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'''追捕使'''(ついぶし)は[[日本]]の[[律令制]]下の[[令外官]]の一つ。[[警察]]・軍事的[[官職]]。初めは臨時の官職であったが、後に[[令制国|諸国]]に常設されるようになった。 == 概要 == 最初に設置されたのは[[932年]]([[承平 (日本)|承平]]2年)で、当初[[南海道]]で頻繁に出没していた[[海賊]]・凶賊を掃討する目的で設置された。「[[追捕]]」は「追い捕らえる」の意で、元々軍事的役割を含んでいなかったが、海賊、反乱などを鎮圧するという目的から、実際に戦闘に当たることが多かった。 追捕使になったものとしては、[[承平天慶の乱]]で[[藤原純友]]の乱の鎮圧に当たった[[小野好古]]が有名。 その後、諸国に常設されるようになると、[[国司]]を追捕使に兼任させたり、地方の[[豪族]]を任命したケースが多かった。[[12世紀]]末ごろになると、'''惣追捕使'''(総追捕使)として一国の警察・軍事的役割を担う官職があらわれ、追捕使の職務は引き継がれた。さらにその後、[[1190年]]に[[源頼朝]]が'''日本国惣追捕使'''に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が[[鎌倉殿]]に移り、[[守護]]と名を変え、後に発展していった。 == 関連項目 == *[[地頭]] *[[押領使]] *[[鎌倉幕府]] *[[守護]] *[[守護大名]] {{DEFAULTSORT:ついふし}} [[Category:令外官]] [[Category:鎌倉幕府の職制]] [[Category:日本の軍事史]]
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