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足利義維
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{{複数の問題|ソートキー=人1573年没 | 出典の明記 = 2012年5月 | 参照方法 = 2012年5月 | 独自研究 = 2012年5月 }} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 足利義維 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] ‐ [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[永正]]6年([[1509年]])<ref>『阿州足利平島伝来記』</ref> | 死没 = [[天正]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]([[1573年]][[11月2日]]) | 改名 = 亀王(幼名)→義賢(初名)→義維→義冬 | 別名 = 堺公方、堺大樹、平島公方、阿波公方<ref>阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵「系譜寫」、「源姓足利家略系図」</ref>、阿波御所<ref>阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵「系譜寫」、「系図の写し」</ref>、左馬入道殿<ref>『続応仁後記』</ref>、無覺寺殿<ref>『足利系図』続群書類従第5輯上系図部p.307。昭和34年5月15日訂正3版</ref>。 | 戒名 = 慶林院実山道詮 | 墓所 = [[徳島県]][[阿南市]][[那賀川町]]赤池の[[西光寺 (阿南市)|西光寺]] | 官位 = [[従五位]]下、[[馬寮|左馬頭]] | 幕府 = [[室町幕府]] | 主君 = | 氏族 = [[足利氏]] | 父母 = 父:[[足利義澄]]、母:[[斯波氏]]<br />養父:''[[足利義稙]]'' | 兄弟 = [[足利義晴|義晴]]、'''義維''' | 妻 = [[正室]]:[[大内義興]]の娘 | 子 = [[足利義栄|義栄]]、'''[[足利義助|義助]]'''、[[足利義任|義任]](よしとう) | 特記事項 = }} '''足利 義維'''(あしかが よしつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての人物。[[室町幕府]]第11代将軍・[[足利義澄]]の次男(※実際には12代将軍・[[足利義晴]]より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・[[足利義稙]]の[[養子]]。第14代将軍・[[足利義栄]]の父。[[堺公方]]・[[平島公方]]と呼ばれた。 == 改名歴 == 一般的には「'''足利義維'''」の名で広く知られているが、生涯の間に数回改名している。 * '''足利亀王'''(かめおう、[[幼名]]) * '''足利義賢'''(よしかた、義稙が大永元年([[1521年]])に京都を出奔したときに、養嗣子義賢を伴って和泉淡路を転地とあり、その名が見える<ref>『公卿補任』</ref>。 * '''足利義維'''(よしつな、大永7年([[1527年]])7月13日の元服時に義賢から<ref name="足利季世記">『[[足利季世記]]』</ref>) * '''足利義冬'''(よしふゆ、天文3年([[1534年]])9月末の堺公方崩壊後、淡路[[志筑|志筑浦]]に渡ったときに義維から<ref name="足利季世記"/>) ※以下、本文中では原則、記事題名となっている「'''義維'''」で統一する。 == 生涯 == [[永正]]6年([[1509年]])、[[足利義澄]]の次男(※実際には長男とされる、後述参照)として生まれる<ref>出生に関しては義澄と同時代の[[公卿]]である[[鷲尾隆康]]の『[[二水記]]』で義澄が播磨に下向した際に生まれたとしている。</ref>。[[阿波国]]守護・[[細川之持]]の庇護の下で成長する。 [[大永]]7年([[1527年]])、[[桂川の戦い]]で[[三好元長]]・[[細川晴元]]らと共に、兄の第12代将軍・[[足利義晴|義晴]]を擁する[[細川高国]]を打ち破って[[近江国]]に放逐し、[[堺市|堺]]に居ながら京都および[[山城国]]・[[摂津国]]を実効支配した。義維は将軍には正式にならなかったが[[朝廷]]から同年7月13日に[[従五位]]下・[[馬寮|左馬頭]]に叙任されており、次期将軍として約束されていたため'''堺公方'''(または'''堺大樹''')と呼ばれるようになる。 しかし、[[天文 (日本)|天文]]元年([[1532年]])に後見人の三好元長が細川晴元により自害に追い込まれ、自身も自殺しようとするが、晴元に制止され、その後、阿波国へ渡り、阿波守護・細川之持に庇護された。[[西光寺]]にまず入り、[[天龍寺]]の[[荘園]]平島荘に遷って行った。しかしこの5年間は、実質上幕政の中心にいたと考えられるという説もある。 阿波では3千貫の所領を得る<ref>『[[系図纂要]]』参照</ref>が、天文22年([[1553年]])、[[三好義賢]]が之持の子・[[細川持隆|持隆]]を謀殺した事件に激怒し、天文24年([[1555年]])4月に阿波国を去って[[周防国|周防]][[大内氏]]の下へと移るが、[[永禄]]6年([[1563年]])頃に[[三好長逸]]らの手引きにより帰国する。またこの頃、[[中風]]になる。 永禄8年([[1565年]])、[[松永久秀]]らによる[[永禄の変]]で甥の[[足利義輝|義輝]]が謀殺され、永禄9年([[1566年]])に[[三好三人衆]]に「松永対治の御教書」を出した。 のち久秀に擁立されて将軍となった嫡子・義栄を後見する。ついで[[織田信長]]に擁された[[足利義昭]]との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に義栄が病死し、再度阿波国に引き上げた。 天正元年([[1573年]])10月8日に死去した。享年65。 [[野史]]では、義維と義冬とで別人の扱いとなっている。<ref>義維は、堺公方崩壊後に自殺をしそうになるが、それを細川晴元に止められたあと消息不明になったとあり、義冬は義稙の実子の扱いになっている。</ref> 木像は、京都の足利家が所持し、それを模造した像が、[[阿南市立阿波公方・民俗資料館]]に所蔵、養父足利義稙、長子足利義栄の像とともに常設展示されている。 == 子孫 == 三男の義任(義遠とする資料もある)は、天文12年平嶋の生まれ、母、周防国大内之介之女。[[文禄]]年間に死去。[[萩原明岳|萩原光勝院明岳]]の父<ref>『平嶋記』</ref>。 子孫は阿波平島に代々住み、平島公方と呼ばれた(ただし子孫は、阿波公方や阿州公方といった称号を使い続けていた。また、無位無官にもかかわらず、[[大納言]]の装束で外出するなど、その称号に対する誇りだけは、高いものがあった)。 [[中富川の戦い]]などで[[長宗我部氏]]を積極支援するなど、[[蜂須賀氏]]とはいわば敵対関係にあったためか、蜂須賀氏が阿波を支配した後からは、足利姓を名乗ることを禁ぜられるなど、常に冷遇された。とはいえ、蜂須賀家は、平島公方家を臣下に組み込むべく策謀するなどしたことや、平島公方家を懐柔するべく、動きを取ったこともあるにはあったが、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])、ついに9代公方[[足利義根]]が不満を爆発させ、祖先が政治を執った[[京都]]に去り、平島姓から足利姓に復した。 [[明治維新]]後に[[華族]]編入を願い出たが、[[大名]]であった[[古河公方]]系統の旧[[喜連川氏]]のように[[爵位]]を賜ることが出来ず、またそのために、天龍寺などから受けていた援助の打ち切りとなり、その上、[[浪人]]身分であったため[[平民]]とされた。 現在は義維から数えて14代目の子孫で、[[創造学園大学]]教授[[足利義弘]](よしひろ)が足利家28代(尊氏から数えて)当主とされている。 == 義晴との年齢差に関して == 義維は義晴より年上とされているが、嫡男扱いも兄の扱いもされずに次男とされている。これに関しては諸説がある。 まず、義晴の出生が永正8年([[1511年]])であることは間違いなく、多くの史料<ref>『足利季世記』『伊勢守貞忠亭御成記』『菅別記』</ref>によって立証されている。これに対して義維の出生年に関しては諸説がある。義晴と同年の兄とされていれば<ref>「法住寺殿第一男、(中略)是は京都の公方様(=義晴)と御同年の御所也」(『続応仁後記』)</ref>、1歳上の兄ともされてもおり<ref>「翌年(永正8年)前公方様(義澄)は九里の館にて二男の若君御儲有り」とある</ref>。ただし永正6年([[1509年]])生まれの説もあり<ref>「(永正)八年、三月の比、斯(岡山)にて嫡男の御儲あり。義澄卿は若君を御同道にて、密に播州へ御下向あり、彼所の国守赤松を頼ませ給ふ。斯にしばらく御座の間に次男の若君御誕生有ければ、即ち此若君を赤松に御預置給ふ。義晴と申けるは此若君の御事なり」(『[[公方両将記]]』)</ref>、播磨の下向に関しては高代寺の記録にもある<ref>『高代寺日記』</ref>。 また義維の家臣だった者の子孫の記録<ref>『平島殿先祖並細川家三好家覚書』</ref>、義維の孫にあたる[[足利義種|義種]]の記録<ref>『阿州足利平島伝来記』</ref>によると、「義維は65歳で天正元年十月八日に没した」と記録されており、この年齢を逆算すると永正6年となる。最も義種は義維死去の翌年(天正2年([[1574年]]))の出生で、この記録も前者は[[寛永]]2年([[1625年]])に、後者は寛永6年([[1629年]])9月に記されたものであり、信頼性に関して疑問が持たれているのも事実である。 このため義晴が嫡男扱いされているのは、生母の違いがあるためではないかとする説もある。 歴代の将軍正室に迎えられた[[日野家]]の所生たる義晴に対し、足利一門で最高の家格を持つものの、足利氏の分家に過ぎない斯波氏を生母とする義維。義維の母(斯波氏)の位置付けが、日野氏の上に成るとは考えにくく、そこから年齢の順に関係なく義晴・義維の序列が決まってしまったというものである。ただし、義澄正室の[[日野永俊]]娘(安養院)は、永正2年([[1505年]])に義澄と事実上離縁(出家)しており、年代的に安養院が義晴生母とは考えにくい。さらにそもそも義晴生母は'''阿与'''という御末(雑仕女)であったという説もある。また義晴が義澄の継室とされる六角氏の所出であったとしても、義維の生母(とされる)である斯波氏の方が家格は高い。このように生年からも生母の身分からも義維のほうが遥かに嫡出の男子と言えるため、結局のところ義晴と義維の年齢差に関しては不明である。 (つまり、仮に家格が義澄>義維だったとしても、上記により義維>義晴となる為、また義晴の年齢も考慮して、本来ならば12代将軍は義澄が死去した時点でまだ生存していた義維となるのが妥当である、しかし実際には義晴が12代将軍となり、義維は将軍にはなっておらず、また後に将軍となる義輝が死去した際、直系である弟の義昭が生存していたにも関わらず、義維の子だった義栄が将軍となっている事から見ても、義維の家格はそこまで低くはなかったと考えられるが、当の義昭が当時出家していたうえ、義輝死去時点ではその生死も不明だったため、将軍襲位の可能性がなかったこともあげられる。それ以前に、義栄将軍襲位当時、義冬は中風での健康不安のため、自身の将軍襲位はあきらめている。) また、佐竹系図<ref>続群書類従第5輯上系図部p.507。昭和34年5月15日訂正3版所収</ref>によると、義晴は、「今出川(義稙)ノ爲猶子。義高ノ御息。」とあり、義稙の意思で義晴が将軍襲位したとも考えられる。 ただし、[[平島公方]]側の史料『足利家系譜』<ref>阿波公方民俗資料館蔵・平島公方史料集所載</ref>には、「実は、義維は、十二代将軍義澄の長子なり」と有り、『[[足利義種#平島記|平島記]]』には、「[[足利義晴|義晴]]を将軍襲位させるために[[細川高国|高国]]が、兄弟順を偽って襲位させた」云々とある。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == <!--* [[長江正一]]、『三好長慶』 新装版、 [[吉川弘文館]]。[[1989年]]([[平成]]元年)[[5月9日]] 277p. -- (人物叢書 / 日本歴史学会編集) 、ISBN 4-642-05154-6(: 新装版)--> 『足利将軍列伝』([[秋田書店]]) {{先代次代 |[[平島公方]] |初代 | - |[[足利義助]] }} {{DEFAULTSORT:あしかか よしつな}} [[Category:平島足利氏|よしつな]] [[Category:室町・安土桃山時代の武士]] [[Category:1509年生]] [[Category:1573年没]]
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