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'''長岡 是容'''(ながおか これかた、[[文化 (元号)|文化]]10年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1813年]][[3月13日]])- [[安政]]6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1859年]][[9月6日]]))は、江戸時代末期([[幕末]])の[[武士]]。[[熊本藩]]の[[家老]]。[[米田是睦]]の長子。通称の'''監物'''(けんもつ)の名で知られる。本姓は'''米田氏'''。幼名は与七郎。別称は源三郎、壱岐。 == 生涯 == 文化10年(1813年)、熊本藩家老・米田是睦の長子として誕生。 [[天保]]元年([[1831年]])、家老見習いとして出仕し、天保3年([[1833年]])に父が死去すると1万5,000石の所領を襲封し、藩家老となって江戸藩邸で藩主[[細川斉護]]に仕えた。[[横井小楠]]や[[下津久馬]]と共に協力して藩政改革に取り組み、文武芸倡方として藩校の[[時習館]]改革などに尽力し、[[荻昌国]]・[[元田永孚]]らを加えて会読会を開き、[[実学党]]と呼ばれる一派を形成した。しかし改革に反対する保守派である学校派の家老・[[松井佐渡]](=10代当主[[松井章之]])の反対を受け挫折。[[弘化]]4年([[1847年]])、親しくしていた[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]が隠居させられると、それによって是容も家老職を辞職させられた。 [[嘉永]]6年([[1853年]])、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]が再来航したのを契機として家老職に復帰を許され、[[浦賀]]の守備隊長として[[江戸]]詰を任じられた。江戸において徳川斉昭、[[藤田東湖]]、[[吉田松陰]]、[[西郷隆盛]]らと盛んに交流した。しかし[[攘夷論]]者であったため、安政2年([[1855年]])に[[開国論]]を唱えて沼山津派(新民派)を形成した友人の小楠と対立し、自らは坪井派(明徳派)を形成して対抗し、かえって熊本藩にさらなる混乱の種を生むこととなった。 安政6年(1859年)、引退先の采邑八代で死去。 {{DEFAULTSORT:なかおか これかた}} [[Category:幕末熊本藩の人物]] [[Category:1813年生]] [[Category:1859年没]]
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