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賤ヶ岳の戦い
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{{Battlebox| battle_name=賤ヶ岳の戦い |campaign=豊臣秀吉の戦闘 |image=[[File:Battle of Shizugatake pic in Mount Shizu 2009-02-08.jpg|300px]] |caption=合戦図 |conflict=[[戦国時代 (日本)]] |date=([[1583年]][[4月]]) |place=近江伊香郡の賤ヶ岳付近 |result=羽柴軍の勝利 |combatant1=羽柴軍[[Image:Goshichi no kiri wide.jpg|20px]] |combatant2=柴田軍 |commander1=[[羽柴秀吉]][[Image:Goshichi no kiri wide.jpg|20px]]<br>[[豊臣秀長|羽柴秀長]][[Image:Goshichi no kiri wide.jpg|20px]]<br>[[丹羽長秀]]<br>[[織田信雄]][[ファイル:Sasa rindo.svg|20px]]<br>[[黒田孝高]][[ファイル:Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg|20px]]<br>[[前野長康]][[ファイル:Alex K Hiroshima Asano kamon.svg|20px]]<br>[[中川清秀]]<br>[[高山右近]]<br>[[桑山重晴]]<br>[[福島正則]][[ファイル:Alex K Hiroshima Fukushima kamon.svg|20px]]<br>[[加藤清正]][[ファイル:Tokikikyo.svg|20px]]<br>[[加藤嘉明]][[ファイル:Japanese crest Sagari Fuji of Katou Yosiaki.svg|20px]]<br>[[脇坂安治]][[ファイル:Wachigai.svg|20px]]<br>[[平野長泰]]<br>[[糟屋武則]][[ファイル:Mitsumori.jpg|20px]]<br>[[片桐且元]][[ファイル:丸に鷹の割羽.svg|20px]]<br>[[石田三成]][[ファイル:Japanese Crest Daiichi Daiman Daikichi 1.svg|20px]]<br>[[大谷吉継]][[ファイル:Japanese Crest Nishirokujyoufuji.gif|20px]]<br>[[一柳直盛]][[ファイル:Maruni-kuginuki.jpg|20px]] |commander2=[[柴田勝家]][[ファイル:Japanese Crest Maru ni futatu Karigane.svg|20px]]<br>[[柴田勝政]][[ファイル:Japanese Crest Maru ni futatu Karigane.svg|20px]]<br>[[佐久間盛政]][[Image:Marunouchinimitsuhikiryo.svg|15px]]<br>[[滝川一益]][[ファイル:Japanese Crest Maru ni tate Mokkou.svg|20px]]<br>[[織田信孝]][[ファイル:Ageha-cho.svg|20px]]<br>[[前田利家]][[image:Japanese crest Kaga Umebachi.svg|15px]]<br>[[金森長近]][[ファイル:Urabaibachi.gif|20px]]<br>[[不破直光]] |strength1=50,000 |strength2=30,000 |casualties1= |casualties2= |}} '''賤ヶ岳の戦い'''(しずがたけのたたかい)は、[[天正]]11年([[1583年]])、[[近江国]][[伊香郡]](現:[[滋賀県]][[長浜市]])の[[賤ヶ岳]]付近で行われた羽柴秀吉(のちの[[豊臣秀吉]])と[[柴田勝家]]との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって[[織田信長]]の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。 == 清洲会議 == 天正10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])、織田信長とその嫡男で当主の[[織田信忠]]が[[本能寺の変]]で重臣の[[明智光秀]]によって殺害されると、その後間もない[[山崎の戦い]]で光秀を倒した羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[7月16日]])、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が[[清洲城]]で開かれ([[清洲会議]])、信長の三男・[[織田信孝]]を推す柴田勝家と[[織田信忠]]の子である三法師(のちの[[織田秀信]])を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的には同席した[[丹羽長秀]]・[[池田恒興]]らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定した。なお異説として、柴田勝家は三法師擁立に反対ではなく、清洲会議は、この4武将が結託して織田家から天下を奪ったクーデターだったとする説もある。 この説では、秀吉が天下を狙う意図を明確にしたのは、翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を行った時である。勝家は秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いた。信孝は、何が起きているか理解できず、秀吉と勝家を仲裁しようとしていた。 == 合戦にいたるまで == === 両陣営の動き === この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田氏の後方にある[[上杉景勝]]や、信孝の地盤である[[美濃国|美濃]]の有力部将・[[稲葉良通|稲葉一鉄]]が、羽柴秀吉になびくなどやや秀吉に有利な状況にあった。一方で勝家は[[四国]]の[[長宗我部元親]]や[[紀伊国|紀伊]]の[[雑賀衆]]を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に[[和泉国|和泉]][[岸和田城]]などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。 === 柴田勝家による和平交渉 === 10月16日、柴田勝家は、堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している<ref>『南行雑録』</ref>。 11月、勝家は[[前田利家]]・[[金森長近]]・[[不破直光|不破勝光]]を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由としたみせかけの和平であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めている。 === 羽柴秀吉による長浜城、岐阜城攻め === [[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[12月26日]])、秀吉は[[毛利氏]]対策として山陰は[[宮部継潤]]、山陽は[[蜂須賀正勝]]を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて[[近江国|近江]]に出兵、[[長浜城 (近江国)|長浜城]]を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将[[柴田勝豊]]は、わずかな日数で秀吉に降伏してしまった。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、[[12月20日 (旧暦)|12月20日]](1583年[[1月13日]])には[[岐阜城]]にあった織田信孝を降伏させた。 === 滝川一益の挙兵 === 翌天正11年(1583年)正月、[[伊勢国|伊勢]]の[[滝川一益]]が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵し、[[関盛信]]・[[関一政|一政]]父子が不在の隙に[[亀山城 (伊勢国)|亀山城]]、峯城、[[関城]]、[[国府城]]、[[鹿伏兎城]]を調略、亀山城に[[滝川益氏]]、峯城に[[滝川益重]]、関城に[[滝川忠征]]を置き、自身は[[長島城]]で秀吉を迎え撃った。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]([[4月11日]])に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[4月24日]])、峯城は[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]([[6月4日]])まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に秀吉に仕えた。 === 柴田勝家の挙兵 === 一方で越前・[[福井城|北ノ庄城]]にあった柴田勝家は雪のため動けずにいたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに2月末、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣した。 == 合戦 == [[File:Mount Shizu top 2009-02-08.jpg|thumb|250px|[[賤ヶ岳]]山頂と[[余呉湖]]]] [[File:Shizugatake.jpg|thumb|250px|賤ヶ岳古戦場登山道入口]] === 布陣 === [[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[5月3日]])、勝家は[[前田利家]]、[[佐久間盛政]]ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は[[織田信雄]]と[[蒲生氏郷]]の1万強の軍勢を伊勢に残し、[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[5月10日]])には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]([[5月18日]])秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は[[前野長康]]、[[黒田孝高|黒田官兵衛]]、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20130511k0000m040028000c.html 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見](毎日新聞2013年5月10日)</ref>。 === 美濃返し === [[4月16日 (旧暦)|4月16日]]([[6月6日]])、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、[[岐阜城]]下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられた秀吉は翌[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[6月7日]])美濃に進軍するも、[[揖斐川]]の氾濫により[[大垣城]]に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・[[佐久間盛政]]の意見具申もあり、[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[6月9日]])、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは[[中川清秀]]であったが、耐え切れず陥落、中川は討死。続いて[[黒田孝高]]の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた[[高山右近]]を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、前線に軍勢を置き続けた。 [[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[6月10日]])、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、[[桑山重晴]]も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって[[琵琶湖]]を渡っていた[[丹羽長秀]]が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。 さらに同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロメートルをわずか5時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に[[松明]]を点け、さらに食事の補給箇所も用意させていたという。わずかな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政の軍は奮闘、さらに[[柴田勝政]]の救援もあり撤収に成功、そのため、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となった。 ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。理由は諸説あるが、秀吉とは[[織田信長|信長]]の部下時代からの親友であったが、[[柴田勝家|勝家]]とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説である。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。 === 北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害 === 勝家は北ノ庄城に逃れるものの、[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[6月13日]])には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人の[[お市の方]]らとともに自害した。また佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の[[六条河原]]でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は[[尾張国]]内海([[愛知県]][[南知多町]])に移され、[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[6月19日]])信雄の使者より[[切腹]]を命じられて自害した。残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し<ref name=クロニック戦国全史(1995)">[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)、p.477]]</ref>、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。 == 賤ヶ岳の七本槍 == [[ファイル:Battle of Shizugatake.jpg|thumb|right|300px|秀吉と賤ヶ岳の七本槍<br/>『賤ヶ嶽大合戦の図』 ([[歌川豊宣]]画)]] 秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に'''賤ヶ岳の七本槍'''('''しずがたけ の しちほんやり''')と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、『一柳家記』には「先懸之衆」として七本槍以外にも[[石田三成]]や[[大谷吉継]]、[[一柳直盛]]も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている<ref>『一柳家記』</ref>。後年七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至ったが、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。 * [[福島正則]]([[1561年]] - [[1624年]]) * [[加藤清正]]([[1562年]] - [[1611年]]) * [[加藤嘉明]]([[1563年]] - [[1631年]]) * [[脇坂安治]]([[1554年]] - [[1626年]]) * [[平野長泰]]([[1559年]] - [[1628年]]) * [[糟屋武則]]([[1562年]] - [[1607年]]) * [[片桐且元]]([[1556年]] - [[1615年]]) == 合戦の性格 == この戦いは柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉、丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長次男[[織田信雄|北畠信雄]]と三男[[織田信孝|神戸信孝]]の対立でもあった。両者の対立がそのような形をとったことは、戦国時代の[[室町幕府|幕府]]の政争が将軍の家督争いという形をとってきたことと相似する<ref name="戦国乱世を生きる力(2002)">[[#戦国乱世を生きる力(2002)|戦国乱世を生きる力(2002)、p.270]]</ref>。そればかりか、勝家の場合は、[[備後国]][[鞆の浦|鞆ノ浦]]([[広島県]][[福山市]])にあって[[京都]]への帰還をもくろんでいた[[征夷大将軍]][[足利義昭]]の擁立も試みていた<ref name="戦国乱世を生きる力(2002)" />。 この戦いで、[[一向宗]]の[[本願寺]]勢力は秀吉方に与力すると申し出ている。本願寺が加賀の[[一揆]]を動員して秀吉に忠節をつくすと申し入れてきたことに対して、秀吉はこれを賞賛し、柴田領の加賀・越前で活躍すれば加賀を本願寺に返還すると応えている。とはいえ、本願寺にそのような力は残っておらず、実際、柴田勝家が一向宗残党を警戒した様子はない。 == 合戦の影響 == この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また、合戦終了の2日後の[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[6月15日]])に秀吉は[[中国地方]]の戦国大名・[[毛利輝元]]の重臣・[[小早川隆景]]に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗に促した。戦後処理終了後、秀吉はまもなく畿内の[[石山本願寺]]跡に[[大阪城|大坂城]]の築城を開始し、また同年5月には朝廷から従四位下[[参議]]に任命された。また、秀吉のもとに[[徳川家康]]・[[上杉景勝]]・毛利輝元・[[大友義統]]など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。しかし臣従したとはいえ、丹羽長秀、[[池田恒興]]、森長可、蒲生氏郷、[[堀秀政]]、[[長谷川秀一]]などの織田家旧臣が大幅な加増を得ていることも見逃せない事実である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author= |year=1989 |month=12 |title=賎ヶ岳の戦い―秀吉VS勝家覇権獲得への死闘 |series=歴史群像シリーズ 15 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |pages= |isbn=4051051528}} * {{Cite book|和書 |author=[[徳永真一郎]] |year=1992 |month=6 |title=賤ヶ岳七本槍―秀吉を支えた勇将たちの生涯 |publisher=[[PHP研究所]] |pages= |isbn=4569564739}} * {{Cite book|和書 |author=[[池上裕子]] |coauthors=[[池享]]・[[小和田哲男]]・[[小林清治]]・[[峰岸純夫]] |year=1995 |month=12 |title=クロニック戦国全史 |publisher=[[講談社]] |pages= |isbn=4062060167 |ref=クロニック戦国全史(1995)}} * {{Cite book|和書 |author=[[高柳光寿]] |year=2001 |month=1 |title=戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い |publisher=学習研究社 |pages= |isbn=4059010251}} * {{Cite book|和書 |author=[[神田千里]] |year=2002 |month=8 |title=日本の中世11 戦国乱世を生きる力 |publisher=[[中央公論新社]] |pages= |isbn=4-12-490220-4 |ref=戦国乱世を生きる力(2002)}} * {{Cite book|和書 |author=[[岡田秀文]] |year=2010 |month=4 |title=賤ヶ岳 |publisher=[[双葉社]] |pages= |isbn=9784575236903}} * {{Cite book|和書 |author= |year=2010 |month=11 |title=賤ヶ岳合戦図屏風 |series=週刊 絵で知る日本史 5号 |publisher=[[集英社]] |pages=[[ASIN]] B0047O2SFK |isbn=}} == 関連項目 == {{Commonscat|Battles of Japan|日本の戦闘}} * [[賤ヶ岳]] * [[日本槍柱七本]] * [[美濃大返し]] * [[坂本城]] - 豊臣秀吉方の軍事上の基地となった == 外部リンク == * [http://www.biwako.ne.jp/~hatano/shizugatake/3-1.html 余呉の庄と賤ヶ岳の合戦] * [http://4619.web.fc2.com/hero7.html 前田利家と賤ヶ岳の戦い] * [http://www.ohmitetudo.co.jp/outdoor/spot/kinomoto/shizugatake.html 賤ヶ岳古戦場] 近江路観光ガイド * [http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_spot_3804.html 賤ヶ岳古戦場] 滋賀県観光情報 * [http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200909060067.html 賤ケ岳 史上まれな築城・対峙戦] 朝日新聞 {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=賤ヶ岳の七本槍 |1-1=名数7 |1-2=戦国武将の名数 }} {{DEFAULTSORT:しすかたけのたたかい}} [[Category:近江国]] [[Category:日本の戦国時代の戦い]] [[Category:安土桃山時代の戦い]] [[Category:豊臣秀吉|戦しすかたけ]] [[Category:1583年]] [[Category:長浜市の歴史]]
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