コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
里見義頼のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
里見義頼
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 里見義頼 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]]) | 死没 = [[天正]]15年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1587年]][[11月26日]])? | 改名 = 義継(初名)、義頼 | 別名 = 太郎 | 戒名 = 大勢院殿勝岩泰英居士 | 墓所 = | 官位 = 左馬頭、安房守、刑部大輔 | 幕府 = | 主君 = | 藩 = | 氏族 = [[里見氏]] | 父母 = 父:[[里見義堯]]([[里見義弘]]の庶長子説もあり)、母:不詳(後述) | 兄弟 = | 妻 = [[正室]]:[[北条氏政]]の娘 鶴姫(龍寿院)<br />[[継室]]:[[北条氏康]]の娘 菊姫<br />[[側室]]:[[正木時茂 (正木時綱子)|正木時茂]]の娘(龍雲院) | 子 = [[里見義康|義康]]、[[正木時茂 (里見義頼子)|正木時堯]]、[[里見義高|義高]]、[[里見康俊|康俊]]、[[正木義断]]、<br />[[正木忠勝]]、[[奥平忠政]]室 | 特記事項 = }} '''里見 義頼'''(さとみ よしより)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[安房国]]の[[武将]]、[[大名]]。[[家系]]は[[新田氏]]の支流[[里見氏]]。 == 経歴 == [[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、安房国の大名・[[里見義堯]]の子として誕生。 嫡子に恵まれなかった長兄・[[里見義弘|義弘]]の養子となったという(近年の研究では義弘の庶長子とする説もある)。義弘は生前、自身の死後は安房国を義頼に与え、[[上総国]]を嫡男・[[里見義重|梅王丸(のちの義重)]]に与えることを約していた。この分割相続を義頼は不満に思い、義弘と義頼の仲は次第に険悪になっていったという。 天正5年([[1577年]])、義弘が[[相模国]]の[[後北条氏]]と和睦したことにより、義頼は[[北条氏政]]の娘・鶴姫を正室に迎え、2年後に鶴姫が死去すると氏政の妹・菊姫を後妻にした。天正6年([[1578年]])、義弘が死去すると梅王丸と家督と領土をめぐって対立し、義頼は北条氏政の支援を受けて、天正8年([[1580年]])に上総国を制圧し、梅王丸を出家させ、里見氏の領国全てを継承した。また、天正9年([[1581年]])には反抗的な家臣である[[正木憲時]]を殺害して、自身の体制を固めていく。 天正8年(1580年)、後北条氏に対抗するため[[甲斐国]]の[[武田勝頼]]と[[常陸国]]の[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]が同盟し([[甲佐同盟]])、義重の同盟参加を受けて天正9年(1581年)に里見氏も[[武田氏]]と同盟した。これに佐竹氏・[[小弓公方]]の[[足利頼淳]]との同盟を加え対後北条氏の同盟が成立するが、天正10年([[1582年]])には[[織田氏]]による武田氏の滅亡で同盟は破綻する。また、義頼夫人が死ぬと北条氏政との争いが再燃し、義頼はこれを撃退する一方で、[[豊臣秀吉]]らと手を結んで連携をとるなど、卓越した外交手腕を見せている。なお、この義頼の伝手のおかげで、後に[[小田原征伐]]の折に遅参したにも関わらず里見氏は存続できたともいわれている。 天正15年([[1587年]])、安房[[岡本城 (安房国)|岡本城]]で病死。墓所は[[南房総市]]富浦町の光厳院。 なお、近年になって死亡日の以前にあたる筈の日付(天正15年1月)の文書に義頼の死後に付けられた筈の法号「大勢院」の呼称が載せられている記述が発見されたことから、義頼の死後、後継者である里見義康が幼少であることを理由に暫くその死が伏せられた可能性があり、正しい死亡日は従来異説とされてきた前年の天正14年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]とする説が提示されている。また、義頼が[[足利氏]]ゆかりの[[龍]]の[[印章]]を用いたことから、生母を[[小弓公方]][[足利義明]]の娘・[[青岳尼]](義弘最初の正室)とする説も出されているが、義弘と青岳尼の婚姻は[[弘治_(日本)|弘治]]3年([[1557年]])頃であることは当時の史料など根拠として通説とされており、同じくその14年前とされている義頼の生年との矛盾が解決されない限りは成り立たないとみられている<ref>最初にその可能性を指摘したのは、滝川恒昭「里見義頼と青岳尼」(『鎌倉』97号(鎌倉文化研究会、2003年))であるが、佐藤博信は従来の青岳尼の伝記は義明の妹と娘の伝記が混同されている可能性を指摘して、弘治年間に義弘が鎌倉から連れ出して婚姻したのは義明の妹であって、義頼を生んだ義明の娘とは別人であるとする説を採る(佐藤博信「戦国期の関東足利氏に関する考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年))。</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{安房里見氏当主||1578 - 1587}} {{DEFAULTSORT:さとみ よしより}} [[Category:里見氏|よしより]] [[Category:戦国大名]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:1543年生]] [[Category:1587年没]] [[Category:安房国の人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:安房里見氏当主
(
ソースを閲覧
)
里見義頼
に戻る。
検索
検索
里見義頼のソースを表示
話題を追加