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'''近藤 芳助'''(こんどう よしすけ、[[天保]]14年([[1843年]])5月 - [[大正]]11年([[1922年]])[[7月5日]])は、[[新選組]]隊士。[[階級]]は[[伍長]]。後に'''川村三郎'''(かわむら さぶろう)と名乗る。 == 生涯 == [[近江国]]国友村(現・[[滋賀県]][[長浜市]])出身。2歳の時に父、10歳の時に母を失う。幼少より[[江戸]][[試衛館]]の近所に住んでいたという。[[元治]]元年([[1864年]])[[10月 (旧暦)|10月]]、隊士募集に応じて22歳で新選組に入隊。伍長を勤めた。 [[鳥羽・伏見の戦い]]で負傷したが、[[甲州勝沼の戦い]]に従軍し[[会津戦争]]に復帰。[[母成峠の戦い]]で新選組本隊とはぐれ、[[靖兵隊]](靖共隊)を組織していた[[永倉新八]]と再会して、共に[[米沢藩|米沢]]に向かった。[[榎本武揚]]・[[土方歳三]]らの[[蝦夷地]]渡航を伝え聞いて、同じく蝦夷地へ向かおうとしていたところ、[[米沢城]]下で[[官軍|新政府軍]]に捕まり江戸へ送られる。新政府の訊問では、新選組隊士であることは明かさずに、単に[[幕臣]]であるとした。[[静岡藩]]預かりとなった後、[[京都]]へ送られて取り調べの末、[[明治]]3年([[1870年]])に釈放される。 その後、[[横浜市]]住吉町、南大田町で代言士(後の[[弁護士]])を開業。明治20年([[1887年]])、[[日本の地方議会議員|県令議員]]に就任し、以後、[[市町村議会|市議会]]議員、[[日本の地方議会|県議会]]議員を務める。議員仲間の[[高橋正意]]に送った手紙が貴重な新選組関係[[史料]]として残る。[[永倉新八]]や[[斎藤一]]など、生き残りの新選組隊士らとも交流が続いていた。大正11年(1922年)、死去。享年80。 なお、[[2009年]]放送の『[[開運!なんでも鑑定団]]』において、子孫が遺品である[[近藤勇]]と土方歳三の[[肖像]]写真を出品。どちらもオリジナルから複写されたもので数枚しか現存しない貴重なものだった。 {{DEFAULTSORT:こんとう よしすけ}} [[Category:新選組隊士]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:明治時代の人物]] [[Category:日本の弁護士]] [[Category:神奈川県の地方議会議員]] [[Category:1843年生]] [[Category:1922年没]]
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