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達磨
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{{Otheruses|宗教家「菩提達磨」|玩具・置物|だるま|その他の「ダルマ」|ダルマ}} {{Infobox Buddhist |名前=達磨 |生没年=[[378年]]? - [[528年]]? |諡号=達磨大師 |生地=[[インド|南天竺国]] |没地=中国 |画像=[[Image:BodhidharmaYoshitoshi1887.jpg|200px]] |説明文=[[月岡芳年]]画『達磨図』(木版画 [[1887年]]) |宗派=楞伽宗([[禅宗]]) |寺院= |師=[[般若多羅]] |弟子=[[慧可]]・[[曇林]] |著作= }} [[File:HK Museum of Art TST Bodhidharma figure 2.JPG|thumb|200px|菩提達磨]] '''菩提達磨'''(ぼだいだるま、{{lang-sa-short|बोधिधर्म}}, bodhidharma, '''ボーディダルマ''')は、中国[[禅宗]]の開祖とされている[[インド人]][[仏教]]僧である。'''達磨'''、'''達磨祖師'''、'''達磨大師'''ともいう。「ダルマ」というのは、[[サンスクリット語]]で「[[法 (仏教)|法]]」を表す言葉。達摩との表記もあるがいわゆる中国禅の典籍には'''達磨'''、古い写本は'''達摩'''と表記する。<!--「達(ダチ)」を「ダル」と読むのは中古漢語の[[入声]][t]が朝鮮語漢字音で流音[l]に変化したため達[dat]は朝鮮半島で[dal]に変わり、その音が日本に伝わったためとされる{{要出典}}。(極めて怪しい説なので、非表示にします。出典を明記してください。)-->画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。 [[曇林]]が伝えるところによると、南[[インド]]の[[タミル]]系[[パッラヴァ朝]]において国王の第三王子として生まれ、[[中国]]で活躍した[[仏教]]の[[僧侶]]。[[5世紀]]後半から[[6世紀]]前半の人で、[[道宣]]の伝えるところによれば[[宋_(南朝)]]の時代(遅くとも[[479年]]の[[斉_(南朝)]]の成立以前)に中国にやって来たとされている。中国[[禅]]の開祖。『[[景徳傳燈録|{{Lang|zh|景德傳燈錄}}]]』によれば[[釈迦]]から数えて28代目とされている。[[インド]]から[[中国]]南方へ渡海し、[[洛陽]]郊外の[[嵩山少林寺]]にて面壁を行う。確認されているだけで[[曇林]]、[[慧可]]の[[弟子]]がいる。彼の宗派は当初[[楞伽宗]]と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『[[二入四行論]]』などがある。 == 生涯 == 「ダーマ」とも。菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南[[天竺]]国[[香至]]王の第三王子として生まれ、[[般若多羅]]の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は[[東魏|魏]]撫軍府司馬[[楊衒之]]撰『''[[洛陽伽藍記]]''』([[547年]])にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。 :時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す ::このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。 :〈[[永寧寺]]塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮所(諸仏の国)にも無い也、極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。 ::永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。(洛陽城内伽藍記巻第一([[永寧寺]]の条)) また、『''[[二入四行論]]''』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想をも伝えている。 [[普通 (梁)|普通]]元年([[520年]])、達磨は海を渡って[[中国]]へ布教に来る。[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]([[10月18日]])、[[広州市|広州]]に上陸。当時中国は[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]に分かれていて、南朝は[[梁 (南朝)|梁]]が治めていた。 *『{{Lang|zh|景德傳燈錄}}』第三巻 {{Quotation|{{lang|zh|帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德<br>師曰 並無功德<br>帝曰 何以無功德<br>師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實<br>帝曰 如何是真功德<br>答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求<br>帝又問 如何是聖諦第一義<br>師曰 廓然無聖<br>帝曰 對朕者誰<br>師曰 不識<br>帝不領悟<br>師知機不契}}|}} **この書では梁の[[蕭衍|武帝]]は[[仏教]]を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。 <blockquote>帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」<br>師曰く「並びに功徳無し」<br>帝曰く「何を以て功徳無しや」<br>師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」<br>帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」<br>答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」<br>帝又問う「如何が是れ[[四諦|聖諦]]の第一義なるや」<br>師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」<br>帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」<br>師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」<br>帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り</blockquote> 武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は[[縁]]がなかったと思い、[[北魏]]に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。 達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年[[坐禅]]を続けたとされているが、これは彼の'''壁観'''を誤解してできた伝説であると言う説もある。'''壁観'''は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖[[慧能]]の言葉とされる[[坐禅]]の定義などに継承されている。 [[大通 (梁)|大通]]2年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[529年]][[1月4日]])、神光という僧侶が自分の[[臂]]を切り取って<ref>この伝説もまた、慧可と曇林が盗賊に臂を斬られたという唐高僧伝のエピソードからの潤色と[[水野弘元]]などは指摘する。</ref>決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を[[慧可]]と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。<ref>[[瑩山紹瑾]]『[[伝光録]]』第二十九章を参照。</ref> [[永安 (北魏)|永安]]元年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[528年]][[11月2日]])に150歳で[[遷化]]したとされる<ref>大川普済『[[五灯会元]]』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。[[成尋]]『参天台五台山記』によると[[太和 (北魏)|太和]]19年([[495年]])10月5日入滅であるが、それより後年にも活動していた記述があり、信憑性にはやや問題がある。</ref>。一説には達磨の高名を羨んだ[[菩提流支]]と[[光統律師]]に毒殺されたともいう<ref>[[道元]]『[[正法眼蔵]]』第二十五「渓声山色」、瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」を参照。</ref>。 その没後には[[道教]]の[[尸解]]に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として[[西域]]からの帰途にあった[[宋雲]]が[[パミール高原]]で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、[[孝明帝]]の崩御を知る。[[孝荘帝]]が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。 == 影響 == [[Image:Bodhidarma.jpg|thumb|120px|right|[[白隠慧鶴]]筆『達磨図』]] 達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖[[慧能]]にまで伝わったことになっている。さらに[[臨済宗]]、[[曹洞宗]]などの[[禅#五家七宗(ごけしちしゅう)|禅宗五家]]に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。 禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。 達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としての[[だるま]]ができた。これは[[縁起|縁起物]]として現在も親しまれている。 == 注 == <references /> == 関連項目 == *[[聖徳太子]] *[[達磨寺]] *[[雪だるま]] *[[だるま]] == 関連図書 == *『達磨からだるま ものしり大辞典』中村浩訳・著、社会評論社刊(2011年7月)、ISBN978-4-7845-1903-3 C0076 {{先代次代|[[禅宗]]|初祖|[[般若多羅]]|[[慧可]]}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:たるま}} [[Category:禅僧]] [[Category:インドの僧]] [[Category:仏教宗派の開祖]]
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