遠山夫人のソースを表示
←
遠山夫人
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''遠山夫人'''(とおやまふじん、[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])? - [[永禄]]10年([[1567年]])は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の女性。[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]の当主[[武田勝頼]]の[[正室]]。[[武田信勝]]の母。父は[[美濃国|美濃]][[国人|国衆]][[苗木遠山氏]]の[[遠山直廉]]で、母は[[尾張国|尾張]]の[[戦国大名]][[織田信長]]の妹にあたる([[遠山直廉夫人]])。つまり、信長の姪にあたり、信長養女として武田家に嫁いだ。 == 略歴 == 甲斐国の武田氏は、[[武田信玄|信玄(晴信)]]期に北信濃をめぐり[[越後国]]の[[上杉氏]]と抗争していたが、永禄4年(1561年)の[[川中島の戦い]]を機に北信をめぐる抗争は収束し、外交方針を転換する。尾張の[[織田信長]]は永禄3年5月の[[桶狭間の戦い]]において武田氏の同盟国である[[駿河国]]の[[今川義元]]を討ち取り、今川氏は領国の動揺を招いていた。 武田氏は信濃領国を通じて美濃と接し、永禄初年頃には織田氏や苗木遠山氏と外交を持ち、苗木遠山氏は織田・武田間の両属関係にあり、織田氏は武田氏の同盟相手である今川氏の当敵であったが、友好的関係を築いていた。 遠山夫人の嫁いだ諏訪勝頼([[武田勝頼]])は信玄庶子で、信濃旧族の[[諏訪氏|高遠諏訪氏]]を継承していた[[分郡領主]]であったが、武田家中において今川義元の娘を室としていた嫡男[[武田義信|義信]]が廃嫡される事件が起こり、勝頼は武田家世子の立場となっていた。『[[甲陽軍鑑]]』に拠れば、永禄8年([[1565年]])9月9日に信長側が一族の[[織田忠寛|織田掃部助]](一安)を使者として武田家に遣わし、同年11月13日に勝頼の元に嫁いだとされるが、文書上からは確認されない。 『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄10年(1567年)11月に信勝を産むが、難産のため死去した。同年末には信玄五女の[[信松尼|松姫]]と信長嫡男[[織田信忠|信忠]]との婚約が成立したとされるが、武田氏と織田氏は元亀年間に手切となり敵対関係となったため、婚姻は成立していない。 遠山夫人と勝頼の婚姻は武田氏の外交方針転換を象徴するもので、翌永禄11年末に武田と今川氏は手切となり、武田氏による今川領国への侵攻([[駿河侵攻]])が開始される。武田氏は駿河侵攻後に、織田氏の同盟相手である[[三河国]]の[[徳川家康]]と対立関係になるものの、武田氏は元亀3年に手切となるまで信長と友好的関係にあった。 勝頼は天正5年に[[北条氏政]]の妹を継室に迎えているが、『甲陽軍鑑』によれば遠山夫人の産んだ信勝が武田家の世継と定められている。信勝は天正7年(1579年)に[[元服]]し、勝頼に後見されるが、天正9年(1582年)の織田・徳川連合軍による[[甲州征伐]]で武田氏は滅亡する。 {{DEFAULTSORT:とおやまふしん}} [[Category:戦国時代の女性 (日本)]] [[Category:武田氏]] [[Category:勝幡織田氏]] [[Category:苗木遠山氏]] [[Category:1553年生]] [[Category:1567年没]]
遠山夫人
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報