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郭淮
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'''郭 淮'''(かく わい、? - [[255年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[魏 (三国)|魏]]に仕えた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志に伝がある。[[字]]は'''伯済'''。[[并州]][[太原]]郡[[陽曲県]]の人。祖父は郭全。父は郭縕。弟は郭配([[賈充]]・[[裴秀]]の舅)・郭鎮。子は郭統。孫は郭正。甥は郭奕。姪は郭槐。 ==生涯== [[建安 (漢)|建安]]年間([[196年]] - [[220年]])に[[孝廉]]で推挙され、[[平原郡|平原]]の丞となった。 [[曹丕]]が五官将になると、郭淮は召し出され門下賊曹に加えられたが、間もなく[[曹操]]へ付き[[漢中]]征伐に随行した。漢中制圧後は[[夏侯淵]]の司馬としてその地に残り、ともに[[劉備]]に備えたが、劉備軍侵攻の際は病気で参戦していなかった。 [[219年]]、[[定軍山の戦い]]で夏侯淵が討たれると軍内は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、<span lang="zh">[[張コウ|張郃]]</span>に司令官を代行させ機略でもって侵攻を防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、<span lang="zh">張郃</span>に節を与え漢中駐留軍の司令官とした上で、郭淮をその司馬に任じた。 220年、曹丕が王位についた時、郭淮は[[関内侯]]の爵位を与えられ、鎮西長史に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し張郃・[[楊秋]]を監督した。周辺の賊を討伐し、[[関中]]に平和をもたらし、民衆を安んじた。 同年、曹丕(文帝)が帝位に就くと祝賀に出向いたが、彼は都へ向かう途上で病気に罹ったため、道のりと日数を計算した上で療養に努めた。しかし、既に彼が参内した頃には祝宴が行われていたため、曹丕は彼を咎めた。古の例を取って非難する曹丕に対し、郭淮はそれを逆手にとって弁明した。そのためかえって曹丕に気に入られ、仮の[[雍州]][[刺史]]に任命され、5年後に正式な雍州刺史となった。何度も[[羌]]族らの反乱を鎮圧したため、降伏者がよく訪れてきたという。予め相手の親族関係などを調査してから面会したため、心を掴んだ。 [[228年]]、祁山に[[北伐|侵攻]]してきた[[蜀漢]]軍と対峙した。蜀軍の一部が街亭を占拠していたため張郃と迎撃に出向き、蜀の[[高翔]]が守る列柳城を攻めて破った([[街亭の戦い]])。このとき、[[隴西郡]]の羌族の名家を破り、建威将軍に任命された。 [[229年]]、蜀の[[陳式]]が[[武都]]・陰平を攻撃してきた。迎撃に出たが、[[諸葛亮]]自ら建威に出陣してきたため敗れ、両郡を奪われた(「諸葛亮伝」)。 [[230年]]、蜀の[[魏延]]が羌中に侵攻してきた。[[費耀]]と迎撃に出たが陽谿で敗れた(「魏延伝」)。 [[231年]]、諸葛亮が鹵城に攻めてきた。[[曹真]]に代わって指揮官となった[[司馬懿]]の下、戴陵や費耀とともに上邽で諸葛亮を迎撃したが敗れた(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。この時、兵糧不足に苦しめられたが、羌族を手懐け兵糧を提供させた。揚武将軍に任命された。 [[234年]]、斜谷に攻めてきた諸葛亮は蘭坑で屯田を始めた。[[長安]]方面への攻撃計画を見破り、迎撃して防衛に貢献した。次に諸葛亮が西方に軍を進めると、陽遂が攻撃されると予想し、再びこれを防いだ。 [[238年]]、蜀の[[廖化]]が守善羌侯の宕蕈を攻撃したため、王贇・游奕に廖化を挟撃させた。郭淮の上奏を受けた[[曹叡]](明帝)は「軍隊の配置は分離を避けるもの」として急ぎ詔勅を下したが、それが届く前に王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)。 [[240年]]、蜀の[[姜維]]が隴西に侵攻してきたが、これを防いだ。羌族の[[迷当]]を攻撃し、さらに[[テイ (民族)|氐]]族3000余部を降参させ関中に強制移住させた。その功績で[[左将軍]]に昇進した。[[涼州]]の休屠胡である梁元碧が雍州に帰順したので、郭淮は[[安定郡]]高平に移住させることを要請し、彼らのために西州[[都尉]]の職を設置するよう取り計らった。後に[[前将軍]]へ転任となったが、州の宰領は元通り執り行なった。 [[244年]]、[[曹爽]]が蜀征伐の軍を起こすと、郭淮も[[夏侯玄]]の下で先鋒として従軍したが、形勢不利を覚った郭淮はいち早く味方の軍を脱出させたため、大敗させずに済んだ。節を与えられた。 [[247年]]から[[248年]]、姜維と廖化は[[蛾遮塞]]・[[治無載]]といった[[俄何焼戈|羌族]]と手を結び魏に侵攻した。諸将が郭淮の、軍を分けて廖化を攻めるべきという判断に反対したが、郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃し、また[[夏侯覇]]を姜維に当たらせた。結果、郭淮の読み通り姜維は廖化を救援し、そのまま敗走した。都郷侯に昇進した。 [[249年]]、夏侯玄に代わって征西将軍・[[都督]]雍涼諸軍事となり、対蜀軍戦線の総司令官にまで昇りつめた。このため、以前より不仲だった夏侯覇は不安を覚え、蜀に亡命したという(「諸夏侯曹伝」が引く『魏略』)。[[陳泰]]と協力し、蜀の[[句安]]らを降参させた。 [[250年]]には、長年の功績を賞され、[[車騎将軍]]・儀同三司に昇進し、引き続き雍涼諸軍事を兼務した。陽曲侯に封じられ、領邑は2780戸となった。その内の300戸が分割され、一子が亭侯に採り立てられた。 [[251年]]、[[王凌|王淩]]が皇帝廃立を目論んでいたことで司馬懿に討伐され、自害に追い込まれた。郭淮の妻が王淩の妹であったため、妻は罪人として中央に赴くよう要請されてしまった。郭淮の配下や周辺の部族長が、挙って郭淮の下へ押し寄せ助命を嘆願したが、郭淮は聞き入れなかった。妻が雍州を離れることになった際、子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願したため、郭淮はそれを見過ごすに忍びず、妻を取り返した。また、この件を司馬懿に言上し「子供らは母親を哀んでおり、もし母親を失えば彼らも自害するでしょう。そして子供らが亡くなれば、私もまたいないことになります。故に妻を取り返してしまいました。これが法上許されないのであれば、私も然るべき罪に服す所存でございます」と述べた。司馬懿はその言を受け、彼らの罪を不問とした(『世語』)。 255年死去。[[大将軍]]を追贈され、貞侯と[[諡]]された。子が跡を継いだ。郭淮の一族は、[[西晋|晋]]代にはそれぞれ高官に昇ったという。 小説『[[三国志演義]]』では、自分で射た矢を姜維に射返され落命している。 {{DEFAULTSORT:かく わい}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:太原出身の人物]] [[Category:255年没]]
郭淮
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