コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
足利義持のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
足利義持
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 足利 義持 | 画像 = Ashikaga Yoshimochi.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 足利義持肖像([[神護寺]]蔵) | 時代 = [[室町時代]]前期 | 生誕 = [[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]([[1386年]][[3月12日]]) | 死没 = [[応永]]35年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1428年]][[2月3日]]) | 改名 = | 別名 = | 諡号 = | 戒名 = 勝定院殿顕山道詮大禅門 | 墓所 = [[相国寺]]勝定院 | 官位 = [[正五位|正五位下]]、[[近衛府|左近衛中将]]、[[征夷大将軍]]<br />[[従四位|従四位下]]、[[美作国|美作]]権守、[[正四位|正四位下]]、[[参議]]<br />[[従三位]]、[[中納言|権中納言]]、[[正三位]]、[[従二位]]<br />[[大納言|権大納言]]、[[正二位]]、[[従一位]]、[[右近衛大将]]<br />[[右馬寮御監]]、[[内大臣]]、[[淳和院|淳和]][[奨学院]]<br />[[源氏長者|両院別当]]、贈[[太政大臣]] | 幕府 = [[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍]](在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年)) | 氏族 = [[足利氏]]([[足利将軍家]]) | 父母 = 父:[[足利義満]]、母:[[藤原慶子]](安芸法眼の娘) | 兄弟 = '''義持'''、[[足利義教|義教]]、[[足利義嗣|義嗣]]、[[義昭|大覚寺義昭]]ほか | 妻 = 正室:'''[[日野栄子]]'''([[日野資康]]の娘) | 子 = '''[[足利義量|義量]]'''、[[三淵持清]]<ref>一説によれば、義満の[[庶子]]で義持の弟ともされる。三淵氏にはのちに[[細川家]]から[[三淵晴員]]が養子入りしている。</ref><br>[[猶子]]:''[[足利持氏]]''(一説による)}} '''足利 義持'''(あしかが よしもち)は、[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]](在任:[[応永]]元年([[1394年]]) - 応永30年([[1423年]]))。父は3代将軍・[[足利義満]]。母は安芸法眼の娘で側室の[[藤原慶子]]。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。 == 生涯 == === 出生・将軍職相続 === [[File:Yoshimochi asikaga.jpg|thumb|足利義持像([[古画類聚]])]] 元中3年/至徳3年(1386年)2月12日、第3代将軍・足利義満の子として生まれる。異母兄に[[尊満]]とその同母弟の[[宝幢若公]](早世)がいたが、義持は嫡子として扱われた<ref name="足利義持p1"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.1</ref>。 応永元年([[1394年]])12月17日、義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する<ref name="足利義持p2"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.2</ref>。同日、[[元服]]して正五位下左近衛中将に叙任した(元服奉行は[[万里小路嗣房]]、理髪役は[[日野重光]]、加冠役は義満、将軍宣下の上卿は[[日野資教]]、奉行は[[油小路隆信]])<ref name="足利義満p90"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.90</ref>。なお、義持の叙位に関して朝廷は当初、義満の先例に倣い従五位下に叙す考えであったが、義満が満足しなかったため詮議し直し、義満の権力の強大さを考慮して摂関家に準ずる位を与えた<ref group="註">『[[春の夜の夢]]』では「将軍家の権威によりて、禁裏のひようき(評議)まけて、かくの如くになむありける、今義持の叙爵摂家に准し侍り」とある。</ref>。ただし私的な足利家の家督はなおも義満の下にあり、政治の実権も全て義満に握られていた。 === 義満の存命中 === [[File:Yoshimitsu Ashikaga.jpg|thumb|父で大御所の足利義満]] 将軍就任後、義持の官職は急速に上昇し、応永2年([[1395年]])6月3日には従四位となる。応永3年([[1396年]])4月20日に正四位下に叙される(ただし義満は従三位を要望していた)。9月12日に参議、応永4年([[1397年]])1月5日に従三位(義満は正三位を要望)、3月29日に権中納言、応永5年([[1398年]])1月5日に正三位、応永7年([[1400年]])1月5日に従二位、応永8年([[1401年]])3月24日に権大納言、応永9年([[1402年]])1月6日に正二位、11月19日に従一位、応永13年([[1406年]])8月17日に右大将を兼務するなどした。この急速な昇進には公武に強い権力を保持していた父の強い意向があったためである<ref name="足利義持p3-4"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.3-4</ref>。 ただし幼年の事もあり、将軍として公式の活動を開始したのは応永7年([[1400年]])1月11日の幕府評定始からである<ref group="註">『[[御評定著座次第]]』では「同(応永)7年正月11日、今年より当将軍(義持)御着座」とある。</ref>。応永6年([[1399年]])以前にも御評定始が開かれ「御座」の記載はあるが、これは[[大御所]]となっていた義満の事であり、義持が公式の活動を始めたといっても形式的なものでしかなかった<ref name="足利義持p4-5"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.4-5</ref>。また応永9年(1402年)から将軍として有力[[守護大名]]の屋敷に渡御し、寺社にも参詣するなどしている<ref name="足利義持p6"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.6</ref>。 義持は父・義満と不仲であり、異母弟の[[足利義嗣|義嗣]]が父に偏愛されていたとされている。応永13年([[1406年]])には父から譴責を受けて慌てふためき、[[日野重光]]の屋敷に逃げ込んで取り成しを依頼したという<ref group="註">『[[教言卿記]]』応永13年3月28日条</ref>。 応永15年([[1408年]])5月、父が重病に陥ると、[[山科教冬]]を北山殿に派遣し、自らは寺院山門に祈祷を行なわせた。義満は5月6日に死去した<ref name="足利義持p12-13"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.12-13</ref><ref name="足利義満p190-191"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.190-191</ref>。父の死後、室町幕府では足利将軍家の家督相続の問題が起こった。公的な将軍職自体は義持が継いでいたが、私的な足利家の家督は義満が保持していたためである。普通なら将軍職を継いでいる義持がそのまま家督も相続すべきだが、弟の義嗣が義満の偏愛を受け、さらに[[後小松天皇]]の北山殿行幸の際に元服以前にも関わらず異例の待遇を受け、さらに[[親王]]元服と同等となる内裏での元服もしていたため、義嗣は家督相続の有力候補として台頭していたのである<ref name="足利義持p14"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.14</ref>。世間では義嗣が兄である将軍の義持を押し退けて義満の後継者になると見られていた<ref group="註">『[[椿葉記]]』では「准后の若公、(中略)其四月に内裏にて元服して義嗣と名のらる。親王御元服の准拠なるよしきこえし、御兄をもおしのけぬへく、世にはとかく申あひし程に、さためなき浮世のならひのうたてさは、いく程もなく同五月六日准后薨し給ふ、鹿苑院と申、世中は火を消たるやうにて、御跡つきも申をかるる旨もなし、此若公にてやとさたありし程に、管領勘解由小路左衛門督入道([[斯波義将]])おしはからひ申て、嫡子大樹(義持)相続せらる」とある。</ref>。しかし義満は義嗣元服の2日後に病に倒れ、数日で危篤に陥ったため、後継者を遺言する時間は無かった。このため、斯波義将の主張によって家督相続者は義持に決定した<ref name="足利義持p15-16"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.15-16</ref><ref name="足利義満p198-199"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.198-199</ref>。 === 治世初期 === [[File:斯波義将.jpg|thumb|義持擁立に貢献した[[斯波義将]]]] 応永15年(1408年)5月9日、朝廷は義満の生前の地位を考慮して太上法皇([[太上天皇]])の尊号を与えようとした<ref group="註">『[[東寺執行日記]]』『[[尊卑分脈]]』</ref>。しかし将軍の義持をはじめ、特に義満没後に政権を握った斯波義将の強い反対があり、拒否された<ref name="足利義持p17"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.17</ref>。義満死後の6月25日に[[等持院]]にて義満の49日法会を済ませた義持は、6月26日に[[花の御所]](室町第、[[京都市]][[上京区]])に住むが、翌年には祖父の2代将軍・[[足利義詮]]の住んでいた三条坊門邸(京都市[[中京区]])へ移っている。また、義満が造成した政務中枢「北山第」は、義母・[[日野康子]]の死後、[[鹿苑寺]](金閣)をのぞいて全て取り壊した。 当初の幕政は[[管領]]を務め[[宿老]]として影響力を持っていた斯波義将らに補佐され、幕政を守旧的なものに改める。これによって一度は失われた室町幕府の「武家政権」色を復活させようとしたと言われている。義満が庇護していた[[世阿弥]]を遠ざけた。ただし、これは[[猿楽|猿楽能]]よりも[[田楽]]を好んだ義持個人の単なる趣味の問題とする説もある。 義持は代替わりに伴い、8月中旬から積極的な所領政策を推進した。諸大名・諸寺などに対して積極的に所領安堵を行ない、独自の政策性をアピールしようとしている。なお、応永20年([[1413年]])までの5年間で義持が行なった所領安堵は他の将軍に比べると史料で判明している物だけでもかなり件数は多い<ref name="足利義持p31"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.31</ref>。また、義持の[[花押]]は公家様のものしか伝わっておらず、[[後小松天皇|後小松上皇]]の[[院別当]]を務め、更には[[九条家]]の[[法助]]を例外として代々皇族のみが任じられてきた[[仁和寺]][[門跡]]に弟の[[法尊]]を入れるなど、義満とは異なる形での朝廷への影響力行使が行われていた。 義持は明との外交関係でも転換を図り、父の義満が[[明]]との間に開いた冊封関係を否定した。特に義満が「日本国王」に封じられた事は公家をはじめ、斯波義将や[[満済]]らからも批判が強かった<ref name="足利義持p90"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.90</ref>。ただし当初からそうだったわけではなく、義満没後に義持はその訃報を明の[[永楽帝]]に報告しており<ref group="註">『[[明太宗実録]]』86</ref>、最初は冊封関係に入る事を了承していた。だが応永17年([[1410年]])5月7日に斯波義将が死去する。義将は義満の日本国王には批判的だったが貿易すなわち対外通交には積極的だった。その義将が死去したため、義持は態度を一変させて明の永楽帝の[[勅使]]が京都に入る事を許さず、兵庫から帰国させるに至る<ref group="註">『[[明実録]]』『[[明史]]』</ref>。そして応永18年([[1411年]])に明と国交を断絶し、冊封関係も消滅した<ref name="足利義持p92"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.92</ref>。 === 治世中期 === 斯波義将の死後、管領だった義将の孫の[[斯波義淳]]は辞任し、後任には[[畠山満家]]が就任した。この頃から義持は独自の幕政を行なうようになる。 応永17年(1410年)11月には[[南朝 (日本)|南朝]]最後の天皇だった[[後亀山天皇|後亀山上皇]]が[[吉野]]へ出奔する。これを機に雌伏していた各地の南朝系の勢力が蜂起し、応永18年(1411年)7月に[[飛騨国|飛騨]][[国司]]の[[姉小路尹綱]]が反乱を起こして同国守護の[[京極高光|佐々木高光]]に討たれた。応永22年([[1415年]])には[[河内国|河内]]で[[楠木氏]]が反乱を起こした。同年春には[[北畠満雅]]が[[称光天皇]]即位を不服とし、[[両統迭立]]の約束を守る事を要求する為に反乱を起こしたが、幕府とまもなく和解するなど、皇位継承問題は中央政界や幕政を不安定にさせる要因の1つになっていた。後亀山天皇は幕府の説得もあり、応永23年([[1416年]])秋に帰京している<ref name="足利義持p87-88"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.87-88</ref>。 また、応永21年([[1414年]])6月8日に幕府内でも義持を長く支えた宿老・斯波義将の甥・[[斯波満種]]が義持の不興を買い、加賀守護職を召し上げられて[[高野山]]に隠退した事件も起こっている。加賀守護職は義持の側近・[[富樫満成]]に与えられた。同年の11月29日には細川宮内少輔が[[東大寺]]の所領を横領したとして義持の命令で自害させられている<ref name="足利義持p121"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.121</ref>。 === 上杉禅秀の乱と義嗣の殺害 === [[File:Asikaga yoshitsugu.jpg|thumb|異母弟の足利義嗣]] {{Main|上杉禅秀の乱}} 応永23年([[1416年]])10月、関東で[[上杉禅秀の乱]]が起こる。京都の幕府には10月13日夕刻にその注進がもたらされたが<ref group="註">『[[看聞日記]]』10月13日条では「今月二日前管領上杉金吾([[上杉氏憲]]・禅秀)謀反を発す。故満氏([[足利氏満]])末子([[足利満隆]])大将軍となり、数千騎鎌倉へ俄かに寄せ来たる。左兵衛督持氏用意無きの上、諸大名敵方へ与力の間、馳せ参ぜず。管領([[上杉憲基]])御方としてわずか七百余騎、無勢の間、合戦に及ばず引き退き、駿河国堺へ落ちられおわんぬ。同四日左兵衛督持氏館以下鎌倉中焼き払われおわんぬ」とある。</ref>、その時、義持は因幡堂に参篭中であった。そのため、因幡堂で諸大名を招集しての軍議が開かれ、幕府管轄地の[[駿河国|駿河]]へ持氏を退かせる事などが決められた<ref name="足利義持p112"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.112</ref>。 10月15日、7日に[[伊豆国|伊豆]]三島で上杉軍と持氏軍が合戦して、8日に持氏軍が敗れて持氏や憲基ら25人が切腹したという情報が幕府に伝わり<ref group="註">『看聞日記』『満済准后日記』</ref>、この日も北野経所(公文所坊)に参篭していた義持はその報告を管領の[[細川満元]]から受けて激怒したという。ただし20日にはこの情報が虚説とわかり、憲基だけが切腹したとされるなど、京都では関東の情報をつかみかねていたらしい<ref name="足利義持p113"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.113</ref>。 10月28日になって持氏の駿河落ちと幕府軍救援を求める報告が入り、10月29日に義持は諸大名を招集して評定を開いた。この中で義持の叔父である[[足利満詮]]が義持救援を声高に主張し<ref group="註">『看聞日記』同年10月29日条によると「武衛(持氏)は御烏帽子々たり、いかでか見放し申されべけんや、且つまた敵方鎌倉すでに一統の上は、京都へ謀叛を企てること測りがたきものか、そのためにも扶持申せらるべきの条しかるべきかの由」と意見を述べたという。</ref>、義持や諸大名もこの意見に同意して、義持は駿河守護の[[今川範政]]と[[越後国|越後]]守護の[[上杉房方]]に持氏支援を命じた<ref name="足利義持p115-116"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.115-116</ref>。 ただ、禅秀の乱はあくまで東国に限定された合戦のため、幕府や義持の対応は後手に回っていた。ところが10月30日、足利義嗣が京都から出奔し、[[山城国|山城]]高雄に遁世するという事件が起こった<ref group="註">『看聞日記』では「押小路大納言義嗣卿、今暁逐電せらる。室町殿仰天。京中騒動す。追っ手を懸け尋らるるの間、高尾に隠居遁世と云々」とある。</ref>。この突然の事件に、義持ら幕府首脳は大混乱の騒ぎになった。義持は11月2日に義嗣に対して細川満元と[[富樫満成]]を使者として派遣し、帰宅を促した<ref group="註">『看聞日記』</ref>。しかし義嗣は出家を望み、応じなかった(また出家したくても義持を恐れて剃り手がいなかったとも)。11月5日、義持は義嗣を[[仁和寺]]興徳庵に移し、身柄奪還の懸念から[[侍所]]別当の[[一色義貫]](当時は義範)に警固させた。また義嗣の側近である[[山科教高]]と[[山科嗣教]]は富樫満成と[[富樫満春]]に預けられた。義嗣は11月9日に[[相国寺]]塔頭林光院に移され、教高ら側近4名は[[加賀国|加賀]]へ流罪とされた<ref name="足利義持p117"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.117</ref>。義嗣の一連の行動に関しては「義持に自分の所領が少ないので加増を求めたが取り合ってもらえなかったためにこの事を恨んで野心を企てた」のが動機で、「当時[[鎌倉公方]]の持氏と対立していた上杉禅秀と連携して反逆するつもりだった」という<ref group="註">『看聞日記』</ref>。さらに義嗣に同調して[[斯波義教]]、細川満元、[[赤松義則]]らが挙兵する手はずであったと義嗣の側近が白状したため、幕府も禅秀の乱に大きく関与するようになった<ref name="足利義持p119"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.119</ref>。 禅秀の乱は応永24年([[1417年]])に幕府の支援を得た持氏により鎮圧された。しかし鎮圧後の翌年にはこの余波から[[土岐持頼]]に義嗣に与力したとして所領数か所が召し上げられ、重臣の[[畠山満慶]]にもその嫌疑がかかり、他にも[[山名氏]]が出仕停止に追い込まれたりするなどした<ref group="註">『看聞日記』応永25年6月6日条</ref>。そして首謀者と目された義嗣は応永25年([[1418年]])1月24日に義持の密命を受けた富樫満成に殺害された<ref group="註">『看聞日記』応永25年1月25日条では「夜前丑刻輪(林)光院炎上す。押小路亜相入道叛逆己後押し篭めらるる在所の間騒動す。諸大名室町殿に馳せ参ず。亜相自焼せしめ没落せらるるの間、討ち奉るの由披露有り。すなわち頸を取り富樫宿所へ持参、やがて等持寺へ渡らると云々。蜜儀は室町殿富樫に仰せ付けられ、加賀守護代山川山川舎弟頸を討ち取り奉ると云々。遁世者一人同じく討たれおわんぬ。その後寺家に放火し焼き払うと云々」とある。</ref>。この義嗣殺害からそれに関与したとされる諸大名の処罰は、義持と側近の富樫満成により主導されて行なわれ、管領はほとんど関与していなかった。一説には義持が有力守護の発言力を削いで義持の主導する幕政の確立を目指したものともいわれているが、このため富樫満成の権勢が高まり、また諸大名の反発も買うようになった<ref name="足利義持p126"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.126</ref>。しかし最終的には細川らの巻き返しを受け、応永26年([[1419年]])11月24日に義嗣の愛妾・[[林歌局]]と密通していた事などを告発されて失脚した<ref group="註">『看聞日記』では「富樫兵部大輔(満成)今暁没落と云々、室町殿北野参篭中御突鼻と云々、近日の権勢傍若無人の処、にわかの儀今更不定驚かれおわんぬ」とある。</ref>。満成は[[高野山]]に逃れたものの、後に殺害された<ref name="足利義持p127"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.127</ref>。 === 鎌倉府との対立 === 上杉禅秀の乱では協力した義持と持氏であったが、乱の終結後から対立に転じた。原因は持氏の戦後処理にあった。持氏は反乱軍に与した諸大名を許さずに徹底的に討伐した。禅秀の娘婿の[[岩松満純]]や[[武田信満]]らは持氏の追討を受けて処刑、自害に追い込まれた。他にも持氏は関東各地に軍を派遣して討伐したため、関東各国の諸大名は勿論、義持との間にも大きな溝が生まれた<ref name="足利義持p134"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.134</ref>。信満の自害により[[甲斐国|甲斐]]守護職が空白になったため、持氏は新守護に[[逸見有直]]を任命したが、義持は認めずに信満の弟である[[武田信元]]を任命した<ref group="註">『[[鎌倉大草紙]]』</ref>。しかし信元の甲斐入国は[[逸見氏]]の抵抗で順調に進まず、信元が死去するという事態もあって甥の[[武田信重]]が守護に任命されるもこれも入国できず、在京のままという事態となる。[[常陸国|常陸]]でも[[佐竹義憲]](持氏方)と[[山入与義]](幕府方)の守護職問題が起こり、義持は与義を守護に任命したが持氏はこの命令を無視し、さらに[[上杉憲直]]に命じて[[山入氏]]一族を殺害するに及んだ。これら持氏の戦後処理に不満を抱いた北関東の国人、特に[[小栗満重]]は反鎌倉府の動きを見せだした。そしてこれら反鎌倉府勢力の背後には義持の支援があった<ref name="足利義持p135-137"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.135-137</ref>。 義持は持氏の強硬かつ苛烈な戦後処理に激怒し、応永30年([[1423年]])6月には幕府軍を[[武蔵国|武蔵]]に派兵する計画もあったという<ref group="註">『満済准后日記』</ref>。持氏の戦後処理でまずかったのは[[京都扶持衆]]、すなわち関東は鎌倉府の管轄下ではあるが親幕府の山入氏や[[大掾氏]]、[[真壁氏]]などを討伐あるいは討伐しようとしたためである。義持は持氏に激怒・不信を抱き、細川満元や今川範政、一色義貫(義範)、[[赤松満祐]]、[[斯波義淳]]らを招集して対策に乗り出している<ref name="足利義持p138"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.138</ref>。 対立は応永30年(1423年)7月に頂点に達し、今川範政や[[小笠原政康]]([[信濃国|信濃]]守護)、武蔵の国人、さらに[[篠川公方]]の[[足利満直]]や[[奥州探題]]の[[大崎氏]]に義持は持氏討伐のための命令を出した<ref name="足利義持p141"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.141</ref>。この義持の強固な対応に持氏は追い詰められ、応永31年([[1424年]])2月に持氏は義持に起請文を送って謝罪並びに和睦を申し出た<ref group="註">『看聞日記』『満済准后日記』『[[花営三代記]]』</ref>。しかし和睦の条件をめぐって両府は争い、特に常陸や甲斐守護職問題は火種となったが、最終的に両府は和睦した。 === 隠居と出家 === 応永30年([[1423年]])3月18日、義持は嫡子の義量に将軍職を譲った<ref name="足利義持p154"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.154</ref>。将軍職譲渡後の4月25日に[[等持院]]で義持は出家した。義持の剃手は等持院院主で、この出家は秘密とされており、側近の満済すら知らなかったという<ref group="註">『満済准后日記』</ref>。秘密にした理由は後小松天皇ら朝廷が反対するのを恐れたためだったとされ、出家直後は畠山満家、細川満元、赤松義則、[[大内盛見]]ら一部の側近しか面会を許されなかった。法号は'''道詮'''(どうせん)と号した。義持出家の理由は、俗世を離れて自由の身となり、かつての父・義満のように奔放な政治活動をするため、また深く信仰している禅の奥義を極めるためだった>。隠居・出家後、義持は正室や義量らを伴いながら頻繁に寺社への参詣を繰り返した。また守護大名や側近、公家らの屋敷にも渡御した<ref name="足利義持p156-157"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.156-157</ref>。なお、出家したとはいえ、幕政の実権は義持や有力守護が握っていた。 応永32年([[1425年]])2月27日、義量は19歳で急死する。義量には子が無く、義持にも他に男子が無かったため、室町幕府は将軍不在となり、前将軍である義持がそのまま幕政を統括する事になった<ref name="足利義持p158"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.158</ref>。 === 晩年 === 義量没後の義持は実質的に将軍と見られており、実際に公方様・室町殿・御所様と呼称されていた<ref name="足利義持p162"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.162</ref>。また幕府だけでなく朝廷においても[[称光天皇]]の継承問題もあり、義持は自らだけでなく朝廷の問題にも対応を迫られていた<ref name="足利義持p167"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.167</ref>。また幕府でも[[細川氏]]、[[畠山氏]]、[[上杉氏]]などの政争があるなど、表向きは平穏であるが様々な問題が芽生えだしていた<ref name="足利義持p185"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.185</ref>。 守護大名の政争に関しては応永34年([[1427年]])に表面化した。この年の9月21日に幕府宿老で[[播磨国|播磨]]守護であった[[赤松義則]]が70歳で死去し、嫡子の[[赤松満祐]]が跡を継いだ。この時、赤松家の所領は播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]の3か国であり、満祐は当然3か国の安堵を望んだが、10月26日に義持が出した命令は「播磨は料国(幕府直轄領)とし、一族の[[赤松持貞]]を代官に任命して預け置く」とした。満祐は命令を拒否し、酒宴を開いた後に家内にあった財宝を家臣らに分け与え、自分の邸宅には火をかけて播磨に下向した。義持は満祐の行為に激怒し、備前と美作も没収して[[七条満弘|赤松満弘]]([[赤松光範]]の子)と[[赤松貞村]]に与える内示を与え、さらに山名氏や[[一色氏]]に対して赤松討伐を命じるまでになった。しかし管領の畠山満家は討伐に反対して仲介に乗り出し、討伐軍においても山名氏は命令通り11月4日に出陣したが、一色氏は理由を付けて出陣を拒否した<ref group="註">『満済准后日記』11月4日条</ref>。細川氏も出陣には否定的で<ref group="註">『満済准后日記』11月6日条</ref>、積極的だったのは命令を出した義持とかつての旧領奪回を願う山名氏だけで、将軍と守護大名の間に明らかな齟齬が生まれていた<ref name="足利義持p186-189"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.186-189</ref>。 このように赤松討伐が実行されない内に、11月11日になって赤松持貞が[[高橋殿]](義満の愛妾)と密通していたという直訴が行なわれた。持貞は弁明し、満済に取り成しを依頼した。満済は助命する代わりに追放するべきと主張したが、義持は受け入れずに切腹を命じた。それでも満済は畠山満家の協力を得て持貞を[[高野山]]に追放しようと画策するなど、義持の意向を無視した行動をとったが、義持の命令が強行だったためにその工作は間に合わず、持貞は切腹した。そして12月に赤松満祐は罪を許されて3か国相続を認められた<ref name="足利義持p189-192"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.189-192</ref>。 === 最期 === [[File:Yoshinori asikaga.jpg|thumb|同母弟で第6代将軍の足利義教]] 応永35年(1428年)1月1日、義持は三条八幡に例年通りに参詣する。1月2日と1月4日には[[管領]]・[[畠山満家]]屋敷に渡御した。1月6日には鹿苑院に詣でて正月を祝った。1月7日、義持は浴室で尻に出来た出来物をかき破った事により発熱を起こした。このため1月8日には僧侶6名が室町殿に参賀して加持祈祷を行なったが、1月8日の夜からは風気(風邪)で雑熱を出して尻の傷も盛り上がるなどした。1月9日には医師の三位房允能の診療を受けたが、この時医師は特段の反応をしなかった。1月10日には僧侶等が室町殿に参賀する予定であったが、義持は雑熱で座る事ができなかったため、延引した。同日、尻の傷は馬蹄形に盛り上がるなどかなりひどい状態になってきたという<ref group="註">『[[建内記]]』</ref>。1月11日は幕府にとって重要な評定始の日であったが、この儀式に義持は近臣に手を引かれて出御するなどかなり無理をした。退出するときにも近臣に手を引かれていたという。一説に評定始には出席はしたが、「片時」(ほんの少しの時間)だけだった<ref group="註">『[[師郷記]]』</ref>。1月12日は毎年恒例として義持は[[斯波義淳]]の武衛屋敷に渡御する予定であったが延引した。1月13日、満済が義持に謁見するが、義持の尻の傷はますます重く腫れ上がって座る事もできず横になって寝たままだった。満済は義持の病状がかなり重い事を悟り、各寺の高僧に義持平癒の祈祷を依頼し、自らも加持を行なった。1月15日、義持の尻の傷は腐り出していたとされており<ref group="註">『建内記』</ref>、病状から傷が壊疽していた可能性も指摘されている。1月16日には重態となり、死期を悟った義持は満済を呼び出したが、この時の義持の状態は満済が見て「以ての外御窮屈、すこぶる肝を消す計りなり」と衰弱して極めて重篤になっていた。義持は満済に対して「思い定めるに、43歳で死去しても思い残すことはない。しかし、お祈りはよろしいように御祈り方に申し付けてほしい」と述べ、さらに禅宗による来世の世界を考えて「御工夫計りにて御座あるべし」と述べたとされている<ref name="足利義持p232-234"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.232-234</ref>。 1月17日、義持は極めて危険な状態となる。このため管領の[[畠山満家]]をはじめ、斯波義淳、[[細川持元]]、[[畠山満慶]]ら幕府重臣は慌てふためき、満済の下に集合して後継者選定に関して話し合った。そして満済が義持に後継者の意向を聞いたが、「御相続の御仁体のこと、申し入るる処に、上(義持)としては定めらるべからざるなり」と後継者決定を拒否した。しかし畠山らは天下の重大事であるから再度義持の意思を確認せよと求め、満済が再度義持の下を訪ねると義持は近臣と末期の酒を酌み交わしており、満済は近臣を退出させて再度尋ねたが、「たとえ御実子御座あるといえども、仰せ定めらるべからざる御心中なり、いわんやその儀無し、ただともかくも面々計らいしかるべき様定め置くべし」と述べた。つまり後継者を義持は決定せず、幕府重臣に任せるというのである<ref name="足利義持p235-236"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.235-236</ref>。 義持の意向に対して評議の結果、満済は義持の弟4人から1人を[[籤引き]]で定めることが決まり、義持もこれを了承した。義持が後継者を指名しなかった理由としては、「義量死亡の後に一度[[石清水八幡宮]]で籤を引き、その際に男児誕生の結果が出た。さらにその日には男児誕生の夢を見た。それなのにもう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」<ref group="註">『[[満済准后日記]]』</ref>と義持が語り、このため養子も[[猶子]]も定めなかったとしている。一方[[万里小路時房]]の「[[建内記]]」では、「たとい仰せ置かるといへども面々用い申さずば正体あるべからず(たとえ言い残しても幕閣が承認しなければどうしようもない)」と義持が語ったとされる<ref>[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』([[講談社学術文庫]])2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120</ref>。また義持は弟らが将軍職に耐えうる器ではない事なども考えていたとされている<ref group="註">『建内記』</ref>。義持は籤引きの条件として自分の存命中に籤での決定をするな、自分の死後に籤を引くよう言ったが、幕府重臣や諸大名らは「御没後には神前において左右無くこの御籤取りがたかるべし」(義持の没後に神前において籤を取りがたい、つまり籤を取るまでの後継者不在は混乱を起こす可能性があるから)と懇願し、1月17日の内に幕府重臣は籤を作って内々に神前で引き、義持死後に開封することを決めた<ref name="足利義持p237-238"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.237-238</ref>。 1月17日の午後6時、義持は危篤状態となる。義持は人事不省となり、幕府は大混乱となった。そして1月18日午後10時頃、死去した。享年43。死因は[[敗血症]]と推測されている<ref name="足利義持p240"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.240</ref>。 義持の死後、1月19日に籤によって将軍職は同母弟の[[足利義教]]が継ぐことになった。同日に義持の遺体は等持院に移され、1月22日に贈太政大臣の宣下が出され、1月23日に等持院において荼毘にふされ、遺骨が納められた。法号は勝定院顕山道詮で、位牌は相国寺勝定院に安置された<ref name="足利義持p242"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.242</ref>。 == 人物 == === 人物像 === 義持は父に室町時代の全盛期を築き上げた義満、次代に[[嘉吉の乱]]や守護大名粛清等で知られる義教がいるため、極めて馴染みの薄い将軍として見られている。唯一有名な事績として知られているのは義教後継の際に後継者を指名せずに籤引きをお膳立てした事と言える<ref name="足利義持序章p5-6"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、序章p.5-6</ref>。 === 性格 === 義持は調整役的な政治姿勢から温厚な人物と思われがちだが、当時の史料から義持は弟の義教に劣らず「短気なところがある性格」の持ち主で[[癇癪]]持ちだったといわれる<ref name="足利義持p67"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.67</ref>。また信心深く、多くの寺社に参詣・参籠している<ref name="足利義持p195"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.195</ref>(満済日記だけでも確認できるだけでかなりの回数に上り、最も参籠の多かったのは北野社であった<ref name="足利義持p196"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.196</ref>)。ただ、回数が余りに多すぎるため、義持の信心だけが要因ではなく、政治的ストレスの解消を目的としていたのではないかともされている<ref name="足利義持p201"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.201</ref>。 === 文化人として === 義持は禅文化に心酔し、当時の第一級の知識人であった。そのため武将をはじめ、京都五山の禅僧が参集して文化サロンが形成され、水墨画が発展した<ref name="足利義持p210"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.210</ref>。義持の治世下は、[[水墨画#室町水墨画|詩画軸]]に全盛期であり、現在[[国宝]]に指定されている[[如拙]]筆の「[[瓢鮎図]]」も義持の発案・指導によって描かれた。それだけに飽きたらず、自分自身も画技にも親しみ、素人離れした作品が真贋に問題があるものも含めて15点ほど残る<ref>[[島尾新]] 『絵は語る5 瓢鮎図 ─ひょうたんなまずの[[イコノロジー]]』 [[平凡社]]、1995年 31頁注より ISBN 4-582-29515-0</ref>。 芸能においては、特に[[田楽]]を好み[[増阿弥]]を贔屓した<ref name="足利義持p212"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.212</ref>。義持は、父への反発感から義満が好んだ[[猿楽|猿楽能]]には冷淡だったと言われるが、猿楽能についても義満以上の鑑賞眼があったと伝えられ<ref name="足利義持p216"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.216</ref>、猿楽を見物した記録もいくつか残っている。 義持は和歌や連歌にもかなりの教養を持っており、朝廷で開かれた連歌会や和歌会にはしばしば参列している<ref name="足利義持p217"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.217</ref>。 === 義満との関係 === 義持は父・義満と不仲だったと言われる。しかし義満は義持が9歳の時に将軍職を譲渡しており、その後も16歳までに権大納言に栄進するなど義満による引き立てにはかなりのものがあり(義満が義持に与えた官位や位階に不足があると朝廷に苦情を述べたことさえある)、最初から仲が悪かったわけではなく、むしろ良き親子関係だった<ref name="足利義持p3-4"/>。2人の仲が悪くなったのは生母の藤原慶子の死去による対応にあったと思われ、義持は母の忌中として等持寺に籠居したが、義満は大酒を飲んで悲しみの態度を見せず、さらに酒宴を開いたりするなど、いわゆる正反対の対応を見せた事が多感な時期にあった義持に大いに影響したといわれる<ref name="足利義持p9-10"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.9-10</ref>。 義満は義持を昇進させる事で足利将軍家が[[摂関家]]と同列あるいはそれ以上と見なす狙いがあったとされる。しかし義持の昇進がある程度まで進み、また成長してきた事もあって義満にとっては自らの権力・権威を高めるためには義持の利用価値が低下した。そのため新たな駒を立てる必要があり、それが義嗣であった。義満は義嗣を皇位簒奪のために登用を図った、あるいは摂関家からさらに上皇的な権威に高めるために義嗣を利用したとも考えられ、義嗣の異例すぎる厚遇が偏愛と見なされる事になったと推測される<ref name="足利義持p7-8"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.7-8</ref>。 == 政策 == === 外交 === 義持は義満が始めた[[日明貿易]]、そして明との冊封関係には否定的だった。治世当初は貿易に積極的だった斯波義将がいたためにしばらく冊封関係は続けたが、義将が死去した翌年には明の使者を追い返して事実上冊封関係を断絶した。この時、明の永楽帝は激怒して日本征伐を計画するほどだったという。永楽帝は応永24年([[1417年]])秋に冊封関係の復活と日本の使者の来貢を求めたが、義持は使者に会おうとすらしなかった。応永26年([[1419年]])になると永楽帝は再度使者を来日させて義持の態度を強く責め立て恫喝し、ここに至り日明関係は完全に断絶となった義持が日明関係を断絶した理由は、交易に関してのみなら義持も望むところであるが、外国の君に対して「家臣」を称し、日本国王の称号を与えられる事は神々に背くような事であると考えていたからとされている。また応永26年(1419年)と言えば[[応永の外寇]]があった年で、義持はこれを永楽帝の意を受けた[[李氏朝鮮]]軍の侵略と見なしていたため、明との断絶に踏み切ったといわれる<ref name="足利義持p92-93"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.92-94</ref>。 ただし義持はあくまで義満の対明依存・臣従を拒否したのであり(実際、義持は応永26年の国書から「日本国源義持」と署名しており、国王とは署名していない<ref name="足利義持p102"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.102</ref>)、あるいは義満への反発という個人的事情からであり、交易に伴う実利までは否定していなかった<ref name="足利義持p107-108"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.107-108</ref>。 === 政治手法 === 義持は義満と違って調整役としての政治を心掛けた。例えば前述しているが、応永20年([[1413年]])までの5年間で義持が行なった所領安堵は他の将軍に比べると史料で判明している物だけでもかなり件数は多い<ref name="足利義持p31"/>。それだけでなく、義持の時代には大名・側近に対する渡御(御成)もかなりの回数に上っている。御成とはが臣下の家に出向いて接待を受ける事であり、満済の日記による記録だけでも義持の御成の回数はかなりの数に上り、中には寺社の参詣と御成で区別がつかないものまで存在するほどである。ここに強固な専制権力を確立した義満との違いがある。義満の時代も御成はあったが、それは正月2日における管領屋敷だけであった。義満は義持と違い、臣下を自分の所に呼び出して命令する事でその権威を示していたのであるが、義持はその反対、つまり家臣の屋敷に出かける行動をとった<ref name="足利義持p45-46"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.45-47</ref>。義持の時代、義満時代に対する日本国王称号の批判や南朝残党の問題、上杉禅秀の乱や鎌倉府問題などがあり、政治的緊張が続いた時期もある。義持はそのような緊張を緩和するため、また義満のような強固な主従関係ではなく、主従の信頼関係を築くために御成を繰り返していたと見られている。また、義持は義嗣と将軍家の家督をめぐって争い、斯波義将ら守護大名に擁されて家督を継いだという負い目があり、御成を繰り返す事で緩やかな主従関係と将軍権威を保つ事ができなかったという点もある。こうして義持は調整型の政治家として頂点に立ち、御成を繰り返す事で義満時代の将軍専制から有力守護連合制へと転換しつつある幕府を保とうとしていたのである<ref name="足利義持p48-51"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.48-51</ref>。 ただし義持は調整型としての手法が目立つが、富樫満成や赤松持貞の両事件のように側近を新たな将軍権力層として取り立てる事で守護大名に対抗しようとするなど、専制的部分が全くなかったわけではない。 === 朝廷対策 === 義持は朝廷とは極めて良好な関係を保った。諸大名へ御成をしたように、義持の参内・院参も確認できるだけでかなりの回数に上っている<ref name="足利義持p74-75"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.74-75</ref>。義持は後小松上皇と連携して緊密な政治関係を築いており<ref name="足利義持p73"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.73</ref>、個人的にも上皇とは親しかった。また将軍家で義量夭折後に後継問題があったように、朝廷でも後継者問題があり、また称光天皇の性格などの問題もあって義持は上皇から相談を受けるほどだった。 === 地方対策 === 東国(関東・奥州)方面に関しては前述しているように鎌倉公方の足利持氏との軋轢、関東管領・上杉禅秀の反乱などから義持は積極的な対策に乗り出している>。対して西国、すなわち九州方面に対する関心は低かった。これは当時、九州に幕政を揺るがすほどの大事件が存在せず、また当時西国で大きな実力を保持していた[[大内盛見]]が義持政権の首脳部の1人として在京していたためであり、満済の日記でも九州に関する記述は余り見られていない<ref name="足利義持p152-153"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.152-153</ref>。 === 寺社対策 === 義持は信心深い人物であった。そのため多くの武器を所持したり傍若無人な乱暴を繰り返す僧侶を徹底的に取り締まった。相国寺に対しては自ら乗り出して兵具を没収し、さらに武器所持の僧侶数十人を逮捕して侍所に預けた。他にも行状不良の僧侶を召し捕えるなどしている。[[南禅寺]]でも武器所持の嫌疑で僧侶が逮捕されており、義持は僧侶の武装を厳禁した。また神人と争いが起こり、洛中で幕府軍と戦い多数の死傷者を出す事件も起こっている<ref name="足利義持p128-130"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.128-130</ref>。 また義持は武装だけでなく、飲酒に対しても厳しい禁止令を出している<ref group="註">『看聞日記』『満済准后日記』</ref>。 === 後継者問題 === 義持は義量が死ぬと、自らが死ぬまで後継者指名を拒否して新しい将軍を立てなかったが、これは少なくとも義持が壮健の間は大した問題にはならなかった。まず、義量はあくまで名目上の将軍で実質的な将軍は義持であり、その義持が健在だったこと、義量にも義持にも男子がいないという現実的問題があったためであるとされる<ref name="足利義持p162"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.162</ref>。ただしそれ以外では、義持が新たな男子出生を願っていたためともいわれる。義持は義量を失った時点でまだ40才であり、正室の日野栄子も36歳の若さだったため、まだ実子の可能性はあったが、結局生まれなかった。 == 系譜 == * 父:[[足利義満]](3代将軍) * 母:[[藤原慶子]](側室) * 兄弟姉妹 ** [[足利義教]](6代将軍) ** [[足利義嗣]] ** [[尊満]] ** [[大覚寺義昭]] ** [[仁和寺法尊]]ほか * 正室:[[日野栄子]]([[日野資康]]の娘) ** [[足利義量]](5代将軍) ** 男子(夭折?) ** 男子(夭折?) ** [[大聖寺慈敬]](女子) ** [[喝食御所]](女子)<ref group="註">『[[花営三代記]]』応永29年8月24日条によると「御所様公文所より、北野社一七ヶ月御参籠あり、御台様、面御喝食姫公御参内」とある。</ref> * 側室:[[徳大寺俊子]](南向殿) ** 女子 * 側室:[[小兵衛督局]] ** [[慈受院寿山瑞永]](女子) * 生母不明 ** 大慈院入室の女子 ** 惣持院入室の女子 === 義持の家族に関して === 義持は正室の栄子との夫婦仲は良好で、奈良や伊勢参詣で同伴し<ref group="註">『[[康富記]]』応永24年8月24日条によると「室町殿奈良御参詣と云々、御台同御参と云々」とある。</ref>、また義持同様に田楽を好むなど趣味も一致していた<ref name="足利義持p218-219"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.218-219</ref>。2人の間には嫡子の義量が生まれたほか、女子が存在していたと推測されている<ref name="足利義持p220"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.220</ref>。 義持は義満のように女性関係は派手ではなかった。寵愛した側室に徳大寺俊子がおり、俊子との間には女子があったが夭折したとされる。また、他に男子が2人いたとされているが、幼い頃以外の動向が明らかでないため夭折した可能性が高い<ref name="足利義持p222"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.222</ref>。他の女子を加えて、義持は合わせて3男6女はいたと推測される。ただ義持死去時に存命していたのは女子2人だけだったため、義持没後に後継者は義持の弟から選ばざるを得なかった。 == 略歴 == {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small" |- !和暦 !西暦<ref>[[ユリウス暦]](但し最下段のみ[[グレゴリオ暦]])。</ref> !日付<ref>[[宣明暦]]長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。</ref> !内容 !出典 !年齢<ref>[[数え年]]。</ref> |- |[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年 |1386年 |2月12日 |誕生。 | |1歳 |- |[[応永]]元年 |1394年 |12月 |第4代将軍となる。 | |9歳 |- |応永15年 |1408年 |5月 |義満死去。足利将軍家の家督を相続し、実質的な将軍となる。義満の尊号などを拒否。 | |23歳 |- |応永22年 |1415年 |4月 |義持、[[北畠氏]]を討つ。 | |30歳 |- |応永23年 |1416年 |10月 |[[上杉禅秀の乱]]が起こり、義持は駿河に逃れてきた足利持氏を支援する。 | |31歳 |- |応永24年 |1417年 |1月 |幕府の支援により、上杉禅秀の乱は鎮圧される。 | |32歳 |- |応永25年 |1418年 |1月 |弟の足利義嗣を殺害。その後、連座として守護の多くが処罰される。 | |33歳 |- |応永30年 |1423年 |3月18日 |義持、嫡子の義量に将軍職を譲る。翌月に出家。 | |38歳 |- |応永32年 |1425年 |1月 |足利義量が死去。以後、将軍位は空位となり、義持が実質的な将軍代行として幕政を統括する。 | |40歳 |- |応永34年 |1427年 |11月 |赤松持貞事件が起こり、持貞が切腹する。 | |42歳 |- |応永35年 |1428年 |1月18日 |足利義持、死去する。 | |43歳 |} == 経歴 == [[File:Yoshimochi asikaga2.JPG|thumb|足利義持木像([[等持院]])]] ※日付=旧暦 * [[1394年]](応永元年)12月17日、正五位下に叙し、[[左近衛中将]]に任官。併せて征夷大将軍宣下。 * [[1395年]](応永2年)6月3日、従四位下に昇叙。左近衛中将兼任如元。 * [[1396年]](応永3年)1月28日、[[美作国|美作]]権守兼任。4月20日、正四位下に昇叙。9月12日、[[参議]]に補任。左近衛中将美作権守両官兼任如元。 * [[1397年]](応永4年)1月5日、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。3月29日、[[権中納言]]に転任。 * [[1398年]](応永5年)1月5日、正三位に昇叙。権中納言如元。 * [[1400年]](応永7年)1月5日、従二位に昇叙。権中納言如元。 * [[1401年]](応永8年)3月24日、[[権大納言]]に転任。 * [[1402年]](応永9年)1月6日、正二位に昇叙。権大納言如元。11月19日、従一位に昇叙。権大納言如元。 * [[1406年]](応永13年)8月17日、[[右近衛大将]]兼任 * [[1407年]](応永14年)1月5日、[[右馬寮御監]]兼務 * [[1409年]](応永16年)3月23日、[[内大臣]]に転任。右近衛大将兼任如元。 * [[1412年]](応永19年)5月、右近衛大将辞任 * [[1413年]](応永20年)10月22日、[[淳和院|淳和]][[奨学院]][[源氏長者|両院別当]]兼務 * [[1419年]](応永26年)8月29日、内大臣辞任 * [[1422年]](応永29年)3月18日、征夷大将軍辞職。4月25日、出家。 * [[1428年]](応永35年)1月18日、薨去。1月23日、贈[[太政大臣]]。 肖像画:[[京都市]][[右京区]]の[[神護寺]]所蔵(伝[[土佐行秀]]筆)。[[天龍寺]][[塔頭]]慈済院にも、容貌の特徴が類似した作品が残る(共に[[重要文化財]])。 == 水墨画作品 == * 布袋図 ([[福岡市美術館]]) [[重要文化財]] * [[白衣観音]]図 (京都・[[相国寺]]長得院) * [[寒山]]図 ([[岡山県立美術館]]) 紙本墨画 [[重要美術品]] * 杜子美図 ([[シアトル美術館]]) 紙本墨画 == 義持の偏諱を受けた人物 == ===== 公家 ===== * [[正親町持季|正親町'''持'''季]]([[正親町家]]第7代当主) * [[花山院持忠|花山院'''持'''忠]] * [[慈光寺持経|慈光寺'''持'''経]]([[慈光寺家]]、初め慈光寺'''持'''仲) * [[二条持基|二条'''持'''基]]([[二条家]]) * [[二条持通|二条'''持'''通]](持基の子) * [[今小路持冬|今小路'''持'''冬]](二条家支流・今小路家当主、[[三宝院満済]]の甥にあたる) * 僧・[[持厳|'''持'''厳]](三宝院満済の実弟で二条持通の猶子) * [[日野持光|日野'''持'''光]]([[日野家]]、義兄弟(義持の正室・栄子の兄または弟)) * [[山科持俊|山科'''持'''俊]]([[山科家]]、[[権中納言]]、[[山科教言]]の孫、父は[[山科教冬]]) * [[冷泉持為|冷泉'''持'''為]](初め冷泉'''持'''和、[[冷泉為尹]]の次男で[[下冷泉家]]祖) ===== 武家 ===== (* > より右は、直接義持から偏諱を受けたわけではなく、間接的に「持」の字を使用した人物を示す。(足利持氏より1字を受けた人物と義持の偏諱を受けた者の子孫が該当する。)) <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[三淵持清|三淵'''持'''清]](庶子または実弟) * [[持辨|浄土寺'''持'''弁('''持'''辨)]](- じべん、僧、従兄弟([[足利満詮]]の子)) * [[持円|地蔵院'''持'''円]](- じえん、僧、従兄弟(同上)) * [[足利持氏|足利'''持'''氏]]([[鎌倉公方]]、一説に義持の[[猶子]]になったとも)> および[[足利持氏#偏諱を与えた人物|持氏から偏諱を受けた人物]] * [[足利持仲|足利'''持'''仲]](持氏の弟) * [[赤松持則|赤松'''持'''則]](赤松則祐の子、のち[[別所氏]]を継承し別所持則) * [[別所持祐|赤松'''持'''祐]](持則の子、別所持祐とも) * [[赤松持彦|赤松'''持'''彦]]<!--<ref group="出典">『国別 守護・戦国大名事典』(西ヶ谷恭弘編、東京堂出版、1998)P299 赤松氏系図 より。</ref>-->(持則の末弟・祐秀の子) * [[赤松持貞|赤松'''持'''貞]](近習) * [[有馬持家|有馬'''持'''家]](赤松持則の実弟・[[有馬義祐]]の子) * [[一色持範|一色'''持'''範]] * [[一色義貫|一色'''義'''範('''義'''貫)]](持範の弟) * [[一色持信|一色'''持'''信]](持範・義範の弟) * [[一色氏#<宮内一色家>|一色'''持'''直]] * [[今川持貞|今川'''持'''貞]]<!--<ref group="註" name="imagawa">[http://imagawayakata.fc2web.com/page002.html 今川一門(系図)]より。</ref>-->([[今川仲秋]]の長男・[[今川貞秋|貞秋]]の子) * [[今川持弘|今川'''持'''弘]]<!--<ref group="註" name="imagawa" />-->(今川仲秋の三男・[[今川直秋|直秋]]の子) * [[上杉持房|上杉'''持'''房('''持'''憲)]] * [[上野持頼|上野'''持'''頼]]([[上野氏#清和源氏足利流 上野氏嫡流|足利氏系上野氏]]) * [[上野持歳|上野'''持'''歳]](もちとし、持頼の弟) * [[大内持世|大内'''持'''世]] * [[大内持盛|大内'''持'''盛]](持世の弟) * [[大崎持詮|大崎'''持'''詮]] * [[大崎持兼|大崎'''持'''兼]] * [[大館持房|大館'''持'''房]] * [[大友持直|大友'''持'''直]] * [[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|小笠原'''持'''長]](信濃/府中小笠原氏) * [[小笠原持長 (京都小笠原氏)|小笠原'''持'''長]](京都小笠原氏) * [[小笠原持清|小笠原'''持'''清]](京都小笠原氏、持長の子) * [[葛西持信|葛西'''持'''信]]([[葛西満信|満信]]の子、朝信・[[葛西政信|政信]]の父) * [[江刺持重|葛西'''持'''重(江刺'''持'''重)]](持信の叔父) * [[金山持実|金山'''持'''実]] * [[京極持高|京極'''持'''高('''持'''光)]] * [[京極持清|京極'''持'''清]](持高の弟) * [[吉良義尚|吉良'''義'''尚]](西条[[吉良氏]](上吉良流)当主) * [[吉良持長|吉良'''持'''長]](東条吉良氏(下吉良流)当主) * [[吉良持助|吉良'''持'''助]]?(持長の子)> [[吉良持清]](持助の孫)・[[吉良持広|持広]]父子 * [[吉良持家|吉良'''持'''家]](奥州吉良氏当主) * [[河野通久|河野'''持'''通(通久)]] * [[木造持康|木造'''持'''康]]([[木造俊康]]の嫡男) * [[小早川持平|小早川'''持'''平]]([[小早川煕平]]の兄) * [[斯波義淳|斯波'''義'''淳]] * [[斯波持有|斯波'''持'''有('''持'''輔)]](義淳の弟) * [[斯波持種|斯波'''持'''種]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[千秋持季|千秋'''持'''季]](幕府奉公衆・[[熱田神宮|熱田]][[大宮司]]家一族([[藤原季範]]の末裔)) * [[伊達持宗|伊達'''持'''宗]] * [[中条持保|中条'''持'''保]](左馬助、[[中条満秀]]の子か) * [[中条持平|中条'''持'''平]](右京亮、中条満秀の子か) * [[中条持家|中条'''持'''家]](中条満秀の子か) * [[富樫持春|富樫'''持'''春]] * [[土岐持益 (守護)|土岐'''持'''益]] * [[土岐持頼|土岐'''持'''頼]] * [[二階堂持行|二階堂'''持'''行]]([[二階堂氏]]) * [[仁木持尹|仁木'''持'''尹]]([[仁木頼章|頼章]]の曾孫) * [[仁木持長|仁木'''持'''長]](持尹の子) * [[肥田持重|肥田'''持'''重]]([[肥田氏]]) * [[肥田持直|肥田'''持'''直]]([[肥田氏]]) * [[畠山持国|畠山'''持'''国]] * [[畠山持永|畠山'''持'''永]](持国の弟) * [[畠山持富|畠山'''持'''富]](持国・持永の弟) * [[畠山持純|畠山'''持'''純]]([[畠山義清]]の孫) * [[石垣持秋|畠山'''持'''秋]](石垣持秋、父は[[畠山義深]]の子・[[石垣満国]]) * [[二本松持重|畠山'''持'''重]](二本松持重([[二本松氏]])) * [[畠山持重 (河内畠山氏)|畠山'''持'''重]]([[畠山満国 (河内畠山氏)|畠山満国]]の子。[[畠山家国]]の子・[[畠山清義|清義]]の曾孫) * [[畠山持清|畠山'''持'''清]](満国の弟) * [[畠山持貞|畠山'''持'''貞]](満国の弟) * [[細川持元|細川'''持'''元]] * [[細川持之|細川'''持'''之]](持元の弟) * [[細川持賢|細川'''持'''賢]](持元・持之の弟) * [[細川持春|細川'''持'''春]] * [[細川持常|細川'''持'''常]] > [[細川之持]](持常の弟・教祐の孫)・[[細川持隆|持隆]]父子 * [[細川持有|細川'''持'''有]]([[細川教春 (和泉上守護家)|教春]]の父) * [[細川持久|細川'''持'''久]]([[細川頼久|頼久]]の子) * [[細川持親|細川'''持'''親]]([[細川成春|成春]]の父) * [[細川持経|細川'''持'''経]]([[細川和氏|和氏]]の曾孫) * [[細川持益|細川'''持'''益]]([[細川頼種|頼種]]の玄孫、[[細川勝益|勝益]]の父) * [[本郷持泰|本郷'''持'''泰]]([[美作朝親]]の末裔) * [[桃井持信|桃井'''持'''信]](義量近臣、[[桃井直信|直信]]の孫か) * [[山名持熙|山名'''持'''熙]] * [[山名宗全|山名'''持'''豊]](持熙の弟、のちの宗全) * [[山名持幸|山名'''持'''幸]]([[山名氏#系譜|日野山名氏]]([[山名義幸]]流)) * [[山名持国|山名'''持'''国]] * [[六角持綱|六角'''持'''綱]] * [[六角持信|六角'''持'''信]](持綱の子) </div><br style="clear: left;" /> == 参考文献 == ;書籍 * 伊藤喜良「義持政権をめぐって –禅秀の乱前後における中央政局の一側面」(所収:伊藤『日本中世の王権と権威』([[思文閣出版]]、[[1993年]]) ISBN 978-4-7842-0781-7) * 小林保夫「室町幕府将軍専制化の契機について –足利義持期の二つの事件をめぐって-」(所収:上横手雅敬 編『中世公武権力の構造と展開』([[吉川弘文館]]、[[2001年]]) ISBN 978-4-642-02805-9) * [[伊藤喜良]]「足利義持 (人物叢書) 」(吉川弘文館、[[2008年]]) ISBN 978-4-642-05246-7 * [[臼井信義]]『足利義満』(吉川弘文館人物叢書、[[1989年]]([[平成]]元年)新装版) ISBN 4-642-05150-3 ;史料 * 『春の夜の夢』 * 『御評定着座次第』 * 『教言卿記』 * 『椿葉記』 * 『東寺執行日記』 * 『尊卑分脈』 * 『明太宗実録』 * 『明実録』 * 『明史』 * 『看聞日記』 * 『鎌倉大草紙』 * 『花営三代記』 * 『康富記』 == 脚注 == === 註釈 === {{Reflist|group="註"}} === 出典 === {{Reflist}} == 登場作品 == ;小説 * [[山田風太郎]]「室町の大予言」(文藝春秋/文春文庫『室町少年倶楽部』収録、1995年) * [[鯨統一郎]]『とんち探偵一休さん 金閣寺に密室』(祥伝社、2000年) ;漫画 * [[坂口尚]]『[[あっかんべェ一休]]』(講談社/講談社漫画文庫、1993-1996年) {{征夷大将軍|1394年-1423年}} {{室町幕府将軍}} {{DEFAULTSORT:あしかか よしもち}} [[Category:将軍足利氏|よしもち]] [[Category:室町幕府の征夷大将軍|よしもち]] [[Category:足利義満の子女|よしもち]] [[Category:1386年生]] [[Category:1428年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Main
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:室町幕府将軍
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:征夷大将軍
(
ソースを閲覧
)
足利義持
に戻る。
検索
検索
足利義持のソースを表示
話題を追加