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'''長峰藩'''(ながみねはん)は、[[越後国]]頸城郡長峯(現在の[[新潟県]][[上越市]])に存在した[[藩]]。長嶺藩とも記される。 == 概要 == 長峰藩は[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])7月、越後をそれまで治めていた[[松平忠輝]]が改易された後を受けて[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野忠成]]が5万石で入ったことで立藩された藩である。忠成は長峰に入部するまでは[[上野国]][[大胡藩]]2万石を領していたが、[[大坂の陣]]で武功を挙げたため、長峰に加増移封されたのである。 しかし、一説に当時の長峰には城も無ければ[[城下町]]も無かったため、忠成はやむなく大胡に留まって[[長峰城]]の築城と城下町の形成に努めたという。しかし[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])、忠成は[[越後長岡藩]]6万4000石に加増移封されたため、忠成と牧野氏家臣団の大部分は長峰城を未完成のまま、大胡から直接に長岡へ移ったとされる。これにより、その後は高田領に編入されたためにわずか2年で長峰藩は廃藩となった。 なお、長峰築城・城下町整備は相当程度進んでいたという現地調査の見解もあり(長岡郷土史28号による→[[長峰城]]を参照)、これを裏付けるように長岡に伝わる引っ越し名簿には「元和四年長峰ヨリ長岡江御引越御人数」と表記され、また牧野駿河守忠成の次男武成(後の[[与板藩]]祖[[内膳司|内膳正]][[牧野康成 (与板藩主)|康成]])は元和3年([[1617年]])長峰に生まれている事実もあることから、大胡より直接長岡入りしたという伝承は今一度検討の余地があるとされる。 現在、長峰藩を物語るものとして[[土塁]]・[[空堀]]などの城址の一部と、城に由来する複数の地名が残っている。 == 歴代藩主 == === 牧野(まきの)家 === [[譜代]]、5万石([[1616年]]-1618年)。 #[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野忠成]](ただなり)[[従四位下]]、[[国司|駿河守]]、[[馬寮|右馬允]]。 == 関連項目 == *[[藩の一覧]] {{DEFAULTSORT:なかみねはん}} [[Category:藩]] [[Category:越後国]] [[Category:牧野氏|藩]] [[Category:新潟県の歴史]] [[Category:上越市の歴史]]
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