コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
鈴木貞一のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
鈴木貞一
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 鈴木 貞一 | 各国語表記 = | 画像 = Suzuki_Teiichi.jpg | 画像サイズ = 150px | 画像説明 = | 渾名 = 背広を着た軍人 | 生年月日 = [[1888年]][[12月16日]] | 生誕地 = {{JPN}} [[千葉県]][[山武郡]][[芝山町]] | 没年月日 = [[1989年]][[7月15日]] | 死没地 = 同上 | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1910年|1910]] - [[1941年]] | 最終階級 = 陸軍[[中将]] | 除隊後 = [[企画院]]総裁 (近衛内閣、東条内閣)<br />大東亜建設審議会幹事長<br />[[貴族院 (日本)|貴族院]][[国会議員|議員]]<br />[[内閣顧問]]<br />大日本産業報国会会長<br />[[産業計画会議]]委員 | 署名 = }} '''鈴木 貞一'''(すずき ていいち、[[1888年]](明治21年)[[12月16日]] - [[1989年]](平成元年)[[7月15日]])は、日本の[[軍人]]。[[陸軍中将]][[正三位]][[勲二等]]。[[千葉県]]出身。通称「背広を着た軍人」。「[[三奸四愚]]」と呼ばれた[[東條英機]]側近三奸の一人とされる。 == 略歴 == 千葉県の[[地主]]である鈴木八十吉の長男として生まれ、[[東京府|東京]]の[[学校法人成蹊学園|成蹊学舎]]、[[京北中学校・高等学校|京北中学校]]を経て、[[1910年]](明治43年)に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](22期)、[[1917年]](大正6年)に[[陸軍大学校]](29期)を卒業した。元々は[[満州]]の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、[[上海市|上海]]及び[[北京市|北京]]、[[武漢市|武漢]]に駐在した。 [[1927年]](昭和2年)11月、[[深山亀三郎]]らと共に[[木曜会 (日本陸軍)|木曜会]]を結成。[[1929年]](昭和4年)[[5月19日]]、[[永田鉄山]]・[[東條英機]]・[[板垣征四郎]]・[[石原莞爾]]ら陸軍中堅将校が結成していた[[二葉会]]と木曜会が合流して結成された[[一夕会]]のメンバーにもなった。[[1931年]](昭和6年)[[三月事件]]に参加する。[[情報戦]]・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、[[古野伊之助]]との縁も深い。 鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。[[1931年]](昭和6年)1の[[満州事変]]勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、[[白鳥敏夫]]や[[森恪]]と連携して[[国際連盟]]脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。 [[1934年]](昭和9年)に新聞班長となる。 [[1936年]](昭和11年)の[[二・二六事件]]の際には、[[山下奉文]]と共に青年将校の説得に当たった。この時期の鈴木は[[皇道派]]に近いポジションにあり事件の青年将校にも同情的であったが、事件以降、巧みに[[統制派]]に鞍替えし、やがて東條英機の側近にのぼりつめていった。同じく皇道派に近かった山下が事件以降に不遇に陥り、逆に統制派だった[[武藤章]]が後に東條と対立して山下の部下に転じたケースとは対照的である。このことから鈴木を陸軍内部で稀にみるオポチュニストだとする見解も少なくない。 [[1938年]](昭和13年)[[4月14日]]に[[第3軍 (日本軍)|第3軍]][[参謀長]]、同年[[12月16日]]、[[興亜院]]政務部長に就任して(~[[1941年]]4月)。[[1940年]](昭和15年)[[8月1日]]、中将に昇進した。同年[[12月23日]]、興亜院総務長官心得に就任した。[[1941年]](昭和16年)[[4月4日]]、[[予備役]]編入となる。それと同時に、[[第2次近衛内閣]][[国務大臣]]兼[[企画院]]総裁に就任した。以後、[[第3次近衛内閣]]・[[東條内閣]]でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、[[イギリス]]のインド植民省を真似て[[大東亜省]]を設立して、[[外務省]]のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には[[青木一男]]が任命されて、失敗に終わっている。 東條内閣時、帝国議会の閣僚席は内閣総理大臣の隣で、東條英機に近い重要閣僚であることを印象づけている。[[東條内閣]]発足時の記念撮影でも、東條の横に写っている。ニュース映画では、農林大臣[[井野碩哉]]が進み出ようとするのを遮って、最前列に出たのが確認できる<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300457_00000&seg_number=007 日本ニュース第72号|NHK戦争証言アーカイブス]</ref>。 [[太平洋戦争]]開戦直前の[[1941年]](昭和16年)10月-12月の[[御前会議]]において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、[[ABCD包囲網]]等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、[[昭和天皇|天皇]]に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。 また、戦後の鈴木へのインタビューによれば<ref><遂行された国策「開戦」>三国一朗ほか編『太平洋戦争前期 昭和史探訪.3』(番町書房のち角川文庫)</ref>、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、[[日中戦争]]が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。 [[1942年]](昭和17年)2月に大東亜建設審議会幹事長に就任した。[[1943年]](昭和18年)[[10月8日]]に[[貴族院 (日本)|貴族院]][[国会議員|議員]]に就任して、[[内閣顧問]]、[[大日本産業報国会]]会長を務める。 === 戦後 === 終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[12月3日]]に[[A級戦犯]]に指定された。[[極東国際軍事裁判]]で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている<ref>裁判では、陸軍中将ではなく、企画院総裁という[[文官]]としての立場で起訴されている。</ref>。終身禁固の判決を受け服役する。[[1955年]](昭和30年)[[9月17日]]に[[橋本欣五郎]]、[[賀屋興宣]]とともに仮釈放されて、[[1958年]](昭和33年)に赦免された。 {{要出典範囲|長年、朝になると発声による健康管理を行っていた。特に[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]収監中は、鈴木の声が獄中の目覚まし代わりになっていたという。[[NHK特集]]『スガモ・プリズン解体』([[1971年]]放送)出演時のインタビューでは、東京裁判について「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と語っていた。|date=2013年6月}} 赦免後は、「電力王」と呼ばれた[[松永安左エ門]]の要請で[[産業計画会議]]委員へ一度就いたが、[[岸信介]]内閣成立後の[[1959年]](昭和34年)に、[[自由民主党 (日本)|自民党]]から[[第5回参議院議員通常選挙|参院選]]出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否して、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、[[佐藤栄作]]のブレインとして彼を支え続けたほか<ref>『佐藤栄作日記』にも出てくる([[朝日新聞社]])。</ref>、[[岸信介]]や[[福田赳夫]]、[[三木武夫]]とも懇意にしていたと言われている。 NHK特集『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』([[1979年]][[2月26日]]放送)に出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。この取材および録音内容については、番組のプロデューサーだった[[中田整一]]の著書『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋、[[2007年]])に記されている。このとき鈴木はすでに90歳であったが、ダンディな服装であらわれ、記憶力や会話もきわめて明晰で、中田を驚かせている。 その後は、[[1973年]](昭和48年)に[[東京都]][[世田谷区]]から[[千葉県]][[山武郡]][[芝山町]]にある生家に居住して、静かな余生を送った。ちなみに、近所の住民からは「閣下」と呼ばれていたという。 [[1989年]](平成元年)に100歳で没した。A級戦犯としては、唯一[[平成]]まで存命した最後の生き残りであった。葬儀は東京都[[杉並区]]の福相寺で営まれ、葬儀委員長は[[福田赳夫]]が務めた。 == 年譜 == *[[1910年]](明治43年) **5月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を卒業した(22期)。 **12月 - [[少尉]]に昇進した。[[歩兵第18連隊]]附となる。 *[[1913年]](大正2年)12月 - [[中尉]]に昇進した。 *[[1917年]](大正6年)1月 - [[陸軍大学校]]を卒業した(29期)。 *[[1918年]](大正7年)7月 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]附に勤務した。 *[[1919年]](大正8年)1月 - [[大蔵省]]に派遣される(~10月)。 *[[1920年]](大正9年) **4月 - [[大尉]]に昇進した。参謀本部員(支那斑)となる。 **11月 - 参謀本部附([[上海市|上海]]駐在)となる。 *[[1922年]](大正11年)2月 - 参謀本部員(作戦課)となる。 *[[1923年]](大正12年)8月 - 参謀本部附([[北京市|北京]]駐在)となる。 *[[1925年]](大正14年)12月 - [[少佐]]に昇進した。[[歩兵第48連隊]]附となる。 *[[1926年]](大正15年) **8月 - 歩兵第48連隊の大隊長となる。 **12月 - [[支那]]に出張する(~[[1927年]]5月)。 *[[1927年]](昭和2年)5月 - 参謀本部員(作戦課)となる。 *[[1929年]](昭和4年) **2月 - [[イギリス]]に出張(~10月)する。 **12月 - 支那公使館付の[[駐在武官|武官補佐官]]となる(北京駐在)。 *[[1930年]](昭和5年)3月 - [[中佐]]に昇進する。 *[[1931年]](昭和6年) **1月 - 軍務局附となる。 **[[8月1日]] - 軍務局課員(支那班長)となる。 *[[1933年]](昭和8年) **8月1日 - 新聞班長となる。 **[[12月20日]] - [[大佐]]に昇進する。 *[[1934年]](昭和9年)[[3月5日]] - 陸軍大学校の教官となる。 *[[1935年]](昭和10年)[[5月25日]] - 内閣調査局の調査官となる。 *[[1936年]](昭和11年)[[8月1日]] - [[歩兵第14連隊]]長となる。 *[[1937年]](昭和12年)[[11月1日]] - [[少将]]に昇進する。[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]司令部附となる(内閣企画院調査官)。 *[[1938年]](昭和13年) **[[4月14日]] - [[第3軍 (日本軍)|第3軍]]の[[参謀|参謀長]]となる。 **[[12月16日]] - 興亜院の政務部長となる。 *[[1940年]](昭和15年) **[[8月1日]] - [[中将]]に昇進する。 **[[12月23日]] - 興亜院の総務長官心得となる。 *[[1941年]](昭和16年)[[4月4日]] - 予備役に編入される。企画院の総裁となる。 *[[1943年]](昭和18年) **10月 - 貴族院議員となる(~[[1945年]](昭和20年)12月)。 **11月 - 内閣顧問となる(~[[1944年]](昭和19年)10月)。 *[[1944年]](昭和19年)9月 - [[大日本産業報国会]]の会長となる(~[[1945年]](昭和20年)8月)。 == 参考文献 == *木戸日記研究会『鈴木貞一氏談話速記録』上下、日本近代史料研究会、[[1974年]](昭和49年) *平塚柾緒、太平洋戦争研究会『図説 東京裁判』河出書房新社、[[2002年]](平成14年) *『A級戦犯-戦勝国は日本をいかに裁いたか』新人物往来社、[[2005年]](平成17年) *[[小林よしのり]]『いわゆるA級戦犯』幻冬舎、[[2006年]](平成18年) *太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』ビジネス社、[[2007年]](平成19年) == 脚注 == {{Reflist}} {{A級戦犯}} {{DEFAULTSORT:すすき ていいち}} [[Category:大日本帝国陸軍将官]] [[Category:貴族院勅選議員]] [[Category:皇道派]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:第二次世界大戦期の政治家]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:A級戦犯]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1888年生]] [[Category:1989年没]] [[Category:長寿の人物]] [[Category:十月事件の人物]] [[Category:二・二六事件の人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:A級戦犯
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 軍人
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:要出典範囲
(
ソースを閲覧
)
鈴木貞一
に戻る。
検索
検索
鈴木貞一のソースを表示
話題を追加