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'''逃散'''(ちょうさん)とは、日本の[[中世]]から[[近世]]にかけて行われた[[農民]]抵抗の手段、闘争形態である。兆散とも言う。[[古代]]の[[律令時代]]に[[本貫]]から逃れて流浪する[[逃亡 (律令)|逃亡]]及び律令制解体後に[[課税]]に堪えずに単独もしくは数名単位で他の土地に逃れる逃亡・[[欠落]]とは区別される。 ==江戸時代以前== [[村]]の住民([[百姓]]など)が集団で[[荘園 (日本)|荘園]]から退去して一時的に他の土地へ逃げ込み、[[領主]]に対して[[年貢]]軽減や[[代官]]の罷免などを求めるようになる。彼らは[[一味神水]]などの[[儀式]]を行うことで団結を図り、不当な課税や[[検断]]に対して抵抗した。要求が受け入れられた場合には帰住し、百姓[[申状]]の提出や[[起請文]]の作成、争いの対象になっていない年貢の皆済など所定の手続きを経ていれば合法的な抵抗手段として認められていた。 律令制の土地支配が解体し、荘園制度が行われるようになった[[平安時代]]からこうした現象がみられたが、他にも留守宅に妻子を残したり、逃散と称して実際には家に閉じこもって領主側の命令を拒絶するという抵抗方法もみられた。[[東大寺]]の荘園であった[[伊賀国]]の[[黒田荘]]・[[玉瀧荘]]の記録には、「篠を引く」「柴を引く」という表現で登場する。これは逃散時に依代として用いられていた篠や柴を家や田畑に掲げたり、囲い込むことによって領主側の立入や侵害行為を防止する意図があった。 [[御成敗式目]]42条には、所定の年貢を皆済して逃散した場合、領主側が「[[逃毀]]」を主張して妻子や家・田畑を差し押さえることを禁じている(ただし、異説もある)。 [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から増加し「山林に交わる」「山野に入る」などと記録されるようになり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、戦乱に伴って[[山賊]]や[[海賊]]などの被害が多く、また重い[[年貢]]を課されたため逃げ出すものが多く、領主たちにはこのような領民が出ないようにする統治能力も求められていた。 [[1488年]]に[[加賀国|加賀]]において[[守護]]の[[富樫政親]]を[[追放]]し、[[門徒]]領国を形成した[[加賀一向一揆]]は、領主と戦った例として知られる。 ==江戸時代== [[江戸時代]]には、逃散した百姓が[[都市]]部へ出て、安い[[賃金]]で生活することが一般に見られた。[[生産者]]である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者([[江戸幕府|幕府]]、[[大名]]、[[旗本]]ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、移住も原則として認めなかった。 一揆の発生は幕府よりの[[改易]]、取り潰しの理由となり、大名は年貢の軽減を図った<ref>一部の[[藩]]([[薩摩藩]]など)においては全江戸期を通じて農民に対する厳しい収奪が行われ、中農、富農が成立する条件は成立しなかったとされることもあるが、度を越した収奪が行われれば没落する農民が現れ富の寡占が進んで富農が出現するはずである。そのため、中農、富農が成立しないということは逆に農民が自立可能な程度の年貢であったことになる。</ref>。 それでも、江戸時代における逃散行為の存在が確認される。ただし、中世のものと違って一味神水のような[[宗教]]的な要素が薄れ、家に隠れ籠るような形態がとられることが無くなったこと、[[庄屋]]など大百姓の指導の下村中が田畑耕作を放棄して山林に逃れる(「山上がり」「山籠もり」)のが特徴的である。また、中には他領へ逃れて[[越訴]]や[[強訴]]に及び、自己の領主の不当性を訴えて問題を領外にまで拡大させることも行われた。 江戸時代を通じて公対民の年貢率は一貫して下がる傾向があり(特に[[天領|幕府直轄地]]において)逃散はそれほど深刻な問題とはならなくなっていったと考えられる。それでも、百姓らは権利要求の手段として、逃散を行うこともあり、[[江戸]]などの都市部へ流入した。その結果、都市部では[[貧民]]が多く存在するようになり、それに伴う[[犯罪]]の増加など、現代まで続く都市問題が見られるようになった。 ==派生した用語== 現代の日本において、[[勤務医]]の辞職を''逃散''と呼ぶことがある。72時間連続の当直明け勤務など、[[労働基準法]]に違反する長時間労働を強いられている病院の[[医師]]が、待遇が改善されずに絶望して辞職することを指す。 [[小泉政権]]がすすめてきた[[医療費]]削減政策の結果、日本の勤務医の労働環境は悪化の一途をたどってきた。こうした状況に疲弊しきった勤務医が、最後にとりうる抵抗手段として辞職を選ぶようになった。辞職はしばしば連鎖的に発生し、地方か都市かを問わず、基幹病院の診療体制を崩壊させる深刻な影響を与えている。 医療崩壊を描いた[[小松秀樹]]の著書、「医療崩壊―『立ち去り型サボタージュ』とは何か」では、「逃散」に相当する現象は「立ち去り型サボタージュ」と呼びかえられており、この本が出てからは口当たりのよい後者の名称で呼ばれることが多い。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == *加藤友康「逃亡 (日本の)」(『歴史学事典 4<small>民衆と変革</small>』(弘文堂、1996年) ISBN 978-4-335-21034-1) *黒田弘子「逃亡」(『歴史学事典 10 <small>身分と共同体</small>』(弘文堂、2003年) ISBN 978-4-335-21040-2) == 関連項目 == *[[人足寄場]] *[[脱藩]]:(武士階級が行うもの) *[[欠落]] *[[無宿]] {{DEFAULTSORT:ちようさん}} [[Category:村落共同体]] [[Category:室町時代]] [[Category:江戸時代の民衆運動]]
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