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鍋島勝茂
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 鍋島勝茂 | 画像 = Nabeshima Katsushige.JPG | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 鍋島勝茂([[(財)鍋島報効会]]蔵) | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[天正]]8年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1580年]][[12月4日]]) | 死没 = [[明暦]]3年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1657年]][[5月7日]]) | 改名 = 伊平太([[幼名]])→鍋島勝茂 | 別名 = [[諱]]:信茂、清茂 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 泰盛院殿澤圓良厚大居士 | 霊名 = | 墓所 = [[高伝寺]]([[佐賀県]][[佐賀市]]) | 官位 = [[従五位下]]信濃守、[[従四位下]]・[[侍従]] | 幕府 = | 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]→[[徳川家綱|家綱]] | 藩 = [[佐賀藩]]主 | 氏族 = [[鍋島氏]] | 父母 = 父:[[鍋島直茂]]、母:[[陽泰院]]([[石井常延]]女)<br />養父:''[[江上家種]]'' | 兄弟 = '''勝茂'''、[[鍋島忠茂|忠茂]] | 妻 = [[正室]]:'''[[戸田勝隆]]女'''<br />[[継室]]:[[高源院 (鍋島勝茂正室)|'''菊姫''']]([[徳川家康]][[養女]]、[[岡部長盛]]女)<br />側室:[[小城氏]]女、花、岩([[小西三右衛門]]女) | 子 = [[鍋島元茂|元茂]]、[[鍋島忠直|忠直]]、[[鍋島直澄|直澄]]、[[鍋島直弘|直弘]]、[[鍋島直朝|直朝]]、卿公、[[神代直長]]、超誉、女([[多久茂辰]]室)、宝乗院([[諫早茂敬]]室)、女([[神代常利]]室)、女([[鍋島直広]]室)、女([[上杉定勝]]正室)、女([[松平忠房 (島原藩主)|松平忠房]]正室)<br />養子:'''''[[鍋島光茂]](実孫)''''' | 特記事項 = }} '''鍋島 勝茂'''(なべしま かつしげ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[江戸時代]]前期の[[外様大名]]で、[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]]の初代[[藩主]]。 == 生涯 == === 豊臣政権下から関ヶ原 === 天正8年(1580年)10月28日、[[龍造寺隆信]]の重臣であった鍋島直茂の長男として、[[石井生札]]の屋敷で生まれる。母は[[石井常延]]の次女[[陽泰院]]彦鶴姫。一時期、龍造寺隆信の次男・江上家種の[[養子]]になったこともある。 [[天正]]17年([[1589年]])、[[豊臣秀吉]]により[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。 [[慶長]]2年([[1597年]])からの[[慶長の役]]では父と共に渡海し、[[蔚山城の戦い]]で武功を挙げた。 慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に与し、[[伏見城]]攻め([[伏見城の戦い]])に参加した後、[[伊勢国|伊勢]][[安濃津城の戦い|安濃津城攻め]]に参加するなど、西軍主力のひとりとして行動した。しかし、父直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、[[筑後国|筑後]]柳川の[[立花宗茂]]、同久留米の[[毛利秀包|小早川秀包]]らを攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政の仲裁で[[徳川家康]]にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた。 === 鍋島騒動から藩主へ === 当時、佐賀藩は天正18年([[1590年]])に鍋島氏の主君であった[[龍造寺政家]]が病弱であったため、[[豊臣秀吉]]によって[[隠居]]させられ、家督は政家の長男・[[龍造寺高房]]が引き継いでいた。しかし幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。つまり鍋島氏は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代からすでに大名世子としての扱いを受け、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]においても、父の直茂が総大将として出陣している。 ところが慶長12年([[1607年]])に高房、後を追うように政家も死去した。すると勝茂は幕府公認の下後を継いで佐賀藩の初代藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家へのスムーズな政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功したのである。 このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なり、ほとんど血を見ずに成功したものの、「[[化け猫#鍋島の化け猫騒動|鍋島化け猫伝説]]」などの説話が巷間に流れ、勝茂は[[歌舞伎]]や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また[[寛永]]年間に高房の子・[[龍造寺季明|龍造寺伯庵]]が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府に願い出たことなどによる。結局幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで第3代将軍・[[徳川家光]]の異母弟であり閣老の[[会津藩]]主・[[保科正之]]に50人扶持で永預けとした(伯庵死後、その遺児を300石にて取り立て、子孫は現在も続いている)。ただし、勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害するとこれを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。 一方で、旧家臣団と鍋島譜代の家臣団のいずれにもほとんど粛清がなかったために、石高のほとんどは家臣団への知行分となってしまい、藩主の直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなった。このため佐賀藩ではその後一貫して[[干拓]]など増収政策に取り組むこととなる。またこの間、検地を実施して35万7000石の石高があることを明らかにし、これに先立つ慶長7年([[1602年]])より[[佐賀城]]・蓮池城を近世城郭にふさわしい体裁を備えるべく築城(蓮池城は[[一国一城令]]のため破却)し、鍋島家統治のシンボルとした。 慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の役]]では東軍に属した。 [[寛永]]14年([[1637年]])から翌年にかけての[[島原の乱]]に出陣するが、家臣が軍律違反を犯したために幕府に処罰された(一説には[[原城]]攻撃の期日を1日やぶって攻撃したのは、勝茂自身とされる)。 明暦3年(1657年)3月24日に死去。享年78。後を嫡孫の[[鍋島光茂]]が継いだ。 {{先代次代|[[鍋島氏|肥前鍋島氏当主]]|鍋島勝茂|[[鍋島直茂]]|[[鍋島光茂]]}} {{佐賀藩主|初代|1607年 - 1657年}} {{DEFAULTSORT:なへしま かつしけ}} [[category:戦国武将]] [[Category:佐賀藩主|かつしけ]] [[category:鍋島氏|かつしけ]] [[Category:1580年生]] [[Category:1657年没]] [[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
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