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関行男
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{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 関 行男 | 各国語表記 = | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1921|8|29|no}} | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1921|8|29|1944|10|25}} | 画像 = Lt Yukio Seki in flightgear.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 出撃直前の関(1944年10月20日) | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}} [[愛媛県]][[西条市]] | 死没地 = {{PHL}} [[サマール島]]沖 | 埋葬日 = | 埋葬地 = | 所属組織 = {{IJNAVY}} | 軍歴 = [[1941年]] - [[1944年]] | 最終階級 = [[海軍中佐]] | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }} '''関 行男'''(せき ゆきお、[[1921年]][[8月29日]] - [[1944年]][[10月25日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人、[[戦闘機]][[パイロット]]。 [[太平洋戦争]]において、初の[[神風特別攻撃隊]]の一隊である「敷島隊」を隊長として指揮し、アメリカ海軍の[[護衛空母]][[セント・ロー_(護衛空母)|セント・ロー]]を撃沈した。死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。 == 経歴 == === 誕生~海軍兵学校入学まで === [[File:Yukio Seki Heigakkou.jpg|right|200px|thumb|兵学校4号生徒時代]] [[1921年]][[8月29日]]に、[[愛媛県]][[西条市]]栄町で[[古物商]]を営む家に生まれる<ref name="a">[[#ウォーナー上]]p.94</ref>。現西条市立大町小学校、[[愛媛県立西条高等学校|旧制西条中学校]]を経て[[1938年]]12月に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](70期)へ進学した。同期には[[菅野直]]大尉のほか、[[高井太郎]]([[イースタン・カーライナー]]社長)、[[後宮俊夫]]([[日本基督教団]]総会議長)がいる。関家では、行男が海軍兵学校へ進学した際に繁子という母方の親族に当たる女性を[[養子|養女]]としており<ref>[[#ウォーナー上]]p.90</ref><ref name="az">Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ トップページ</ref><ref>{{Cite web|url=http://ameblo.jp/sanaemonblog/entry-10775050165.html|title=Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ 関行男大尉●小野家親族の真意と誇り|publisher=さなえもん|language=日本語|accessdate=2011-09-14}}</ref>、行男の父親は海軍兵学校を卒業した[[1941年]][[11月15日]]より前に亡くなっている<ref name="b">[[#ウォーナー上]]p.93</ref>。父親の没後、母・サカエは経営していた古物商を廃業し、[[草餅]]の行商人へ転じた<ref name="a"/>。父勝太郎は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった[[海軍兵学校]]に行くつもりであった。父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したが、 「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論した。そう言い合う二人を見て母サカエはおろおろするばかりであった。 行男は勉強が出来、文才があり、数学も賞を貰ったりしていました。またテニスの主将として全国大会にも出場したりと、将来が有望であった。父親は「あいつは、わしらには出来過ぎとる。」と、サカエにぼやいた。昭和13年12月、行男は兵学校に入学する。 === 兵学校時代~フィリピン進出 === 海軍兵学校に在籍する者の中で、関は一、二を争うほどの高身長でとても目立っており、新入生恒例の姓名申告では上級生に唯一褒められたという<ref>[[#ウォーナー上]]pp.90-91 。同期・宮崎富哉の回想</ref>。その一方で、養妹である繁子の自慢話を同期生に話したり、繁子と他の生徒の許婚を比較して「繁子の方が上だ」というような記述を日記に記述していたことが発覚して制裁を受け、関が記述した[[日記]]が全生徒の見世物にされたこともあった<ref>[[#ウォーナー上]]pp.92-93</ref>。しかし、繁子の件で制裁を受けた場合を除けば、[[料亭]]での[[芸者]]遊びによって芸者にあまり関心を持たなかったのを例として<ref>[[#ウォーナー上]]p.107</ref>、一見して異性に対する関心は無かったようだという<ref name="b"/>。それでも、海軍兵学校卒業後に[[水上機母艦]]「[[千歳 (空母)|千歳]]」に少尉候補生として配属されていた時、渡辺エミ子という[[鎌倉市|鎌倉]]で有名な医者の娘から[[慰問袋]]を送られ<ref group="注釈">慰問袋は「初期は戦地の個人宛に送ったものの」「次第に不特定の相手に送ることが多くなってきた」([[#町田]]p.68)。渡辺エミ子が関宛に送ったのか、それとも送られた先が偶然にも関だったのかは不明。</ref>、その礼状に「[[横須賀市|横須賀]]に帰ったら直接会ってお礼したい」と記述していた<ref name="a"/>。その後、関が横須賀へ戻った際に約束していた出会いは実現するものの、関はエミ子ではなく、同行していたエミ子の姉に一目惚れする<ref name="c">[[#ウォーナー上]]p.108</ref>。その姉こそが、のちに妻となる渡辺満里子である<ref name="c"/>。 その後、[[1943年]]に[[霞ヶ浦海軍航空隊]]へ入隊<ref>[[#ウォーナー上]]p.107</ref>すると海軍中尉に任官<ref name="e">[[#ウォーナー上]]p.146</ref>し、[[1944年]]には練習航空隊課程([[艦上爆撃機]])を修了して霞ヶ浦海軍航空隊で飛行教官に就任<ref name="d">[[#金子]]p.47</ref>、[[1944年]][[5月1日]]には海軍大尉へ進級した<ref name="e"/>。 同年5月31日、関は[[福永恭助]]退役海軍少佐夫妻の[[仲人|媒酌]]のもと、渡辺満里子との[[結婚式]]を[[水交社]]で執り行った。<ref name="e"/><ref group="注釈">この結婚は[[海軍大臣]]の許可を得たもので、同年[[5月11日]]に婚姻願を提出して[[5月26日]]に許可が下りている([[#ウォーナー上]]p.146)。</ref>。その後は[[台南海軍航空隊]]に転任し、[[9月25日]]付で[[第二〇一海軍航空隊]]に赴任する<ref name="d"/>。そして、10月12日から10月16日の[[台湾沖航空戦]]で戦死した[[鈴木宇三郎]]海軍大尉の後任として、戦闘三〇一飛行隊長となった<ref name="d"/>。 === 体当たり攻撃隊編成 === [[1944年]][[10月17日]]、[[第一航空艦隊]]司令長官(予定者)の[[大西瀧治郎]]中将<ref group="注釈">親補10月5日、着任10月20日([[#金子]]p.26)</ref>は[[マニラ]]に到着し、前任の[[寺岡謹平]]中将と事務の引継ぎを終えた後、同年10月18日には参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る<ref>[[#金子]]pp.30-31</ref>。それによって、大西は一航艦司令部で[[第七六一海軍航空隊]]司令・[[前田孝成]]大佐に戦局の説明を行った後、副官の[[門司親徳]]大尉を伴って[[クラーク空軍基地|マバラカット飛行場]]に向かう<ref>[[#金子]]p.36</ref>。夕刻近くに[[マバラカット]]に到着の後<ref>[[#金子]]p.38</ref>、指揮所に二〇一空副長・[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀・[[猪口力平]]中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する<ref>[[#金子]]pp.38-41</ref>。大西と入れ違いに[[マニラ]]へ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・[[山本栄]]大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・[[小田原俊彦]]大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた<ref>[[#金子]]pp.36-37, pp.40-41, pp.62-63</ref>。しばらくして玉井が体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・[[指宿正信]]大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った<ref name="f">[[#金子]]p.41</ref>。 玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると<ref name="f"/>、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は[[海軍飛行予科練習生|第十期甲種飛行予科練習生]]から選出して、これは玉井が[[第二六三海軍航空隊]]時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からだった<ref>[[#金子]]pp.42-46</ref>。二〇一空にいた甲十期生は63名で<ref>[[#金子]]p.42</ref>、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした<ref>[[#金子]]pp.45-46</ref>。指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった<ref>[[#金子]]p.46</ref>。 猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ航空機受領に行っていて不在だったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している<ref name="d"/>。猪口の賛成を得た玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「[[九頭竜伝承|白羽の矢]]を立てた」ことを涙ぐみつつ告げた<ref name="g">[[#金子]]p.48</ref>。関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した<ref name="g"/><ref group="注釈">なお、「深夜、大西や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関は、頭を抱えて考え込んだという。彼は即答を避けて一晩悩んだ末、翌日になってようやく承諾した」という説が流布しているが(副長の[[玉井浅一]]が[http://sidenkai21.cocot.jp/m17.html 戦後に明かした話]。一昔前の文献では、戦意昂揚の為に作られた[http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekitaii.html 神風最初の特攻 最初の特攻 隊長関行男大尉]中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5などの、しばらくの沈黙の後、「承知しました」と即答し、自室に戻って遺書を書いたというように書かれている。この著者は関の上官であるが史実に脚色もある)、時間的に有り得ない([[森史朗]]『敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯』光人社、1987年(文春文庫、2003年))。</ref>。 猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだ[[チョンガー]]だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えている<ref>[[#ウォーナー上]]p.162</ref>。玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「'''<ruby><rb>神風</rb><rp>(</rp><rt>しんぷう</rt><rp>)</rp></ruby>隊'''」と命名するよう願い出て、大西に了承された<ref name="g"/>。かくて、[[神風特別攻撃隊]]が誕生したのである。 === 突入まで === 仲間と雑談し、特攻前にお酒を飲んだ。 ==== 10月20日 ==== [[File:19441025 pilots of japanese 201 naval air corps farewell.jpg|right|200px|thumb|大西と敷島・大和隊員との訣別の水盃。左から関、[[中野磐雄]]、[[山下憲行]]、[[谷暢夫]]、[[塩田寛]](大和隊)、[[宮川正]](大和隊→菊水隊)。後姿は左が玉井、中央が大西。日映・[[稲垣浩邦]]カメラマンが10月20日に撮影<ref name="gg">[[#金子]]pp.54-55</ref>]] 最初の特攻隊である第一[[神風特別攻撃隊]]は、[[本居宣長]]の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、各隊3機ずつ配分された。この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された<ref name="h">[[#金子]]p.49</ref>。10月20日の第一神風特別攻撃隊編成の時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた<ref name="h"/>。「敷島隊」のオリジナルメンバーは[[中野磐雄]](戦三〇一)、[[谷暢夫]](戦三〇五)、[[山下憲行]](戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった<ref name="h"/>。同日朝、関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった<ref>[[#金子]]p.51</ref>。午後になって大西はマニラに戻ったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった<ref name="gg"/>。また、大和隊(隊長・[[久納好孚]]海軍中尉([[法政大学]]出身))は20日夕方に二〇一空飛行長[[中島正]]少佐に率いられ[[セブ]]に移動していった<ref name="ggg">[[#金子]]p.85</ref>。 10月20日、関の下に一人の訪問者が来る。訪問者は[[同盟通信社]]の記者で海軍報道班員の小野田政である<ref>[[#森本]]p.130</ref>。小野田はまず、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったが<ref name="i">[[#森本]]p.133 オリジナル:[[高木俊朗]]の回顧([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]1975年6月号)</ref>、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「'''お前はなんだ、こんなところへきてはいかん'''」と怒鳴った<ref name="i"/>。小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めたが、[[森本忠夫]]はこの行動を「異常な心的状況の中に身を置いていた」<ref name="j">[[#森本]]p.133</ref>が故の「異常な行動」とする<ref name="i"/>。少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で語り合う。その際、関は小野田に対して次のように語った。 {{quotation|''' 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番<ref group="注釈">500キロ爆弾のこと。</ref>を命中させる自信がある!僕は[[天皇陛下]]のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA<ref group="注釈">海軍の隠語で妻のこと。</ref>のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう!?'''|関行男||マバラカット基地近くのバンバン川にて<ref>[[#森本]]pp.130-133</ref>}} この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され<ref>[[#森本]]p.131</ref>、後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言とし<ref name="j"/>、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と森本は解釈している<ref name="j"/>。発言の真意はさておき、関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の[[遺書]]をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した<ref name="k">[[#ウォーナー上]]p.164</ref>。また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた<ref name="k"/>。10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった<ref name="ggg"/>。 ==== 10月21日から24日 ==== 10月21日朝、[[一〇〇式司令部偵察機]]が[[レイテ島]]東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる<ref name="ggg"/>。敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する<ref name="l">[[#金子]]p.86</ref>。この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任するようになり、「敷島隊」も[[永峰肇]]飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった<ref name="m">[[#金子]]p.88</ref>。関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した<ref name="m"/><ref group="注釈">このうち、谷機はエンジントラブルで発進できなかった([[#金子]]p.88)</ref>。[[日本映画新社|日本映画社]]・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別とこの日の出撃を組み合わせた映像が、[[日本ニュース]]第232号「神風特別攻撃隊」として公開された<ref>[[#金子]]pp.54-55, p.88 。外部リンクも参照</ref>。マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念して[[レガスピ]]に引き返した<ref>[[#金子]]pp.87-89</ref>。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した<ref>[[#金子]]pp.89-90</ref>。 この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった<ref>[[#金子]]p.91</ref>。予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した<ref>[[#金子]]pp.91-92</ref>。しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日「本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定された」<ref>[[#金子]]p.92 オリジナル:「神風特別攻撃隊戦闘概要」防衛研究所戦史室資料</ref>。久納は特攻隊の「戦死者第1号」となったが、この事については改めて解説する。 10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットから[[ダバオ]]に移動<ref>[[#金子]]pp.88-89</ref>した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた<ref>[[#金子]]pp.92-96</ref>。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという<ref name="n">[[#金子]]p.96</ref>。 === 10月25日 === 10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の[[栗田健男]]中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる<ref name="n"/>。「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊から関と同じ愛媛出身の[[大黒繁男]]上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の[[西澤廣義]]飛曹長が加入した<ref>[[#金子]]pp.99-101</ref>。10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する<ref>[[#金子]]pp.110-111</ref>。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる<ref name="o">[[#金子]]p.111</ref>。10時10分に[[レイテ湾]]突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後<ref name="o"/>、10時40分に[[護衛空母]]5隻を基幹とする<ref group="注釈">当初は6隻だが、6隻のうち「[[ガンビア・ベイ (護衛空母)|ガンビア・ベイ]]」は栗田艦隊の砲撃により沈没</ref>第77.4.3任務群([[クリフトン・スプレイグ]]少将)を発見して突撃機会を伺い、10時49分に僚機と共に突入して戦死した<ref>[[#金子]]pp.111-112</ref>。享年23。 === 戦果 === [[Image:St. Lo First Kamikaze attack sl1a.jpg|thumb|250px|炎上する「[[セント・ロー]]」]] 「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。1機は[[キトカン・ベイ (護衛空母)|キトカン・ベイ]]の艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中<ref>[[#金子]]p.122</ref>、[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]には1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した<ref>[[#金子]]p.123</ref>。[[ホワイト・プレインズ (護衛空母)|ホワイト・プレインズ]]を狙った1機は、被弾による操縦不能によって狙いが外れて艦尾至近の海中に突入<ref>[[#金子]]p.124</ref>、[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]にはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した[[爆弾]]により激しく炎上したセント・ローは、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した<ref>[[#金子]]pp.124-125</ref>。 デニス・ウォーナー<ref group="注釈">[[第二次世界大戦]]中は新聞記者として活躍、[[沖縄戦]]において特攻攻撃により負傷して帰還を余儀なくされる。戦後は[[ロイター]]東京支局長を務める一方、[[朝鮮戦争]]などアジア地域の戦争を取材し、[[オーストラリア]]の軍事雑誌「パシフィック・ディフェンス・レポーター」の編集者を務めた([[#ウォーナー上]]カバー)。</ref>によれば、「セント・ロー撃沈の栄光は日本の多くの著者たちにより、関大尉に与えられている」<ref>[[#ウォーナー上]]p.202</ref>。しかしウォーナーは「日本の多くの著者」の主張を採用せず、関は「カリニン・ベイ」に突入したとする<ref>[[#ウォーナー上]]pp.202-203</ref>。金子は突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのはカリニン・ベイではなく「キトカン・ベイ」であると主張している<ref>[[#金子]]p.122,124,126</ref>。しかし、結論から言えば「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である<ref>[[#金子]]p.126</ref>。 関に先んじる特攻隊の「戦死者第1号」である久納の戦果については、連合軍側の記録でその突入が[[オーストラリア海軍]][[重巡洋艦]]「[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]]」の損傷に結び付けられており<ref>[[#金子]]pp.91-92</ref>、事実なら敵艦に突入した神風特攻第1号となる。しかし、出撃時刻と損傷時刻がかけ離れる<ref group="注釈">「大和隊」の出撃は10月21日16時25分、「オーストラリア」の被弾は同日朝([[#ウォーナー上]]pp.167-173)</ref>など疑問視する意見があり、また「オーストラリア」を攻撃したのは陸軍飛行第65戦隊あるいは飛行第66戦隊の[[九九式襲撃機]]で、被弾の後「体当たり」したという資料もある<ref>[[#木俣]]p.109</ref>。 いずれにしても「敷島隊」による特攻は「異例の大戦果を挙げた」と喧伝され、その後の特攻推進を決定づけた。 === 公表戦果 === 特攻隊の「戦死者第1号」は、前述のように大和隊長の久納である。また、突入順を時系列で並べると、関は「戦死者第9号のち第8号」から「戦死者第13号のち第12号」ということになる。「敷島隊」に先立つ事約1時間前、ダバオから「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」が出撃し、7時40分に第77.4.1任務群([[トーマス・L・スプレイグ]]少将)に突入して護衛空母「[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]」に[[滝沢光雄]]一飛曹機が、「[[サンティー (護衛空母)|サンティー]]」に[[加藤豊文]]一飛曹機が命中している<ref>[[#金子]]pp.98-99</ref>。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃によるもので、残る1名は10月23日に「大和隊」で出撃して消息を絶った[[佐藤馨]]上飛曹である<ref>[[#金子]]p.91</ref>。1人減っているのは、「朝日隊」の[[磯川質男]]一飛曹が当初「特攻で戦死」と発表されたものの、後に取り消されたからである<ref group="注釈">。磯川は戦死取り消し後に日本へ帰還する間際、要務士から「磯川、貴様は特攻で死んでもらわなければならない」と一喝されて帰還が遅れるも、後に分隊士の要望を受けた玉井の尽力で日本に帰還した。帰還後は[[第343海軍航空隊]]に配属され、1945年5月28日に戦死([[#金子]]pp.180-182, p.222)。</ref>。このことから、「敷島隊」は出撃時刻で約1時間、攻撃時刻で約3時間、戦死者が出るまでに至っては4日も遅れをとったことになる。「敷島隊」の戦果は西沢が確認してセブに帰投後、中島に戦果報告を行っているが<ref>[[#金子]]p.100,114,140,145</ref>、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果もまた、「菊水隊」直掩の塩盛実上飛曹が確認して、やはりセブにて中島に報告されている<ref>[[#金子]]p.99, pp.109-110, p.140</ref>。 ところが、10月28日15時に公表された特攻最初の戦果は「敷島隊」のものだけで、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果と久納の突入、佐藤の消息不明はこの時点では一切無視された。このことは戦後になってから[[ミステリー]]として騒がれた<ref>[[#金子]]p.145</ref>。10月28日の公表の時点で「敷島隊」以外が無視された真相は未だ不明だが、金子敏夫<ref group="注釈">海軍兵科予備学生として海軍兵学校に入校後、予科練などの教官を務める。終戦後は[[東京工業大学]]を卒業し、管制装置や[[ロボット]]制御装置の研究開発に従事する。[[工学博士]]([[#金子]]カバー)。</ref>は以下のような推測をしている。以下は金子の推測の要約である<ref>[[#金子]]p.99, pp.144-149</ref>。 * 菊水隊直掩の塩盛から中島に伝達された戦果情報は、9時48分にダバオの[[海軍乙航空隊|第六十一航空戦隊]]に伝えられたが、「朝日隊」「山桜隊」の戦果については定かでは無かったため同日夕方まで待った後、19時6分に一航艦へ報告を行った。第六十一航空戦隊は後方支援部隊のため、作戦部隊の状況判断に欠けていた。 * 一方、敷島隊直掩の西沢から中島に伝達され、12時5分に一航艦へ打電された戦果情報は「疑問の余地なく上層幹部も予想していなかった大戦果」だった。 * 敷島隊のみ、隊員全員の戦闘状況が明確だった。 * 関が最初に指名された特攻隊全ての総指揮官で、かつ先頭に立って突入した。 * [[大日本帝国陸軍]]最初の特攻隊である「万朶隊」がフィリピンに進出しており、報道において一種の「先陣争い」があった。 最初に突入した久納、消息を絶った佐藤、そして「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」について[[連合艦隊]]布告が出されたのは、11月13日になってからのことだった<ref>[[#金子]]p.143</ref>。また、報告に関するタイムラグに関して、中島が何かしら証言を残した形跡はない<ref>[[#金子]]p.142</ref>。 == 戦後 == 戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中で仇となり、関や遺族は終戦後は一転日陰の存在となったほか、遺族には国からの扶助などが行われなかった。関には子供が存在せず、妻の満里子は戦後に再婚した<ref name="q">[[#ウォーナー下]]p.280</ref>。母・サカエは[[草餅]]の行商で生活し、後に[[石鎚村]]立石鎚中学校に[[学校用務員]]として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれて親しまれたが、1953年11月9日に用務員室で57歳で急死して<ref name="az"/><ref name="q"/>関家は断絶した。 サカエの没後、[[伊予三島市]](現・[[四国中央市]])の村松大師に関の墓が建立され<ref name="az"/>、1975年には関の慰霊と平和祈願のため、[[源田実]]の発願によって[[西条市]]の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された<ref name="az"/>。毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に[[海上自衛隊]][[徳島航空基地]]か、[[小松島航空基地]]の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。また[[靖国神社]]には関の遺影が祀られている。 == 遺書 == 父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。 本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に 満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す 恵美ちゃん坊主も元気でやれ 教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如くに == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=デニス・ウォーナー|coauthors=ペギー・ウォーナー|others=妹尾作太男(訳)|year=1982|title={{small|ドキュメント}}神風 {{small|特攻作戦の全貌}}|publisher=[[時事通信社]]|isbn=4-7887-8217-0|volume=上|ref=ウォーナー上}} *{{Cite book|和書|author=デニス・ウォーナー|coauthors=ペギー・ウォーナー|others=妹尾作太男(訳)|year=1982|title={{small|ドキュメント}}神風 {{small|特攻作戦の全貌}}|publisher=[[時事通信社]]|isbn=4-7887-8218-9|volume=下|ref=ウォーナー下}} *{{Cite book|和書|author=木俣滋郎「基地航空隊の作戦 -レイテ戦の直前まで-」|editor=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(4)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0416-4|ref=木俣}} *{{Cite book|和書|author=森本忠夫|year=1992|title=特攻 {{small|外道の統率と人間の条件}}|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-346500-6|ref=森本}} *{{Cite book|和書|author=[[町田忍]]|year=1997|title=戦時広告図鑑 {{small|慰問袋の中身はナニ?}}|publisher=WAVE出版|isbn=4-87290-001-4|ref=町田}} *{{Cite book|和書|author=金子敏夫|year=2005|title=神風特攻の記録 {{small|戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2465-3|ref=金子}} == 関連項目 == * [[大日本帝国海軍軍人一覧]] * [[殉職]] * [[神風特別攻撃隊]] * [[菅野直]] - 海軍兵学校時代に関と同期だった。 * [[航空兵#海軍]] == 外部リンク == *{{Cite web|url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300360_00000&seg_number=002|title=日本ニュース 第232号「神風特別攻撃隊」|publisher=NHK 戦争証言アーカイブス|language=日本語|accessdate=2011-09-12}} *{{Cite web|url=http://ameblo.jp/sanaemonblog/|title=Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ|publisher=Sanaemon|language=日本語|accessdate=2011-09-14}} * [http://www.geocities.jp/henromichi88/fuda88_shikishimatai.html 楢本神社] {{DEFAULTSORT:せき ゆきお}} [[Category:大日本帝国海軍搭乗員]] [[Category:太平洋戦争で戦死した特攻隊員]] [[Category:愛媛県出身の人物]] [[Category:1921年生]] [[Category:1944年没]]
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