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開城市
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{{韓国の地方行政区ステータス| |行政区画名=開城市 |画像= |位置画像=[[ファイル:DPRK2006 Hwangbuk-Kaesong.PNG|250px]] |ローマ字= |ローマ字mr=Kaesŏng-si |ハングル=개성시 |韓国における漢字=開城市 |平仮名=かいじょうし |片仮名=ケソンシ |略称= |統計の年=2008 |面積=179.263 |総人口=308,440 |人口密度=1,720.6 |国=n |下位行政区画=27洞2里 |ISO_3166-2= |URL= }} '''開城市'''(ケソンし)は、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)南部にある[[都市]]。[[高麗]]の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。 [[朝鮮戦争]]の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の[[直轄市]]として扱われてきたが、南北共同の工業団地「[[開城工業地区]]」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、「開城市」として[[黄海北道]]に所属しているとみられる<ref>[[大韓民国統一部]]「{{lang|ko|북한에서 쓰고 있는 도・시・군・구역}}〔北韓で使われている道・市・郡・区域〕」(2006年9月現在)</ref>。推定人口は約35万人([[1998年]]現在)。 == 概要 == [[画像:Map North Korea-kaesong.png|thumb|250px|left|2002年までの開城直轄市]] [[朝鮮八道]]では[[京畿道]]に属し、[[朝鮮半島]]の主要都市の中では、最も[[板門店]]に近い位置にある。 市域の東はそのまま[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]になっている。開城市街地から、板門店までの距離は8km。<!-- 南には[[漢江]]及び[[臨津江]]の河口部があり、[[川]]を挟んで[[大韓民国|韓国]]領の[[江華島]]がある。市の総面積は1,309[[平方キロメートル|km²]]。※「開城直轄市」時代の記述か-->典型的な[[城郭都市]]であり、歴史的に商都として知られていた。市内には高麗時代の[[遺跡]]が多く残っている。市街地周囲は松岳山([[高さ|海抜]]489m )、子男山など[[マツ|松]]の多い[[山]]に囲まれているので'''松都'''と呼ばれる事がある。韓国政府の協力により[[工業団地]]の建設が進み[[工業|軽工業]]が盛んで韓国企業も多く進出している。しかし韓国の[[李明博]]大統領は対北朝鮮政策を見直す方針であり、反発した北朝鮮が2008年3月に開城の韓国関係者の一部を追放するなど変化が起きている。 [[オタネニンジン|朝鮮人参(高麗人参)]]の産地として有名で、人参酒は北朝鮮の主要な輸出品となっている。 [[儒教|儒学]]の最高教育機関であった「[[成均館]]」が残るほか、王建王陵、観音寺、高麗王宮の宮殿の基壇跡である満月台、開城南大門、旧市街に架かる石橋であり高麗に忠誠を尽くした学者・政治家の[[鄭夢周]]が[[李成桂]]側の人物に暗殺された場所である[[善竹橋]]などがこの街の歴史的な見所である。 == 歴史 == [[画像:Kaesong03.JPG|thumb|250px|開城成均館、かつての儒学の学院]] [[画像:Kaesong04.JPG|thumb|250px|{{ウィキ座標|37|58|18.48|N|126|33|23.76|E|scale:5000|開城南大門}}]] [[百済]]がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽({{lang|ko|동비홀}}、トンビボル)城」と呼ばれており、[[高句麗]]時代を経て[[新羅|統一新羅]]の[[757年]]([[景徳王]]16年)に地名を「開城郡」と[[中国]]風の[[漢字]]2文字に改めた。松嶽などの名も用いられた。 === 高麗の王都として === 新羅末期([[後三国時代]])、松嶽(開城)を本拠としていた豪族の[[太祖 (高麗王)|王建]]は、群雄の一人である[[弓裔]]に投降してその部下となり、弓裔を迎え入れた。弓裔は[[901年]]に松嶽で[[後高句麗]]王を称した。弓裔はやがて鉄円(現在の[[江原道 (朝鮮八道)|江原道]][[鉄原郡|鉄原]])に都を移すが暴虐さを増したため、[[918年]]に王建は反乱を起こして彼を殺し、その勢力を継承して[[高麗]]を建国した。王建は翌[[919年]]に首都を故郷・松嶽に遷し開州と改めた。開州には王の居住する寿昌宮のほか、仁徳宮、寿徳宮などの宮殿があった。[[1015年]]に[[宋 (王朝)|宋]]に遣わされた[[郭元]]は、「三五千を下らぬ民がいる」と語っており、{{要出典範囲|この頃の人口は30万人と推計されている|date=2008年11月}}。高麗後期、モンゴルの侵攻により[[江華]]への遷都を余儀なくされた30年間を除き、約500年にわたって都として栄えた。礼成江河口にある開州の外港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。 === 李氏朝鮮時代 === その後、高麗が滅亡し、[[李氏朝鮮]]を建国した李成桂が都を現在のソウルに遷した。李氏朝鮮の時代も開城は朝鮮の重要都市であり続けた。特に[[商業]]が盛んな都市で、「松房」または「松商」と呼ばれる開城商人は朝鮮半島各地で活躍した。南北朝鮮では、世界初の[[複式簿記]]による帳簿は開城商人が発明したと主張している(四介治簿法)。16世紀に開城に住んだ[[妓生]]・[[黄真伊]](ファン・ジニ)は美貌と知性で知られ、開城の満月台や朴淵瀑布や悲恋などを描いた[[時調]]を残した。 === 日本統治下 === [[1910年]]からの日本合邦期の[[1930年]]には、開城府が置かれた。日本語読みは、かいじょう(表記は、かいじやう)である。朝鮮を統治した日本の[[朝鮮総督府]]は朝鮮半島の社会基盤の整備に注力した。京城と改められた漢城は近代的な都市として開発が進むのと歩調を合わせて、鉄道の敷設によって京城都市圏が形成され開城はそれに取り込まれた。そのため京城と開城の間は鉄道の敷設と都市化によって形成された通勤通学圏として結びつきが強固になった。 === 1945年以降、北朝鮮統治下 === [[1945年]]の[[大日本帝国|日本]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する敗戦で、朝鮮半島における[[韓国併合|日本統治]]は終焉したが、代わって[[第二次世界大戦]]の連合国による統治が始まり、[[38度線|北緯38度線]]上を境に北は[[ソビエト連邦|ソ連]]が、南は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が統治した。分割統治は当初、一時的なものであったはずであった。しかし、程なくして米ソ間で[[冷戦]]が始まり、連合国による分割統治中に南北それぞれで[[政権]]が立ち上がった。南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度線以南にある開城の中心部は、韓国側の統治圏内だった。また当時、人々の南北間の往来も、盛んではなかったものの可能ではあった。 [[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が始まると、開城は真っ先に北側の[[朝鮮人民軍]]の手に渡った。その後[[アメリカ軍]]を中心とした[[国連軍]]が応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも[[中華人民共和国]]から[[中国人民志願軍|義勇軍]]が参戦したことで開城は再び北側のものとなり、南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。 [[1953年]]、板門店での[[休戦協定]]締結により、朝鮮戦争は停戦(休戦)となる。それ以来、人々の南北間の往来は絶望的となった。更に、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もいた。この結果、南北間の[[離散家族]]は開城出身者が最も多い。 また、韓国政府統治範囲で[[首都圏]]を形成している旧京畿道所属地域の中では、開城だけが例外的に、軍事境界線よりも北に位置している。このことや、軍事境界線に最も近い主要都市であることから、開城とその周辺地域は、朝鮮民主主義人民共和国においてどの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきた。 [[2002年]]までの「開城直轄市」の行政区分は以下の通りであった。 * 開城市(ケソンシ、{{lang|ko|개성시}}) * [[長豊郡]](チャンプングン、{{lang|ko|장풍군}}) * [[開豊郡]](ケプングン、{{lang|ko|개풍군}}) * [[板門郡]](パンムングン、{{lang|ko|판문군}}) [[2003年]]、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、開城直轄市が解体されて[[黄海北道]]へ編入された。一時期「開城特級市」が設立されたという報道もなされたが、現在は開城市として黄海北道に属しているとみられる。 韓国人にとって陸路での観光が可能な北朝鮮唯一の都市であるが、韓国人に貧しい状況を見せないよう、観光開始に伴い北朝鮮政府が住民に自転車を配ったものの、街に人通りは少なく動いている車はほとんどない状態で、街に電気の通っている形跡さえほとんど見られないという{{要出典|date=2008年7月}}。ただし韓国が協力した「'''開城工業地区'''」の中にはソウルとまったく同じバスが走っており[[コンビニエンスストア]]もある。だが、政府関係者やエリート層を除き物質的に住民は困窮しており、工業団地で働く北朝鮮労働者は、まず韓国企業が肉入りスープなどを食べさせ栄養状態を改善してからでないと労働力にならないほど、栄養状態が悪く貧困な状況である。 === 年表 === [[画像:Kaesong07.JPG|thumb|250px|王建王陵]] * [[919年]] - 高麗を開いた王建が都を移し、開城郡と松嶽郡を合わせて開州と称する。 * [[995年]] - 開城府と称する。 * [[1232年]] - モンゴルの侵攻を受け江華に遷都。 * [[1270年]] - 開京(開城)に還都。 * [[1394年]] - 朝鮮王朝を開いた李成桂により漢陽に遷都。 * [[1399年]] - [[定宗 (朝鮮王)|定宗]]が都を開京に戻す。 * [[1405年]] - [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]が都を再び漢陽に戻す。 * [[1438年]] - 開城府を設け、開城府留守の職を置いた。 * [[1895年]] - 開城府の留守職を廃して新たに観察使を置き、13郡を管轄した([[二十三府制]])。 * [[1896年]] - 京畿道に属し開城府尹が置かれた([[十三道制]])。 * [[1906年]] - 開城郡となった。 * [[1914年]] - 旧市街地は開城郡松都面となった。豊徳郡が開城郡に併合される。 * [[1930年]] - 府制が施行され、松都面ほかが開城府となった。郊外は開豊郡に編成された。 * [[1945年]][[8月15日]] - [[アメリカ軍|米軍]]管理下に置かれる。 * [[1949年]] - 開城市になる。 * [[1951年]] - 開城市・開豊郡・板門郡を置き、開城地区として北朝鮮の中央政府の管轄下に置かれる。 * [[1955年]] - 開豊郡・板門郡を含めた開城直轄市が発足。 * [[1960年]] - 黄海北道長豊郡を開城直轄市に編入。 * [[2002年]] - 開城市と板門郡の一部を工業地区に指定し、板門郡を廃止。 * [[2003年]] - 直轄市を廃して開城市とし、開豊郡・長豊郡とともに黄海北道に所属。 * [[2004年]][[1月]] - 開城特級市が置かれる。 * [[2006年]][[9月]]現在 - 開城市は黄海北道に所属。 == 観光 == [[画像:Nordkorea Kaesong.jpg|thumb|250px|開城旧市街にある民俗旅館]] 高麗の古都である開城は観光地としても有望な場所である。高麗時代の城壁、王陵、教育機関などは2013年に「[[開城の歴史的建造物群と遺跡群]]」として[[世界遺産]]リストに登録された。 なお、日本の外務省は2006年の[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]]に伴い「北朝鮮に対する[[渡航情報]]([[危険情報]])」を出し「渡航を自粛してください」としている(罰則はない) [http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo.asp?id=035]。 また、超望遠レンズつきスチルカメラ・[[携帯電話]]・[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]は北朝鮮国内への持込が禁止されている。買い物には[[ドル]]・[[ユーロ]]などが使える(ただし、下記ソウルからの開城観光の場合、一部を除きドルのみ使用可能)。 === ソウルからの観光 === 開城は[[ソウル特別市|ソウル]]から近く、2005年8月にソウル発の日帰り試験観光が実施された。その後北朝鮮側に支払う観光料などの条件面で交渉が続いた。2007年12月から観光会社の[[現代峨山]](ヒョンデアサン)が実施する、韓国側からのバスによる陸路での[[観光]]は開始された。大韓民国国民は大韓民国旅券ではなく観光証を携帯する。外国人も参加可能であるが、外国人は旅券を持参する必要がある(都羅山で、通常の出入国審査がある。ただし、出入国スタンプには「都羅山開城」の但し書きスタンプが添えられる)。郊外の寺など観光名所以外でバスを降りたり、許可された場所以外への自由行動は許されず、バスの中からの撮影や北朝鮮側の住民や軍人、ガイド(ただし、本人の了解を得れば可能)を撮ることも厳禁されている。撮影は観光地でのみ許可されており(ただし、観光地内でもそこから見える町並みや住民の撮影は、一部を除き禁止されている)、[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]観光時と違い、北朝鮮を出る際に撮影データがチェックされる。街の貧しい現状を見せたくないためと思われる。もちろん住民と接触することはできず、常に韓国側ガイドや北朝鮮政府の役人が観光客に付き添い監視しており、街や道路沿線に観光バスを監視する兵士も配備されている。 [[2008年]][[11月24日]]、北朝鮮側が[[12月1日]]から開城観光を中止するとともに、すべての民間団体、開城工業団地関係者の軍事境界線通過を制限すると発表し、[[11月28日]]をもって開城観光は中断された。これにより、すでに中断している金剛山観光も含め、韓国側からの北朝鮮への陸路観光が全面中断することになった。 === 平壌からの観光 === いくつかの日本国内の旅行会社が北朝鮮へのツアーを扱っているが、そのほとんどに[[平壌]]を拠点とした開城への日帰り観光が含まれている。基本的に写真・ビデオともに撮影は自由である。ただし観光名所以外では下車できないので、街中の写真などは車内からの撮影に限られることになる。 == 交通 == [[画像:Kaesong.jpg|right|250px|thumb|開城の中心部]] ソウルからの開城への鉄道は[[2003年]]6月までに修復され、[[2007年]]5月には列車の試運転が行なわれた。同年12月からは、開城工業地区に隣接する[[板門駅]]と韓国側の[[ムン山駅|{{lang|ko|汶}}山駅]]との間で、[[貨物列車]]が[[土曜日|土]]・[[日曜日]]を除いて毎日1往復運行されていた。しかし、北朝鮮側が南北間の列車往来を中断すると発表し、2008年11月28日から再び中断した。なお、旅客列車の定期運行は今日{{いつ|date=2012年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->まで行なわれていない。 *[[平釜線]]([[京義線]]):[[開城駅]] - [[孫河駅]] - [[鳳東駅]](建設中) - [[板門駅]] *[[平壌-開城高速道路]] == 教育施設 == * [[松都政治経済大学]] == 関連項目 == * [[高麗博物館]] * [[朝鮮八道]] * [[京畿道 (朝鮮八道)]] * [[二十三府制]] * [[京畿道 (日本統治時代)]] * [[ヒュンダイ|現代]] * [[現代峨山]] * [[平釜線]]([[京義線]]) * [[太陽政策]] * [[鄭夢憲]] * [[金剛山 (朝鮮)|金剛山]] * [[機井洞]] == 註 == <references/> == 外部リンク == {{commonscat|Gaeseong}} * [http://www.hyundai-asan.com/ 現代峨山(朝鮮語)] {{黄海北道の行政区画}} {{DEFAULTSORT:けそん}} [[Category:朝鮮民主主義人民共和国の地方行政区画]] [[Category:朝鮮民主主義人民共和国の都市]] [[Category:黄海北道|市けそん]] [[Category:古都]] [[Category:世界歴史都市連盟]]
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