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'''長岡 正男'''(ながおか まさお、[[1897年]][[7月7日]] - [[1974年]][[11月20日]])は、[[日本]]の[[技術者]]で[[実業家]]。第6代日本光学工業(現[[ニコン]])社長。 == 人物 == [[物理学者]][[長岡半太郎]]、操子夫妻の次男として[[東京府]](現・[[東京都]])に生まれた。 社長就任前は硝子製造所長として[[レンズ]]の原料となる[[ガラス]]の開発に努めた。[[戦前]]の日本を代表する物理学者を父にもち、日本最大の[[学者]]一族・[[箕作家]]の娘を母にもつ学究一家に生まれ育ったため「[[経済]]のことはわからない」といって社長就任後も3年間硝子製造所長を兼任した。 [[ニッコールクラブ]]の創立者で初代会長でもある。 == 略歴 == *[[1902年]][[8月23日]] - 母・操子死去。父の再婚後、継母の登代に育てられる。 *[[1916年]] - [[東京都立日比谷高等学校|東京府立一中]]卒業。[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]入学。 *[[1922年]]10月 - [[東京大学|東京帝国大学]][[理学部]]化学科在学中日本光学工業に入社、光学ガラスの研究生産に従事した。 *[[1947年]] - 社長に就任。 *[[1950年]] - 硝子製造所長を辞任し社長の業務に専念。[[12月11日]]、父・半太郎死去。 *[[1959年]] - 社長の地位を[[白濱浩]]に譲り、会長に退いた。 *[[1961年]] - 会長を辞任。 == 業績 == * 戦前は軍部向けの[[光学]][[兵器]]メーカーだった日本光学を[[カメラメーカー]]として方向付けた。 * 硝子製造所長時代は[[ドイツ]]製レンズに負けないレンズを追求しニッコールレンズの開発に努めた。 == 家族・親族 == 父は[[原子模型|土星型原子モデル]]を提唱したことで知られる長岡半太郎。母は[[明治]]期の[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]として有名な[[箕作麟祥]]の三女操子。 長岡正男の外祖父・箕作麟祥は幕末の[[蘭学者]]・[[箕作阮甫]]の孫なので、正男は阮甫の玄孫にあたる。正男の兄に[[理化学研究所]]理事長を務めた[[長岡治男]]が、異母弟に[[実験物理学|実験物理学者]]の[[嵯峨根遼吉]]がおり、妹は父・半太郎の弟子である[[岡谷辰治]]に嫁いだ。 正男の外祖母、すなわち箕作麟祥の先妻・もとは三沢精確の三女であり[[順天堂大学]]の基礎を作った[[医師]]・[[佐藤泰然]]の孫娘にあたる(三沢の妻が泰然の次女・きは)。もとの叔父、すなわち泰然の五男が[[林洞海]]の養子となった[[林董]]である。なお董の養父・洞海は佐藤泰然の長女・つると結婚したため林洞海は林董の義兄でもある。 林董の孫・[[岩崎忠雄|忠雄]]は[[三菱財閥]]の4代目総帥・[[岩崎小弥太]]の養嗣子となった。小弥太には子供がいなかったので弟で[[旭硝子]]の創業者として知られる[[岩崎俊弥]]の次女・淑子(小弥太の姪にあたる)を養女とした上で、忠雄を婿養子に迎えたのである。長岡正男が社長を務めた日本光学は[[三菱グループ]]の光学機器メーカーだが、長岡家は箕作家・三沢家・佐藤家・林家を通じて三菱の創業者一族・[[岩崎家]]とも姻戚関係で結ばれることになった。なお岩崎忠雄は長岡正男の母・操子の又従弟にあたる。 == 参考文献 == *小倉磐夫『国産カメラ開発物語』 {{デフォルトソート:なかおか まさお}} [[Category:日本の光学技術者]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:1897年生]] [[Category:1974年没]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:ニコンの人物]] [[Category:東京大学出身の人物]]
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