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'''赤星 統家'''(あかほし むねいえ、[[享禄]]3年([[1530年]]) - [[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[赤星親家]]の子。父・親家と近隣の強大勢力である[[大友義統]]から1字ずつ取って統家と名乗る。 == 略歴 == [[赤星氏]]は、[[菊池氏]]の一族で、[[菊池武房]]の弟の[[赤星有隆]]を祖とする。[[隈部氏]]、[[城氏 (藤原姓菊池一門)|城氏]]とともに菊池氏の三[[家老]]家の一つで、[[肥後国]]の有力な[[国人]]領主であった。 父・親家の死後、[[隈府城]]主となる。[[龍造寺隆信]]が肥後国に侵攻すると、2人の子を人質に出して降伏した。しかし、後に敵対関係にあった[[隈部親永]]が龍造寺氏が支援のもと肥後国で勢力を伸ばしたことが原因で、龍造寺氏から命じられた佐賀への参例を渋ったために疑心ありと見なされ、[[天正]]11年([[1583年]])に龍造寺氏に預けていた人質(14歳の息子・新六郎と8歳の娘の兄妹)が殺害された。これを大いに恨んだ統家は、反龍造寺の旗色を鮮明にして、[[島津氏]]の幕下に入り、翌天正12年([[1584年]])の[[沖田畷の戦い]]には先鋒を務める[[島津家久]]の陣に赤装束に縄襷(なわだすき)という出で立ちで、50人の兵とともに参加している。 だが、以後も島津氏とともに行動したことが原因で、[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]の後に所領を没収され、隈府城を取り戻せず、最後は[[阿波国]]で死去した。 なお、統家の娘は[[筑後国]][[柳川城]]の[[蒲池鎮漣]]の正室であり、[[朽網鑑房]]の妻となった[[蒲池徳子]]の母親とされる。また、[[加藤清正]]に仕えた[[赤星親武]]は統家の子とされる。 {{デフォルトソート:あかほし むねいえ}} [[Category:菊池氏]] [[Category:戦国武将]] [[Category:1530年生]] [[Category:1619年没]]
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