | genre = [[小説]]<br />[[随筆]] | movement = [[第三の新人]] | notable_works = 『春の城』(1952年)<br />『山本五十六』(1965年)<br />『井上成美』(1986年) | awards = [[読売文学賞]](1953年・2002年)<br />[[新潮社文学賞]](1966年)<br />[[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]](1979年)<br />[[日本文学大賞]](1987年)<br />[[野間文芸賞]](1994年)<br />[[毎日出版文化賞]](1994年)<br />[[文化勲章]](1999年)<br />[[菊池寛賞]](2007年) | debut_works = 『春の城』(1952年) | children = [[阿川尚之]](長男)</br>[[阿川佐和子]](長女) | relations = [[阿川甲一]](父) | influences = [[志賀直哉]] }} '''阿川 弘之'''(あがわ ひろゆき、[[1920年]]([[大正]]9年)[[12月24日]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]、[[評論家]]。 [[広島県]][[名誉市民|名誉県民]]。[[日本芸術院]]会員。[[日本李登輝友の会]]名誉会長。[[文化勲章]]受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、[[大日本帝国海軍]][[提督]]を描いた3部作『[[山本五十六]]』『[[米内光政]]』『[[井上成美]]』など。 阿川は『[[私の履歴書]]』では、[私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な[[中流階級|中流家庭]]に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく[[志賀直哉]]の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 115頁</ref>。[[法学者]]の[[阿川尚之]]は長男、[[タレント]]・[[エッセイスト]]の[[阿川佐和子]]は長女。 == 経歴 == ==== 生い立ち ==== [[阿川甲一]]の長男として[[広島市]]白島九軒町土手通り(現[[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島九軒町]])に生まれた([[本籍地]]は[[山口県]][[美祢郡]]伊佐村(現[[美祢市]]伊佐町)。{{main2|父と母の系統については[[#家族・親族]]を}} ==== 学生時代 ==== [[偕行社]]附属済美小学校、[[広島大学附属中学校・高等学校|広島高等師範学校附属中学校]]、[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「[[志賀直哉]]」。 ==== 海軍入り ==== [[File:Agawa Hiroyuki.JPG|thumb|150px|right|<center>一種軍装の阿川弘之</center>]] [[1942年]](昭和17年)9月[[海軍予備員|海軍予備学生]]として海軍に入隊する。 [[1943年]](昭和18年)8月に予備[[少尉]]任官、[[軍令部]]勤務を命ぜられた<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 203頁</ref>。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが[[中国語]]ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 208頁</ref>。 [[中尉]]に進級した直後の[[1944年]](昭和19年)8月「[[支那]]方面艦隊司令部附」の辞令が出る<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 209頁</ref>。 ==== 戦後 ==== [[1946年]](昭和21年)2月「[[ポツダム進級|ポツダム大尉]]」という身分で、[[長江|揚子江]]を[[上海市|上海]]へ下り、3月末博多へ上陸復員する<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 211頁</ref>。[[広島市への原子爆弾投下]]により焼き尽くされた故郷の街を見る<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20110505_19230.html 阿川佐和子さん「震災を経験した子供は私たちより強くなる」]</ref>。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。実家の川向こうの[[牛田 (広島市)|牛田という町]]の、雨漏りのするボロ家にのがれて、[[中風]]の父親と、[[白内障]]の母親と[[甥]]にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 211-212頁</ref>。 ==== 作家として ==== [[志賀直哉]]に師事して小説を書く。 主な著作は『春の城』([[読売文学賞]])、『雲の墓標』、『山本五十六』([[新潮社文学賞]])、『米内光政』、『井上成美』([[日本文学大賞]])、『志賀直哉』([[野間文芸賞]]、[[毎日出版文化賞]])、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』([[読売文学賞]])など。 [[1979年]](昭和54年)、日本芸術院会員。[[1999年]](平成11年)、文化勲章受章。 == 人物像 == ==== 学生時代 ==== * '''二・二六事件''' *:[[1936年]]([[昭和]]11年)[[2月26日]]、中学3年生の時に[[二・二六事件]]が起こった。阿川はひどく興奮し、帰宅するなり母親に向かい“こういうことは大嫌いじゃ<ref name="Rirekishop149">『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 149頁</ref>。無茶苦茶じゃ<ref name="Rirekishop149"/>。これじゃけぇ[[大日本帝国陸軍|陸軍]]はいやなんじゃ<ref name="Rirekishop149"/>。”と大声の[[広島弁]]でまくし立てた<ref name="Rirekishop149"/>。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で丸橋さんという近所の退役[[大佐|陸軍大佐]]と[[碁]]を打っていた<ref name="Rirekishop150">『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 150頁</ref>。母から“大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな”と小声でたしなめられたが、阿川は“何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ”と胸のうちで思っていたという<ref name="Rirekishop150"/>。 *:二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになった<ref name="Rirekishop151">『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 151頁</ref>。 * '''採用試験''' *:海軍経理学校で第二期兵科予備学生の採用試験の際の口述試問で志望動機を聞かれ“はい。陸軍が嫌いだからであります<ref name="Rirekishop192">『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 192頁</ref>”と述べた。あとで考えて、反軍思想の持ち主と取られかねない返答だったなと思ったが、実際は試験官が“にやっ”としただけですんだ<ref name="Rirekishop192"/>。 ==== 作家として ==== *主要作品は、戦記文学記録文学である。 *志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者である。当代一の作家と紹介されることがある(ちくま文庫「蛙の子は蛙の子」)。時代に媚びることのない正確で淡い情感を呈する文体や表現に定評があり(新潮社 「春の城」「雲の墓標」)、しばしば国語教育の教材などに取り上げられた。近年では、自身や[[阿川佐和子]](長女)、[[北杜夫]]、[[遠藤周作]]の随筆に登場してくる、短気で頑固で究極の自分本位とも思える一面の他、ユーモアが横溢し、軽妙洒脱で洒落のわかる粋人(講談社「春風落月」)としても読者層に知られる。 *[[歴史的仮名遣]]派である。 *評論家の[[半藤一利]]は「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである」と『阿川弘之全集』([[新潮社]]、全20巻)の刊行に際し言葉を寄せている。 *『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』で巻頭随筆『[[葭の髄から]]』を1997年6月号から2010年9月号まで連載した。連載をまとめた単行本・文庫本が数冊出されている。老衰を理由に連載を終了し、連載を単行本化した『天皇さんの涙』をもって文筆活動を終えることにすると表明した。 ==== 交友関係 ==== * 第三の新人と言われた作家グループの[[遠藤周作]]や、[[吉行淳之介]]、また紀行文等で知られる[[開高健]]らとは親友で、北杜夫、三浦朱門、安岡章太郎、元編集者の大久保房男らとの交友も知られており、随筆などでその交友ぶりが存分に記されている。 == 受賞歴 == * 1952年 『春の城』で第4回[[読売文学賞]][小説賞] * 1960年 『なかよし特急』で第7回[[産経児童出版文化賞|サンケイ児童出版文化賞]] * 1966年 『山本五十六』で第13回[[新潮社文学賞]] * 1979年 第35回恩賜賞・日本藝術院賞[文芸/小説・戯曲] * 1983年 第30回交通文化賞 * 1987年 『井上成美』で第19回[[日本文学大賞]][学芸部門] * 1993年 [[文化功労者]] * 1994年 『志賀直哉』で[[野間文芸賞]]、[[毎日出版文化賞]] * 1999年 [[文化勲章]]、第3回海洋文学大賞特別賞、広島県名誉県民 * 2001年 『食味風々録』で第53回[[読売文学賞]][随筆・紀行賞] * 2007年 第55回[[菊池寛賞]] == 家族・親族 == === 阿川家 === ([[山口県]][[美祢市]][[伊佐町]]、広島県[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島九軒町]]、[[神奈川県]][[横浜市]]、[[東京都]]) ; 家系 [[File:Agawa Family.jpg|thumb|300px|right|<center>父[[阿川甲一]](左)と'''阿川弘之'''(右)<br />([[安東市|安東]]の兄宅の食事風景)</center>]] : 阿川弘之は[[山口県]]・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「[[鎌倉時代]]の武将[[佐々木定綱]]の孫秀綱は[[13世紀]]の中ごろ[[長門国]][[豊浦郡]]阿川の地を賜って移り住み[[佐々木氏|佐々木]]姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、[[美祢郡]]の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は[[養子縁組]]その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという<ref>『亡き母や』 139-140頁</ref>。 : しかし父[[阿川甲一|甲一]]の生家の阿川家は代々の農家であり、[[近江源氏]]直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「[[近江源氏]]直系の鎌倉武将一族と伊佐のお寺の墓石の下に眠る私の[[曾祖父|ひいぢいさん]]ひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代のへだだりが大き過ぎる<ref name="hahap140">『亡き母や』 140頁</ref>。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とではおよそ五百年のひらきがある<ref name="hahap140">『亡き母や』 140頁</ref>。[[宇治川の戦い|宇治川の先陣乗り]]の長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感を伴ひにくかつた<ref name="hahap141">『亡き母や』 141頁</ref>。 : …祖父利七以前の御先祖に正直なところ私はあんまり興味が湧かない<ref name="hahap141"/>。'''三之助'''、'''七五郎'''から'''利七'''夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分を生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい<ref name="hahap141"/>。親しみの情なぞ皆無に近い<ref name="hahap141"/>。興を催すのはやはり肌身の感触を知ってゐる父[[阿川甲一|甲一]]の前半生、伊佐の[[農家]]の小倅(こせがれ)が志を立てて家郷を出て学を修め[[シベリア]]へ渡り[[満州|満洲]]へ移つて事業を起すまでの立身の道程である<ref name="hahap142">『亡き母や』 142頁</ref> 。…初代三之助の歿年を[[西暦]]で記すと[[1743年|一七四三年]]<ref name="hahap138"/><ref>阿川家の初代三之助は[[寛保]]3年([[1743年]])5月17日に没した。[[戒名]]は“釈浄円信士”(『亡き母や』 137-138頁)</ref>、ざつと数へて[[幕末]]維新まであと百二十年、その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、[[朱子学]][[蘭学]]を学んだ者も、勤皇の[[志士]]も、[[郷土史]]に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの[[自作農]]であつたと思はれる」という<ref name="hahap138 - 139">『亡き母や』 138 - 139頁</ref>。 : 初代'''三之助'''の子'''七五郎'''が[[家督]]を継いで[[天明]]7年7月13日没<ref name="hahap138">『亡き母や』 138頁</ref>。[[戒名]]“釈了秀信士”<ref name="hahap138"/>。七五郎に'''幸右衛門'''が生まれ、幸右衛門に'''幸治郎'''が生まれ、7代目'''阿川利七'''の時、時代は[[明治時代|明治]]に入る<ref name="hahap138"/>。[[旧暦]]の明治3年11月28日利七と妻のしの間に男の子が生まれた<ref name="hahap138"/>。弘之の父甲一である<ref name="hahap138"/>。伊佐の阿川家は甲一の父利七が早く亡くなって、あとに2人の娘(養子'''谷五郎'''を迎えて太七を生む長女'''りき'''。のち嫁いで村上姓に変る次女'''くま''')と一人の息子('''甲一''')が残り寡婦のしが一家の主だった<ref name="hahap143">『亡き母や』 143頁</ref>。 : また阿川は父の郷里山口について「[[本籍地]]は山口県と何かに書いたら山口県人会から是非出てくれといわれて出席したが、話題になることといえば、戦後何十年間に何人[[総理大臣]]が出たという話ばかりするので嫌になって二度と行かなくなった」と話している<ref> 『日本海軍錨揚ゲ!』 84頁</ref>。 ; 生家 * 父・'''[[阿川甲一|甲一]]'''([[実業家]]) [[File:Agawa Kouichi1.JPG|thumb|150px|right|<center>父[[阿川甲一]]<br />(壮年の頃)</center>]] :[[1870年]]([[明治]]3年)11月生 ~ [[1948年]]([[昭和]]23年)6月没{{See|阿川甲一}} * 母・'''キミ'''([[大阪]]、[[刀剣]]・[[骨董品|骨董]]商・石井定次郎の娘) :[[1879年]](明治12年)5月生 ~ [[1955年]](昭和30年)6月没 : 母キミは[[大阪]]出身で生家は[[刀剣]]・[[骨董品|骨董]]商であった。阿川によれば「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋の大坂女、父甲一は[[山口県]]の出、私の[[本籍]]は今も[[山口県]][[美祢市]]に在り、広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少の違和感を覚える。少年時代、学校では[[広島弁]]、家へ帰るとそれに[[大阪]][[アクセント]]の相当まじった言葉、両方使い分けていた。」という<ref>『<small>[[私の履歴書]]</small> 第三の新人』 117頁</ref>。 [[File:Agawa Family1.JPG|thumb|150px|right|母キミ]] : 大阪の没落[[商家]]の娘キミは十八、九の時一度結婚するが、相手の男がひどい酒乱だったためすぐ別れて下宿屋兼業の[[旅館]]へ女中奉公に出た<ref name="hahap47">『亡き母や』 47頁</ref>。その[[旅館]]が父[[阿川甲一|甲一]]の内地へ帰って来た時の定宿であった<ref name="hahap47"/>。やがて甲一とキミとの間に関係が生じた。 : 阿川弘之によると、「我が家の[[本籍地]]、山口県[[美祢市]]役所の住民係に頼んで取り寄せた[[戸籍謄本]]を見ると―こんなもの丹念に見るのは実に久しぶりだが、[[戸主]]欄冒頭“[[1910年|明治四拾参年]]弐月拾四日石井キミト[[婚姻]]届出仝日云々”と、受附けた[[大阪市]]西区役所戸籍吏の名前が記されている<ref name="hahap41">『亡き母や』 41頁</ref>。これは、数への八つに成長したひとり娘の静栄が小学校へ上る二ヶ月前の日附である<ref name="hahap41"/>。実質上の夫婦となつてから約八年間、母は何故阿川の籍へ入れてもらへなかつたのだらう<ref name="hahap41"/>。その八年間に[[日露戦争]]があつて、[[ロシア語]]の通訳官として従軍した父は、戦勝後[[長春]]で満鉄[[下請け]]の土木事業を始める<ref name="hahap42">『亡き母や』 42頁</ref>。戦勲により[[南満州鉄道株式会社|南満洲鉄道株式会社]]専属[[実業家]]の地位を得た父[[阿川甲一|甲一]]にとつて、おキミさんは“[[内縁]]の妻”或は単なる“大阪の女”に過ぎなかつたのか<ref name="hahap42"/>。 :ともあれ、幼い娘がもうすぐ学校へ通ひ出す<ref name="hahap42"/>。娘の世間躰と、一方、満洲に置いてゐた隠し子(幸寿)を連れ帰つて“育ててやつてくれ”と押しつけた負ひ目とそれやこれやでやうやく[[内縁]]の“大阪の女”を正妻と認め入籍したのではないかと想像するのだけれど本当のところは何も分らない<ref name="hahap42"/>。」という。 * 異母兄・'''幸寿'''(満鉄社員、[[満州国]][[官吏]]) :[[1901年]](明治34年)1月生 ~ [[1968年]](昭和43年)没 : 兄幸寿は父[[阿川甲一|甲一]]の[[庶子]]であり、[[ハルビン]]の日本料理屋の抱へ[[芸者]]たちの[[髪]]を結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと[[小学生]]の時母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた<ref>『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 122頁</ref>。[[京都大学|京大]]経済学部を卒業後、[[南満州鉄道|満鉄]]に入社し、後に[[満州国]][[官吏]]に移籍して[[安東市|安東]]の[[市長]]をつとめた<ref>『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 122、128頁、『亡き母や』 57-72頁</ref>。 : [[長崎県]][[島原半島]]の海べの村で、学齢に達するまで[[野人|野性]]のままで育った兄幸寿は、腕っ節の強いかなりの乱暴者だった<ref name="hahap59">『亡き母や』59頁</ref>。入学を許された長春日本人小学校の先生から始終「保護者出頭サレタシ」の呼び出し状が届いた<ref name="hahap59"/>。女生徒をしつこく追い回した挙句、顔をぶん殴ったというので問題になったことがあった<ref name="hahap59"/>。これは上級生の女の子が「お母さんいないくせに沢山たべるのよ、あいつ[[豚]]だ、豚だ」とみなの笑いものにし、幸寿がひどく怒ったためであった<ref name="hahap59"/>。 : 天王寺中学(現・[[大阪府立天王寺高等学校|天王寺高校]])の同級生に、大阪高検の検事長、最高裁判事を経て弁護士になり[[三島事件]]被告の弁護を担当した[[草鹿浅之介]]がいる<ref name="hahap51">『亡き母や』51頁</ref>。草鹿浅之介の長兄は、真珠湾を奇襲した[[第一航空艦隊]]の参謀長[[草鹿龍之介]]提督である<ref name="hahap51"/>。弘之は草鹿家を訪問したとき草鹿中将は「僕は君の兄さんの阿川幸寿君に大阪で[[ビール]]を御馳走になったことがあるよ」と述べた<ref name="hahap52">『亡き母や』52頁</ref>。「人にはようしてやれ」が幸寿の口癖で、それを終生言いつづけたし、自分がお山の大将株になってそれを実行した<ref name="hahap51"/>。 :* 同妻・'''光子'''(広島、[[回船問屋]]加川百助の娘<ref name="hahap33">『亡き母や』33頁</ref>) ::加川百助は父の[[碁]]友達だった<ref name="hahap33"/>。この縁談が成立したについては「仏の百助さん」と言われた百助の寛容さに負うところが多い<ref name="hahap37">『亡き母や』37頁</ref>。話を進めるにあたって幸寿が自分の実の子でないことをあらかじめ説明しておこうとするキミに「ようがんすようがんす、それはもう触れんでようがんす」と百助は全く問題にしなかったという<ref name="hahap37"/>。 * 姉 : '''静栄'''([[岐阜県]]、[[南満州鉄道|満鉄]]社員・川上喜三の妻<ref name="hahap37"/>) :[[1903年]](明治36年)12月生 ~ 没 :: 同長男・'''哲夫'''([[整形外科]]医)<ref>『亡き母や』121頁</ref> : '''公子'''(きみこ) :[[1912年]](明治45年)2月生 ~ [[1917年]]([[大正]]6年)没 :満五歳の時[[結核]]性[[脳膜炎]]を患って[[夭逝]]<ref>『亡き母や』33-39頁</ref> ; 家庭 * 妻 * 長男・'''[[阿川尚之|尚之]]'''<ref>尚という字が当時常用漢字外であることから、命名申請を役所で却下され、やむを得ずナホユキ(旧かな遣い。ナオユキと読む)と届け、後年「尚」が常用漢字に入ったのちに家庭裁判所へ届けて、戸籍上も尚之となったというエピソードがある。</ref>(法学者・[[慶應義塾大学]][[教授]]) :[[1951年]](昭和26年)4月生 ~{{See|阿川尚之}} * 長女・'''[[阿川佐和子|佐和子]]'''([[エッセイスト]]、タレント) :[[1953年]](昭和28年)11月生 ~{{See|阿川佐和子}} * 二男 * 三男 : 三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生までの様子は小説「末の末っ子」で詳しくユーモラスに記している。 === 略系図 === {{familytree/start}} {{familytree|border=1| | | | | | | | |ri1| | | | | | | | | | | | | |ri1=阿川利七}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | |}} {{familytree|border=1| | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.|||| | |}} {{familytree|border=1| | | | |kou1| |ku| |ri2| | | | | | | |kou1=[[阿川甲一]]|ku=くま|ri2=りき}} {{familytree|border=1| | | | | |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | |}} {{familytree|border=1| | |,|-|-|^|-|-|.| | | | |!|}} {{familytree|border=1| |kou2| | | |hiro| | |ta| | | |kou2=阿川幸寿|hiro='''[[阿川弘之]]'''|ta=阿川太七|boxstyle_hiro=background-color: #afa;}} {{familytree|border=1| | | | | | | | |!| | |||| | |}} {{familytree|border=1| | |,|-|-|-|v|-|^|-|v|-|-|-|-|.}} {{familytree|border=1| |dau| |son1| |son2| | |nao| |son1=男|son2=男|dau=[[阿川佐和子]]|son3=男|nao=[[阿川尚之]]}} {{familytree/end}} == 著書 == * 年年歳歳 (京橋書院 1950年 新編「水の上の会話」新潮文庫) * 春の城 (新潮社 1952年 文庫・改版) * 魔の遺産 (新潮社 1954年 新編PHP文庫) * 志賀直哉の生活と作品 (創芸社 1955年) * 雲の墓標 (新潮社 1956年 文庫・改版) * 夜の波音 (東京創元社 1957年) * お早く御乗車ねがいます (中央公論社 1958年、中公文庫 2011年) * なかよし特急 (中央公論社 1959年) * [[きかんしゃ やえもん]]([[岡部冬彦]]画 岩波書店 1959年) * カリフォルニヤ (新潮社 1959年) * 空旅・船旅・汽車の旅 (中央公論社 1960年) * ぽんこつ (中央公論社 1960年 のち潮文庫) * 坂の多い町 (新潮社 1960年) * 青葉の翳り (講談社 1961年 のち[[講談社文芸文庫]]) * ぽんこつぱとろうる (雪華社 1961年) * へりこぷたのぶんきち (フレーベル館(トッパンのキンダー絵本) 1962年) * カレーライス (新潮社 1962年 のち「カレーライスの唄」講談社文庫上・下) * あひる飛びなさい (筑摩書房 1963年 のち集英社文庫) * ヨーロッパ特急 (中央公論社 1963年) * 山本五十六 (新潮社 1965年 のち新版、文庫上・下 同改版) * 銀のこんぺいとう (集英社 1965年 のち「こんぺいとう」集英社文庫) * 舷燈 (講談社 1966年 文庫、新編・講談社文芸文庫) * 私のソロモン紀行 (中央公論社 1967年) * 軍艦ポルカ (東方社 1967年 のち集英社文庫) * 黒い坊ちゃん (集英社 1967年) * 水の上の会話 (新潮社 1968年 文庫) * 犬と麻ちゃん (文藝春秋 1969年 文庫上・下) * いるかの学校 (文藝春秋 1971年 文庫上・下) * 私記キスカ撤退 (文藝春秋 1971年 文庫) * 私のなかの海軍予備学生 (昭和出版 1971年) * 乗りもの紳士録 (ベストセラーズ 1973年 角川文庫、旺文社文庫) * 暗い波濤 (新潮社上・下 1974年 文庫上・下) * 蒸気機関車 (平凡社カラー新書 1975年) * 軍艦長門の生涯 (新潮社上・下 1975年 文庫上・中・下) * 鮎の宿 (六興出版 1975年 のち講談社文芸文庫) * 山本元帥!阿川大尉が参りました (中公文庫 1975年) * 末の末っ子 (文藝春秋 1977年 文庫) * [[論語]]知らずの論語読み (講談社 1977年 のち同文庫、PHP文庫、新編・講談社文芸文庫) * [[南蛮阿房列車]]-乗物狂世界を駆ける (新潮社 1977年 文庫、新編・光文社文庫) * ある海軍予備学生の自画像 (現代史出版会 1978年) * 米内光政 (新潮社上・下 1978年 のち新版、文庫・改版) * あくび指南書 (毎日新聞社 1981年 講談社文庫) * 南蛮阿房第二列車 (新潮社 1981年 文庫) * テムズの水 (新潮社 1982年) * 贋車掌の記 (六興出版 1982年) * 桃の宿 (講談社 1982年 のち講談社文芸文庫) * 海軍こぼれ話 (光文社 1985年 文庫) * 井上成美 (新潮社 1986年 のち新版、文庫・改版) * 大ぼけ小ぼけ (講談社 1986年 文庫) * 国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録 (光文社カッパ・ホームス 1987年 のち文庫)(口述筆記) * 断然欠席 (講談社 1989年 文庫) * 女王陛下の阿房船 (講談社 1990年 文庫) * 国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論 (光文社カッパ・ホームス 1992年)(口述筆記) * [[志賀直哉]] (岩波書店上・下 1994年、新潮文庫上・下 1997年) * 七十の手習ひ (講談社 1995年 文庫) * [[高松宮]]と海軍 (中央公論社 1996年 文庫) * 雪の進軍 (講談社 1996年 文庫) * 故園黄葉 (講談社 1999年 文庫) * [[葭の髄から]] (文藝春秋 2000年 文庫) * 食味風々録 (新潮社 2001年 文庫) * 日本海軍に捧ぐ (PHP文庫 2001年) * 阿川弘之自選紀行集 (JTBパブリッシング 2001年) * 春風落月 (講談社 2002年 文庫) * 人やさき犬やさき 続 葭の髄から (文藝春秋 2004年 文庫) * 亡き母や (講談社 2004年 文庫・講談社文芸文庫) * エレガントな象 続々 葭の髄から (文藝春秋 2007年 文庫) * 大人の見識 (新潮新書 2007年) (口述筆記) * 言葉と礼節 阿川弘之座談集 (文藝春秋 2008年 文庫 2012年) * 我が青春の記憶 (文藝春秋 2008年) * 天皇さんの涙 葭の髄から・完 (文藝春秋 2011年 文庫 2013年) ※本作をもって擱筆を宣言 * 汽車に乗って船に乗って 阿川弘之自選紀行集 (ベストセラーズ 2011年) ※引退宣言後の刊行。あとがきを新たに書き下ろしている。 * 森の宿 (新編・講談社文芸文庫 2011年) ※引退宣言後の刊行。あとがきを新たに書き下ろしている。 * 鮨 そのほか (新潮社 2013年) ※引退宣言後の刊行。未単行本化作品集。自身の近況や旧友安岡章太郎について言及した「あとがき」を書き下ろし。 === 主な作品集・全集 === * 阿川弘之集 新鋭文学叢書 第1 (筑摩書房 1960年) 小説9篇 * 阿川弘之の本 (ベストセラーズ 1970年) 小説4篇と随筆18篇 * 阿川弘之集 新潮日本文学51 (新潮社 1970年)「山本五十六」「雲の墓標」「年年歳歳」 * 阿川弘之 新潮現代文学39 (新潮社 1979年) 「雲の墓標」「米内光政」 * '''阿川弘之自選作品''' (全10巻 新潮社 1977年-78年) * '''阿川弘之全集''' (全20巻 新潮社 2005年-2007年) == 主な編著・共編著 == * 現代の冒険7 大空を翔ける (責任編集 文藝春秋 1970年) * 乗物万歳 ([[北杜夫]]対談 中央公論社 1977年 文庫) * ブルートレイン長崎行 (ポール・セルー共著 講談社 1979年) * 現代の随想6 志賀直哉 (彌生書房 1981年) * 連合艦隊の名リーダーたち (プレジデント社 1982年) * [[日本の名随筆]]15 旅 (作品社 1983年) * [[斎藤茂吉]]随筆集 (北杜夫共編 岩波文庫 1986年) * 機関車・食堂車・寝台車 [エッセイおとなの時間]( 新潮社 1987年) * 蛙の子は蛙の子-父と娘の往復書簡 (阿川佐和子共著 筑摩書房 1997年 文庫) * 志賀直哉交友録 (講談社文芸文庫 1998年) * 酔生夢死か、起死回生か。(北杜夫対談 新潮社 2002年 文庫) * 日本海軍、錨揚ゲ! ([[半藤一利]]対談 PHP研究所 2003年 文庫) == 翻訳 == * 小さなきかんしゃ ([[グレアム・グリーン]] 文化出版局 1975年) * 小さな乗合い馬車 (グレアム・グリーン 文化出版局 1976年) * 小さなローラー (グレアム・グリーン 文化出版局 1976年) * 鉄道大バザール (ポール・セルー 講談社 1977年 文庫、文芸文庫 各上下) * ふしぎなクリスマス・カード (ポール・セルー 講談社 1979年) * 古きパタゴニアの急行列車 中米編 (ポール・セルー 講談社 1984年) == CM == *[[ネスカフェ]] ゴールドブレンド (1981年) == 関連項目 == * [[私の履歴書]] * [[第三の新人]] == 関連人物 == * [[志賀直哉]] * [[武者小路実篤]] * [[里見とん|里見弴]] * [[谷川徹三]] * [[北杜夫]] * [[三浦朱門]] * [[遠藤周作]] * [[安岡章太郎]] * [[吉行淳之介]] * [[李登輝]] == 参考文献 == * 阿川弘之 『亡き母や』 [[講談社]] 2004年 * 『<small>私の履歴書</small> 第三の新人』 [[日本経済新聞社]]〈日経ビジネス人文庫〉 2007年 113-221頁 * 阿川弘之、[[半藤一利]] 『日本海軍、錨揚ゲ!』 [[PHP研究所]] 同文庫 2005年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kennsyou/1292561979565.html 広島県名誉県民 阿川弘之] * [http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_h_agawa.html 対談] {{DEFAULTSORT:あかわ ひろゆき}} [[Category:阿川弘之|*]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本の随筆家]] [[Category:紀行作家]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:日本藝術院会員]] [[Category:大日本帝国海軍予備員]] [[Category:鉄道に関係する人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:広島市出身の人物]] [[Category:美祢市]] [[Category:1920年生]] [[Category:存命人物]]
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