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那須与一
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[[ファイル:NasunoYoichi.jpg|thumb|280px|那須与一([[渡辺美術館]]蔵)]] '''那須 与一'''(なす の よいち、[[嘉応]]元年([[1169年]])? - ?)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。系図上は[[那須氏]]2代当主と伝えられる。父は[[那須資隆]](太郎)。妻は[[源義重|新田義重]]の娘。一般的には本名は'''宗隆'''(『[[平家物語]]』では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の'''資隆'''と名乗ったと伝えられる(この項目での呼称は「与一」で統一する)。 == 名の由来 == 与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては[[佐奈田義忠]]、[[浅利義遠]]がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。 == 略歴 == 『[[吾妻鏡]]』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は[[軍記物語|軍記物]]である『平家物語』や『[[源平盛衰記]]』に伝えるところが大きい(そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。『平家物語』の記述から逆算すると、[[1169年]](あるいは[[1166年]]、[[1168年]])頃に誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城[[神田城]](現在の[[栃木県]][[那須郡]][[那珂川町 (栃木県)|那珂川町]])と推測されることが多い。 [[ファイル:Yasima.jpg|thumb|300px|『[[平家物語]]絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」]] [[治承・寿永の乱]]において、[[源頼朝]]方に加わり、[[源義経]]に従軍。[[元暦]]2年([[1185年]])の[[屋島の戦い]]では、[[平氏]]方の軍船に掲げられた[[扇子|扇]]の的を射落とすなど功績を挙げ、[[源頼朝]]より[[丹波国|丹波]]・[[信濃国|信濃]]など5カ国に[[荘園]]を賜った([[丹後国]]五賀荘・[[若狭国]]東宮荘・[[武蔵国]]太田荘・信濃国角豆荘・[[備中国]][[後月郡]]荏原荘)。また、十郎為隆を除く9人の兄達が、皆[[平氏]]に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら[[那須氏]]の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、[[下野国]]における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、[[山城国]]伏見において死去。法名は即成院殿禅海宗悟大居士(又は即成院殿月山洞明大居士)。なお、『[[寛政重修諸家譜]]』では[[文治]]5年([[1189年]])8月8日死去、『[[続群書類従]]』では[[建久]]元年([[1190年]])10月死去とある。家督は兄の[[那須資之|五郎資之(之隆)]]が継承したが、まもなく[[鎌倉幕府]]の有力御家人[[宇都宮朝綱]]の実子(異説もある)である[[那須頼資|頼資]]が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、[[建久]]4年([[1193年]])に[[源頼朝]]の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)[[那須光資|光資]]である。 == 異説・伝承 == 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、[[治承]]4年([[1180年]])、[[那須岳]]で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の[[千本為隆|十郎為隆]]と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している<ref>[http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,858,46.html 那須与一公ゆかりの地]</ref>。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。 子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、[[梶原氏]]と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、[[越後国]]の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け(息子は越後那須氏の祖となる)たという。その他、[[常陸国]]、[[出羽国]]、[[阿波国]]にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。また、[[弘前大学教授夫人殺人事件]]で犯人とされ有罪判決が下され、後に冤罪が発覚した那須隆は、那須氏36代当主である。(江戸時代に養子縁組で家名をつないでいるため、那須資房、那須資胤ら統一那須氏の実の子孫ではない) また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中国荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくても鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。また、与一に関する伝説の継承には備中那須氏をはじめとする西国の庶流が関わっており、下野那須氏の間では少なくても南北朝期の段階では与一の伝説については認識されていなかった可能性も指摘されている<ref>山本隆志「白河結城家文書のなかの那須文書」(初出:村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)/改題所収「関東御家人那須家の成立と東・西での展開」山本『東国における武士勢力の成立と発展』(思文閣出版、2012年) ISBN 978-4-7842-1601-7)</ref>。 また、没年についても、1189年(又は1190年)に没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由は[[ハンセン病|癩病]]にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して[[浄土宗]]に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、[[貞永]]元年([[1232年]])に[[中風]]のため[[摂津国]]で没したという。 弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。 == 墓所 == [[ファイル:Nasuyoichi1.JPG|thumb|right|200px|那須與一宗高公御墓所]] 墓所は、[[京都府]][[京都市]]の[[即成院]]であるが、兄の[[那須資之]]が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、永正11年([[1514年]])に、一度は廃寺になったものの、天正18年([[1590年]])、[[那須資景]]が[[那須氏]]の菩提寺[[玄性寺]]([[栃木県]][[大田原市]])として再建し、[[那須氏]]では、こちらを本墓としている。 また、[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]の碧雲寺宗照院には、那須與一宗高公御墓所という与一の墓とされるものがある。この墓にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。また近くには与一が信仰したとされる北向八幡神社と、地元の人々が与一を祀った那須神社がある。 [[山形県]][[米沢市]]中央5丁目の[[西蓮寺 (米沢市)|西蓮寺]]の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与一の名を刻む高さ約4.2メートルの三重石塔がある。これは与一の供養塔とされ、塔には「那須与一宗隆公」、「千坂対馬守景親公」と刻まれており、裏には「享保四年孟夏十三日建立」と建立日が刻まれている。[[千坂景親]]は[[上杉謙信]]の重臣だが、[[千坂氏]]は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊(虚空蔵菩薩像)が伝わっていたとされる。 また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原荘(現在の[[岡山県]][[井原市]]西江原)の山中にも与一の五輪供養塔が存在する。また備中荏原の菩提寺として開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社や、那須一族の居城とされる小菅城址や創建した神社も存在する。 == 後世への影響 == * [[那須氏]]の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが([[那須資隆]]、[[那須光資]]等)、[[江戸時代]]以降、[[那須資景]]など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。 == 演じた俳優 == * [[勝新太郎]](『[[静と義経]]』[[1956年]]、[[大映]]) * [[高橋悦史]](『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』[[1966年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]) * [[諸星和己]](『[[源義経 (1990年のテレビドラマ)|源義経]]』[[1990年]]、[[TBSテレビ|TBS]]) * [[今井翼]](『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』[[2005年]]、NHK大河ドラマ) * [[松尾英太郎]](『[[偉人の来る部屋]]』) == 那須与一を扱った作品 == === 歌謡曲 === * 長編歌謡浪曲 屋島の扇 ([[三波春夫]]) === コミック === * [[平野耕太]]『[[ドリフターズ (漫画)|ドリフターズ]]』([[ヤングキングアワーズ]]2009年6月号より連載中。副主人公格) ===盆踊り=== * [[和歌山県]][[みなべ町]] 堺浦の盆踊りの唄に「那須の与一」があり、古老からの口伝えで歌われている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[那須氏]] * [[むれ源平 石あかりロード]] * [[ドリフターズ (漫画)]] - 那須与一がメインキャラクターとして登場 == 外部リンク == * [http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,853,46.html 大田原市 郷土の誉れ 那須与一] {{DEFAULTSORT:なすの よいち}} [[Category:架空の人物]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:下野国の人物]] [[Category:那須氏|よいち]] [[Category:1169年生]] [[Category:没年不明]]
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