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間部詮房
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{{統合文字|詮}} {{基礎情報 武士 |氏名=間部 詮房 |時代=[[江戸時代]]中期 |生誕=[[寛文]]6年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1666年]][[6月18日]]) |死没=[[享保]]5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1720年]][[8月19日]]) |改名=西田詮房→間鍋詮房→間部詮房 |別名=右京、宮内(通称) |戒名=亨浄院殿柔誉軟心煥霊大居士 |墓所=[[新潟県]][[村上市]]寺町の浄念寺 |官位=[[従五位|従五位下]]・[[越前国|越前守]]、[[従四位|従四位下]]・[[侍従]] |幕府=[[江戸幕府]]:[[側用人]]→[[伺候席|雁間詰]] |主君=[[徳川家宣]]→[[徳川家継|家継]] |藩=[[甲斐国|甲斐]][[甲府藩]]士→[[相模国|相模]][[厚木藩]]主→[[上野国|上野]][[高崎藩]]主→[[越後国|越後]][[村上藩]]主 |氏族=西田氏→[[間部氏]](間鍋氏) |父母=父:[[西田清貞]]<br>母:光寿院([[小川次郎右衛門]]の娘) |兄弟='''詮房'''、[[間部詮貞|詮貞]]、[[間部詮之|詮之]]、[[間部詮衡|詮衡]]、[[間部詮言|詮言]] |妻=正室:'''[[小花和成武]]の娘''' |子=娘([[内藤義稠]]婚約者)<br>養子:'''''[[間部詮言|詮言]]'''''、''[[間部詮貞]]の娘''([[永井直英]]正室) |特記事項= }} '''間部 詮房'''(まなべ あきふさ)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[相模国|相模]][[厚木藩]]主、[[上野国|上野]][[高崎藩]]主、[[越後国|越後]][[村上藩]][[間部氏]]初代藩主。[[側用人]]、[[老中格]]。 == 生涯== [[寛文]]6年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1666年]][[6月18日]])、[[甲府藩]]主・徳川綱豊(後の6代将軍・[[徳川家宣]])の家臣・[[西田清貞]]の子として生まれる。はじめは[[猿楽]]師・[[喜多七太夫]]の弟子であったが、[[貞享]]元年([[1684年]])に綱豊の用人になり、甲府徳川家の[[分限帳]]には[[新井白石]]とともに詮房の名が見られる。藤原北家山蔭流間鍋氏であるが、綱豊の命によって間部氏となる。 [[宝永]]元年([[1704年]])、綱豊の[[江戸城]]西の丸城入に伴い、甲府徳川家家臣団は[[幕臣]]に編入され、詮房は[[従五位|従五位下]]・[[越前国|越前守]]に叙任し、側衆になり1500石加増された。その後も累次加増され、[[宝永]]3年([[1706年]])には、[[相模国]]内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね[[高崎藩|高崎]]5万石を得た。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。詮房は、側衆としての格が上がり、[[若年寄]]に次ぐ地位になり、次いで序列上、[[老中]]の次席を命じられた。 詮房は、家宣・白石との[[トロイカ体制]]で、門閥の[[譜代大名]]や将軍に対して強い影響力を有する[[大奥]]などの勢力をさばき、[[正徳の治]]を断行した。しかし、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の[[徳川家継]]が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。 そのため、家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で[[徳川吉宗]]が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。ただし、大名としての地位は剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から、遠方の[[村上藩|村上]]に左遷されたにとどまり、形式の上では5万石の大名であり続けた。 [[享保]]5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1720年]][[8月19日]])、暑気あたりで村上の地にて死去した。[[享年]]55(満54歳没)。跡を弟で養嗣子の[[間部詮言|詮言]]が継いだ。 間部家は、上野国高崎藩5万石から越後国村上藩5万石を経て、越前国鯖江藩5万石で[[明治維新]]を迎え、[[華族令]]によって子爵を授けられた。 == 人物・逸話== * 真面目で信義に篤い人物だったとされ、他の幕臣は交代で勤務にあたったが、詮房は家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。 * 白石は「身の暇がなく」「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評した。また、白石は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力したという。 * 家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし[[月光院]]と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという逸話がある。さらに月光院と詮房は桜田御殿時代から深い仲であったとか、また詮房の旧姓が間鍋であることと家継の幼名鍋松から、家継は詮房の子でないかという説がある。だが、これらはいずれも詮房を失脚させるための俗説に過ぎず、信憑性は低い。 == 官歴 == ※日付は旧暦 * [[貞享]]元年([[1684年]]) - [[甲府藩]](藩主[[徳川家宣|徳川綱豊]])[[小姓]]切米150俵10人扶持 * 貞享4年([[1687年]]) - 同藩両番頭格 * [[元禄]]元年([[1688年]]) - 同藩奏者役格 * 元禄2年([[1689年]]) - 同藩用人並 * 元禄12年([[1699年]]) - 同藩用人1,500石 * [[宝永]]元年([[1704年]])12月9日 - [[従五位|従五位下]]・[[越前国|越前守]]。幕府書院番頭格西丸(将軍後継者[[徳川家宣]])奥番頭 * 宝永2年([[1705年]])1月7日 - 西丸側衆3,000石 * 宝永3年([[1706年]]) ** 1月9日 - 序列が若年寄の次座。相模国内1万石領主。 ** 12月15日 - 序列が老中の次座。[[従四位|従四位下]]に昇叙。 * 宝永6年([[1709年]]) ** 4月15日 - [[側用人]]。[[侍従]]兼任。 ** 4月16日 - [[老中格]]。 * 宝永7年([[1710年]])5月23日 - [[上野国]][[高崎藩|高崎]]5万石に転封。 * [[享保]]元年([[1716年]])5月16日 - 側用人御役御免、[[伺候席|雁間詰]]となる。 * 享保2年([[1717年]]) - [[越後国]][[村上]]5万石に転封。 == 登場作品 == === テレビドラマ === * [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](関西テレビ、1968年、演:[[内田稔]]) * [[絵島生島]](東京12チャンネル、1971年、演:[[佐藤慶]]) * [[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥]](関西テレビ、1983年、演:[[天知茂]]) * [[八代将軍吉宗]]([[NHK大河ドラマ]]、1995年、演:[[石坂浩二]]) === 映画 === * [[絵島生島]](1955年、演:[[高橋貞二]]) * [[大奥 (2006年の映画)|大奥]](2006年、演:[[及川光博]]) * [[大奥 (2010年の映画)|大奥〈男女逆転〉]](2010年、演:[[菊川怜]]) === 漫画 === * [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]]) {{先代次代|[[厚木藩|間部氏厚木藩主]]|1706年 - 1710年|―|廃藩}} {{高崎藩主|間部氏|初代|1710年 - 1717年}} {{村上藩主|間部氏||1717年 - 1720年}} {{DEFAULTSORT:まなへ あきふさ}} [[Category:間部氏|あきふさ]] [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:高崎藩主]] [[Category:村上藩主]] [[Category:相模国の藩主]] [[Category:江戸幕府側用人]] [[Category:能に関連する人物]] [[Category:1666年生]] [[Category:1720年没]]
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