コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
足利義嗣のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
足利義嗣
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 足利 義嗣 | 画像 = Asikaga yoshitsugu.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 『義烈百人一首』より | 時代 = [[室町時代]] | 生誕 = [[応永]]元年([[1394年]]) | 死没 = [[応永]]25年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1418年]][[3月1日]]) | 改名 = | 別名 = | 諡号 = | 戒名 = 圓修院孝山道純 | 墓所 = [[相国寺|相国寺林光院]] | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[正五位|正五位下]][[馬寮|左馬頭]]、[[従四位|従四位下]]<br />[[近衛府|左近衛中将]]、[[従三位]][[参議]]、[[中納言|権中納言]]<br />[[正三位]]、[[従二位]]、[[大納言|権大納言]]、[[正二位]] | 幕府 = [[室町幕府]] | 主君 = | 氏族 = [[足利氏]] | 父母 = 父:[[足利義満]]、母:[[春日局 (足利義満側室)|春日局]] | 兄弟 = [[足利義持|義持]]、'''義嗣'''、[[足利義教|義教]]、[[義昭|大覚寺義昭]]、[[足利義満#主な家系|他]] | 妻 = 側室:[[上杉禅秀]]の娘 | 子 = '''[[足利嗣俊|嗣俊]]'''、[[足利直明|直明]](次男、[[一色氏#<宮内一色家分家:幸手一色家:関東一色氏>|関東一色長兼]]養子)、<br />[[梵修]]([[香厳院]]侍者)、[[清欽]](修山)、 | 特記事項 = }} '''足利 義嗣'''(あしかが よしつぐ)は、[[室町時代]]の[[足利将軍家]]の人物。[[室町幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の次男で、4代将軍[[足利義持]]の弟にあたる。 == 生涯 == [[応永]]元年([[1394年]])、[[足利義満]]の次男として生まれる。幼名鶴若丸。同年、父義満は兄[[足利義持|義持]]に[[将軍職]]を譲った。義嗣は、[[嫡男]]以外は[[出家]]させる慣例に従って[[三千院|梶井門跡]]に入室したが、義満は[[応永]]15年([[1408年]])に家の定めを破って義嗣を[[還俗]]させた。義嗣は義満に溺愛され、[[鹿苑寺|北山第]]に住むことになった。 同年3月4日、[[元服]]前に異例の[[任官]]をして[[従五位|従五位下]]に叙せられる。次いで[[後小松天皇]]が北山第に[[行幸]]した際に天盃を下賜される。行幸中の3月24日、[[正五位|正五位下]][[馬寮|左馬頭]]に叙任、さらに同月28日には[[従四位|従四位下]]に叙せられ、翌日、還幸のお礼言上に参内して[[近衛府|左近衛中将]]に昇任した。同年4月25日、宮中で[[内大臣]]が加冠する[[親王]]並の形式で元服して、[[従三位]][[参議]]に[[任官]]した。 同年5月に義満が死去すると、義満にないがしろにされていた義持によって、義嗣と生母春日局は北山第から追放されるなど冷遇されたが、同年7月23日には[[中納言|権中納言]]に任官した。翌応永16年([[1409年]])1月5日には[[正三位]]、応永18年([[1411年]])11月21日に[[従二位]]、同月25日には[[大納言|権大納言]]、応永21年([[1414年]])1月5日には[[正二位]]に叙せられる。 その後、不和であった将軍義持を打倒するため、[[伊勢国]]の[[北畠家|北畠氏]]と結んで挙兵しようとするが失敗する。応永23年([[1416年]])に[[鎌倉府]]において義嗣の妾の父である前[[関東管領]]の[[上杉禅秀]]が[[鎌倉公方]]の[[足利持氏]]を襲撃する[[上杉禅秀の乱]]が起こった際、[[京都]]では義嗣は出奔する騒動を起こしていた。幕府は義嗣の乱への関与を疑って義嗣や近臣を捕らえ、義嗣は[[仁和寺]]、次いで[[相国寺]]へ幽閉されて10月20日に出家させられた。 応永25年([[1418年]])1月24日、義嗣は義持の命を受けた[[富樫満成]]により殺害された。[[享年]]25。遺子(嗣子)である[[足利嗣俊|嗣俊]](つぐとし)は[[越前国|越前]]に下り、[[鞍谷氏|鞍谷公方]]として栄えた。 容姿端麗で才気があり、[[笙]]の演奏では天才的だったと伝わる。義嗣の異例の昇進を見て、義満が義嗣を後継者と考えていると予測した武将や公家も多かったようである。義満の皇位簒奪の意図を指摘する論者は、義満が自らは[[太上天皇]]の尊号を受け「[[治天の君]]」となり、義嗣を[[天皇]]の位につけようとしたと推測している。 == 関連項目 == * [[鞍谷氏]](義嗣流) {{DEFAULTSORT:あしかか よしつく}} [[Category:将軍足利氏|よしつく]] [[Category:足利義満の子女|よしつく]] [[Category:還俗した人物]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:1394年生]] [[Category:1418年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
足利義嗣
に戻る。
検索
検索
足利義嗣のソースを表示
話題を追加