コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
里見忠義のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
里見忠義
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 |氏名=里見 忠義 |画像= |画像サイズ= |画像説明= |時代=[[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]初期 |生誕=[[文禄]]3年([[1594年]]) |死没=[[元和 (日本)|元和]]8年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1622年]][[7月27日]]) |改名=梅鶴丸(幼名)→忠義 |別名= |戒名=雲晴院殿心叟賢涼御大居士<br>高源院殿華山放牛大居士 |墓所=[[鳥取県]][[倉吉市]]東町の[[大岳院]] |官位=[[従四位]]下、[[侍従]]、[[安房国|安房]]守 |幕府=[[江戸幕府]] |主君= |藩=[[安房国|安房]][[館山藩]]主→[[伯耆国|伯耆]][[倉吉藩]]主 |氏族=[[里見氏]] |父母=父:[[里見義康]] |兄弟='''忠義'''、[[里見忠堯|忠堯]] |妻=正室:[[大久保忠常]]の娘 |子=長女([[久永重章|久永飛騨守重章]]室?母?)、<br>次女([[大久保忠常]]の養女・[[木下延由]]正室)、<br>[[里見利輝|利輝]]、[[山下貞倶]]?、[[広部義次]]? |特記事項= }} '''里見 忠義'''(さとみ ただよし)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[大名]]。[[安房国|安房]][[館山藩]]2代藩主。[[里見義康]]の長男。[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]より[[偏諱]]を受け、'''忠義'''と名乗った。 == 生涯 == === 前半生 === [[慶長]]8年([[1603年]])、父・義康の死により家督を相続する。慶長11年([[1606年]])には秀忠の面前で[[元服]]し、[[従四位]]下・[[侍従]]・[[安房国|安房]]守に叙任され[[国持大名]]の列に加えられる。慶長16年([[1611年]])、江戸幕府[[老中]][[大久保忠隣]]の孫娘を室として迎えた。 だが、重臣たちは[[正木頼忠]]ら保守派と[[印東房一]]ら改革派に分裂し、また忠義も若年ゆえにその治世は困難を極めた。そんな矢先の慶長19年([[1614年]])9月9日、[[重陽]]の節句の賀儀を述べるため[[江戸]]に参府した忠義は、江戸城への登城を差し止められた。 === 後半生 === 大久保忠隣の失脚事件に連座させられ安房一国(9万石)分の減封となり、[[常陸国|常陸]]鹿島領3万石のみの領地となった。 さらに日を置かず[[伯耆国|伯耆]][[倉吉藩]]3万石に転封を言い渡され馴染みの無い[[山陰]]へ移動を余儀なくされた。 === 後半生(別の説) === 老中・[[土井利勝]]らの派遣した使者に[[改易]]を宣告された。原因は忠隣の失脚事件への連座であった。 その後、[[伯耆国|伯耆]][[倉吉藩]]に流され4,000石とされたが、[[大岳院]]に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの身分を保っていたと思われる。ところが[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]主・[[池田光政]]によりその4,000石もとりあげられ、百人[[扶持]]の[[知行]]とされた。 == 子孫 == 元和8年6月19日([[1622年]]7月27日)に病死し、常光寺の川原で火葬され大岳院に葬られた。 嗣子がないとされ、大名家としての[[里見氏]]は滅亡した。しかし、実は側室との間に3人の男子を儲けていたという。子孫は他家に仕え、そのまま[[明治維新]]を迎えた(孫の[[里見義旭|義旭]]が[[間部氏]]に仕官。利輝―[[里見義安|義安]]―義旭)。これ以前に、山下貞倶・広部義次の子孫は、里見姓に復していたという(ただし、本当に忠義の子なのかについては疑問を持つ者もいる)。貞倶の子孫は[[旗本]]になっている。また、忠義の叔父の[[里見義高]](外記、讃岐守)は、[[酒井家次]]の婿であったため400石取りの酒井家の家臣となる。 == 八賢士 == 忠義が死去した時、8人の側近が[[殉死]]し、忠義とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられた(6人、7人説もある)。彼らが『[[南総里見八犬伝]]』の「八犬士」のモデルだという。 == 家族 == 以下出典は参考<ref>[http://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_6shou/k6shou_1/k6shou_1min.html 忠義の子供たち]</ref>による。 *正室([[大久保忠常]]娘) **長女([[久永重章|久永飛騨守重章]]室とされるが、母と推測される。) **次女(大久保忠常の養女、[[木下延由|木下延次]](縫殿助延由)正室 ? - [[慶安]]5年(1652年)) *側室 **利輝(慶長19年(1614年) - [[正保]]元年(1644年)) *側室:山下休蔵の娘 **山下貞倶(通称は休三、寛永11年(1634年)に徳川家光に仕え旗本になり、苗字を里見とする) *側室:広辺高次の娘 **広部義次(通称は忠三郎) ※ただし、山下貞倶、広部義次の2名については忠義の実子かどうか疑問とする説がある。 == 忠義に関する行事・祭事 == *[[倉吉里見時代行列]] - 里見忠義と八賢士の墓所[[大岳院]]がある[[倉吉市]][[打吹玉川]]で、9月第1日曜日開催。 *[[せきがね里見まつり]] - [[関金温泉]]で9月第一日曜日開催。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[雲晴寺]] - 兵庫県明石市の寺院。忠義の正室と、義弟にあたる[[大久保忠職]]([[明石藩]]主)によって忠義の菩提を弔うため創建。 == 外部リンク == *[http://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/5shou/5shou_5/5shou_5min.html さとみ物語第5章] {{安房里見氏当主}} {{館山藩主|里見氏|2代|1603年 - 1614年}} {{倉吉藩主|1614年 - 1622年}} {{DEFAULTSORT:さとみ たたよし}} [[Category:里見氏|たたよし]] [[Category:外様大名]] [[Category:館山藩主]] [[Category:伯耆国の藩主]] [[Category:1594年生]] [[Category:1622年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:倉吉藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:安房里見氏当主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:館山藩主
(
ソースを閲覧
)
里見忠義
に戻る。
検索
検索
里見忠義のソースを表示
話題を追加