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豊臣秀次
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{{基礎情報 武士 |氏名=豊臣 秀次 / 羽柴 秀次 |画像= Toyotomi Hidetsugu.jpg |画像サイズ= 275px | 画像説明 = 豊臣秀次像/[[瑞泉寺]]蔵(部分) |時代= [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]([[室町時代]]末期) - [[安土桃山時代]] |生誕= [[永禄]]11年([[1568年]]) |死没= [[文禄]]4年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]([[1595年]][[8月20日]]) |改名= 治兵衛(幼名)、三好信吉、秀次、羽柴秀次、豊臣秀次 |別名= 別名:万丸<ref group="注釈">秀次の幼名は治兵衛が正しいとされ、万丸は他家に養子に出すにあたってつけられた名だと推定される。</ref><br/>[[仮名 (通称)|通称]]:小一郎、孫七郎<br />渾名:殺生関白、豊禅閤 |戒名= 瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀 |墓所= [[京都市]][[中京区]]木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺<br />京都市[[左京区]]岡崎東福ノ川町の善正寺<br />[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]]高野山の光台院裏山 |官位= 従四位下、右近衛権少将、右近衛権中将、参議、[[従三位]]権中納言、[[正二位]]、権大納言、[[内大臣]]、関白、[[左大臣]] |主君= [[豊臣秀吉]] |氏族= [[木下氏]]→[[宮部氏]]→[[清和源氏|源姓]][[三好氏]]→[[豊臣氏|豊臣姓]][[羽柴氏]] |父母= 父:[[三好吉房]]、母:[[日秀尼|日秀]]<br />養父:''[[宮部継潤]]''、''[[三好康長]]''、''[[豊臣秀吉]]'' |妻= 正室:[[池田恒興]]の娘・'''[[若御前]]'''<br />継室:[[菊亭晴季]]の娘・'''[[一の台]]'''<br />側室:[[最上義光]]の娘・[[駒姫]](お伊万の方)<br />側室:[[竹中重定]]の娘、他[[豊臣秀次#系譜|下記]]を参照。 |兄弟= '''秀次'''、[[豊臣秀勝|秀勝]]、[[豊臣秀保|秀保]] |子= [[豊臣仙千代丸|仙千代丸]]、<br />隆清院([[真田信繁]]側室)、[[お菊]]<br />他、[[豊臣秀次#系譜|下記]]を参照。 }} '''豊臣 秀次'''(とよとみ ひでつぐ) / '''羽柴 秀次'''(はしば ひでつぐ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[大名]]・[[関白]]。 [[豊臣秀吉]]の姉・[[日秀尼|日秀]]の子で、秀吉の養子となる。通称は孫七郎(まごしちろう)。幼名は治兵衛(じへえ)。はじめ、[[戦国大名]]・[[三好氏]]の一族・三好康長に養子入りして'''三好信吉'''(みよし のぶよし)と名乗っていたが、後に'''羽柴秀次'''と改名する。なお「豊臣秀次」の読み方については、[[豊臣氏]]を参照のこと。 == 生涯 == === 前半生 === 永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と木下弥助(後の[[三好吉房]])の長男として[[尾張国]]に生まれる。[[織田信長]]の北近江[[浅井氏|浅井]]攻めに際し、[[宮部継潤]]に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。その後、信長が開始した[[四国攻め]]において、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時[[阿波国]]で勢力を誇っていた[[三好氏]]の[[三好康長]]に養子として送り込まれ、'''三好信吉'''と名乗る。 [[天正]]10年([[1582年]])6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。天正11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]に参戦して武功を挙げた。天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]にも参加し、このとき「中入り」のため[[三河国]]への別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に[[徳川家康]]軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である[[池田恒興]]や[[森長可]]らを失い、命からがら敗走する。このため、秀吉から激しく叱責された。この時期、'''羽柴秀次'''と名乗る。<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』p.27</ref> 天正13年([[1585年]])の[[紀州征伐#秀吉の紀州攻め|紀伊雑賀攻め]]では秀長と共に副将をつとめ[[千石堀城#千石堀城の戦い|千石堀城の戦い]]で城を落とし、[[四国平定]]でも副将として3万を率いて軍功を挙げた。このため、[[近江国]]蒲生郡[[八幡山城]](現在の[[近江八幡市]])に43万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。これは[[田中吉政]]など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっており、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。天正14年([[1586年]])11月、[[豊臣氏|豊臣]]の本姓を秀吉から下賜された<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』p.34</ref>。 [[九州征伐]]では京都の守りに残ったが、天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]にも参加し、[[山中城]]攻撃では大将となり城を半日で陥落させた。戦後、移封を拒否して[[改易]]された[[織田信雄]]の旧領である[[尾張国]]・[[伊勢国]]北部5郡などに100万石の大領を与えられた。天正20年([[1592年]])「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として[[前野忠康|舞兵庫]]の名が記されている。 天正19年([[1591年]])奥州に出兵し、[[葛西大崎一揆]]及び[[九戸政実の乱]]鎮圧においても武功を挙げた。 === 最期 === [[ファイル:Yahatahachimanjo05.jpg|thumb|250px|[[瑞龍寺]]の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)]] 天正19年([[1591年]])8月に秀吉の嫡男・[[豊臣鶴松|鶴松]]が死去した。秀次は11月には秀吉の養子となり、12月に関白に就任。同時に豊臣氏の[[氏長者]]となった<ref>三鬼、10p</ref>。 関白就任後の秀次は[[聚楽第]]に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、[[二元政治]]となった。その後、[[文禄・慶長の役|唐入り]]に専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。 しかし文禄2年([[1593年]])に秀吉に実子・[[豊臣秀頼|秀頼]]が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。秀吉は[[前田利家]]を仲介人として秀頼と秀次の娘を婚約させ、日本を5つに分けてその4つを秀次に、1つを秀頼に与えると約束するなど互いに譲歩も試みられた<ref name="戦国322"/>。 文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で[[伏見城]]に登城するが、秀吉と面会できぬまま[[高野山]]に追放され、出家し'''道意'''と号した<ref name="戦国322"/>。以降、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれることもある<ref>禅閤は禅定太閤の略で、出家した太閤を指す。厳密には太閤は子に関白を譲った者の称号である。[[太閤]]を参照。</ref>。7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。[[辞世]]は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。 == 死後 == 死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。遺臣の多くは[[石田三成]]、[[前田利家]]、徳川家康らに仕えた。 == 秀次事件 == [[ファイル:Toyotomi Hidetsugu large.jpg|thumb| 豊臣秀次像/[[瑞泉寺]]蔵 ---- 秀次の下に殉死した[[玄隆西堂]]、山本主殿、[[不破万作 (小姓)|不破万作]]、山田三十郎、[[雀部重政|雀部淡路守]]を配す]] [[File:Yoshitoshi - 100 Aspects of the Moon - 75.jpg|thumb|『おもひきや 雲ゐの秋のそらならて 竹あむ窓の月を見んとは』([[月岡芳年]]『月百姿』)高野山の豊臣秀次]] 文禄4年([[1595年]])、秀次は秀吉に[[謀反]]の疑いをかけられた。7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ[[石田三成]]、[[前田玄以]]、[[増田長盛]]の3名の奉行の他、[[宮部継潤]]、[[富田一白]](奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し[[高野山]]へ行くように促した<ref name="TT_p5">『太閤秀吉と豊臣一族』p.5</ref>。7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る[[伏見城]]へ赴くが、[[福島正則]]らに遮られ、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ福島正則・[[池田秀氏]]・[[福原長堯|福原直堯]]らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の[[小姓]]らを含めた嫌疑をかけられた人々が[[切腹]]することになった<ref name="TT_p5" /><ref name="戦国323"> 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.323</ref>。秀次は[[雀部重政]]の[[介錯]]により切腹し、そして重政と[[東福寺]]の僧・[[玄隆西堂]]も切腹した<ref name="TT_p5" />(仏教寺院内で[[五戒]]の一つである殺生を行うことは異例である)。秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は[[金剛峰寺|青巌寺]]に葬られ、秀次の首は[[三条大橋|三条河原]]へ送られた<ref name="TT_p6">『太閤秀吉と豊臣一族』p.6</ref><ref>雀部重政が介錯をしたのは、あくまで一説である。</ref>。 そして、[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[9月5日]])には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び[[側室]]・[[侍女]]ら併せて39名が処刑された<ref name="TT_p6" /><ref name="戦国323"/>。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた<ref name="TT_p6" />。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年([[1611年]])に[[豪商]]の[[角倉了以]]によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた<ref name="TT_p6" />([[畜生塚]])。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。 ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。[[豊臣十丸]]の祖母北野松梅院は死を免れている。直系の親族では、[[淡輪隆重|淡輪徹斎(淡輪隆重)]]の娘・小督の局との娘で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の[[後藤興義]]に預けられ、後に[[真田信繁]]の側室・[[隆清院]]となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れている。 この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「[[瑞泉寺縁起]]」が京都の[[瑞泉寺 (京都市)|瑞泉寺]]に残されている<ref>『太閤秀吉と豊臣一族』p.1</ref>。 === 粛清の理由 === [[菊亭晴季]]の娘(一ノ台・秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰された)を見初め、晴季と相談し秀吉に黙って継室としたが、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説(『[[川角太閤記]]』)や、秀吉が秀次を養子にして関白職を譲った後に秀頼が生まれてしまい、我が子可愛さに秀次に後嗣権を与えてしまった事に後悔したという説<ref name="戦国321"> 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.321</ref>、秀次が「殺生関白」と称される乱行を繰り返したためとする説<ref name="戦国321"/>、秀次が秀吉に無断で朝廷に多額の献金を行なった事を秀吉や三成らが謀反の準備と判断したとする説<ref name="戦国322"> 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.322</ref>など諸説あり、未だにどれが理由かは明確ではない。 また秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを行なっていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説<ref name="戦国394"> 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.394</ref>、この借財で特に[[毛利輝元]]に対して秀次はかなりの額を貸し付けており、輝元はとても返しきれないくらい借金していたのだが、秀次と秀吉の関係悪化を見て秀次派として処分されるのを恐れ自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説などもある<ref name="戦国394"/>。 === 秀次事件の影響 === どのような所業であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。また武家とはいえ、[[天子]]の後見人として[[殿下]]と敬称される地位にあった関白が失脚早々に切腹を申し付けられ梟首となったことも、公家社会に衝撃を与えた。それに輪をかけて切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、このような苛烈な仕置は、豊臣政権崩壊へと繋がることにもなった<ref name="kokushi">三鬼清一郎「豊臣秀次」『[[国史大辞典]]』吉川弘文館。</ref>。 [[藤木久志]]は政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深化を遂げたと評している<ref>藤木『織田・豊臣政権』『天下統一と朝鮮侵略』p.358</ref>。 秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態になった。 また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて[[関ヶ原の戦い]]で徳川方である東軍に属することになる。[[笠谷和比古]]は、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした[[豊臣政権]]の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している<ref>笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』</ref>。 === 秀次切腹の主な連座者 === ; 切腹 * [[木村重茲]](助命後自裁) * [[木村志摩守]]([[賜死]]) * [[前野長康]](助命後自裁) * [[前野景定]](賜死) * [[羽田正親]](賜死) * [[服部一忠]](賜死) * [[渡瀬繁詮]](賜死) * [[明石則実]](賜死) * [[一柳可遊]](賜死) * [[粟野秀用]](賜死) * [[白江成定]](賜死) * [[熊谷直之|熊谷直澄]](賜死) * [[瀬田正忠]](賜死) ; その他 * [[三好吉房]](改易・流罪) * [[六角義郷]](改易)<ref group="注釈">[[六角氏綱]]の子孫が[[六角氏]]の家督を継いだとする[[佐々木哲]]の異説に基づく。通説ではそもそも六角義郷が大名として所領を得ていたとは考えられていない。</ref> * [[木下吉隆]](改易・流罪) * [[里村紹巴]](蟄居) * [[浅野幸長]](流罪→のちに復帰) * [[増田盛次]](蟄居→のちに復帰) * [[前野忠康]](浪人) * [[滝川雄利]](叱責) * [[荒木元清]](追放) * [[菊亭晴季]](流罪) * [[土御門久脩]](流罪) * [[小田友治]](改易・逃走) * [[玄隆西堂]](殉死) * [[山本主殿]](殉死) * [[不破万作 (小姓)|不破万作]](殉死) * [[山田三十郎]](殉死) * [[雀部重政]](殉死) ; 難を逃れた主な人物 ;; 秀次の家臣・与力大名等 ::* [[田中吉政]] ::* [[中村一氏]] ::* [[山内一豊]] ;; その他の人物 ::* [[藤堂高虎]] ::* [[毛利輝元]](この事件の首謀者の一人と言われ、秀次から多額の借金をしていた)<ref name="戦国394"/> ::* [[堀尾吉晴]] ::* [[伊達政宗]] ::* [[最上義光]](秀次の側室となる予定だった娘の[[駒姫]]が事件に連座し処刑された) ::* [[細川忠興]] ::* [[浅野長政]](既に[[1593年]]に事実上失脚して、子の[[浅野幸長]]に家督を譲っていたため新たな処分はなし。のちに[[五奉行]]として復帰) :: 最上、細川、伊達らは[[徳川家康]]の取り成しで事なきを得た。 == 人物像 == [[ファイル:Yahatahachimanjo26.jpg|200px|thumb|八幡公園内に建つ豊臣秀次像]] *秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、[[小田原征伐]]での[[山中城]]攻め、[[奥州仕置]]などでは武功を上げ、政務においても[[山内一豊]]、[[堀尾吉晴]]らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、相応の力量はあり、文武両道の人物だった<ref name="asahi">[[二木謙一]](項目担当)『朝日日本歴史人物事典』[[朝日新聞出版]]。</ref>。 *秀次事件のとき、秀吉譜代の家臣である[[前野長康]]、さらには[[木村重茲]](しげこれ)、[[渡瀬繁詮]]など多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、『五宗記』によれば、石田三成も秀次を弁護している。また、家臣・小姓からは殉死者も出しており<ref name="戦国323"/>、他者から見放されたような人物ではなかったことが伺える。 *キリスト教[[宣教師]]たちは秀次を「この若者は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった<ref>完訳フロイス日本史4・第19章(第二部103章)「暴君が博多から大坂へ帰った後に生じたことについて」</ref>」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している([[ルイス・フロイス]]「日本史」など)この点からも巷説の「殺生関白」は実像だったか疑問が残る。 *秀吉と同じく男色を嫌っていた<ref>完訳フロイス日本史4・第19章(第二部103章)「暴君が博多から大坂へ帰った後に生じたことについて」</ref>。 *秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった<ref name="戦国321"/>。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。一方、在野の学者である[[藤原惺窩]]などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。ただし藤原惺窩の父・[[冷泉為純|細川為純]]は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。 *武術については、[[疋田景兼]]より[[剣術]]と[[槍術]]を学んだほか、[[長谷川宗喜]]や[[片山久安]]からも剣術を学んだとされ、[[切腹]]の際の[[介錯]]ができるだけの腕前があったという。[[刀剣]]の鑑定も行っていた形跡もある。このほか[[吉田重氏]]から[[日置流|日置流弓術]]を、[[荒木元清]]からは荒木流[[馬術]]も学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、[[サントリー美術館]]に所蔵されている([http://sma-collection.suntory.co.jp/ サントリー美術館コレクションデータベース]に画像と説明あり)。 *古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、[[奥州]]に赴いた秀次は[[中尊寺]]の[[大蔵経]]を収集し、これを持ち帰った。このほかに、[[足利学校]]や[[金沢文庫]]の書籍をも、持ち帰っている。また、収集した[[日本紀]]、[[日本後紀]]、[[続日本後紀]]、[[文徳実録]]、[[三代実録]]、[[類聚三代格]]、[[実了記]]、[[百練抄]]などを朝廷に献じている。 *[[太田牛一]]の『[[大かうさまくんきのうち]]』によると、秀次は[[正親町天皇]]の服喪中の6月8日に<ref>『[[甫庵太閤記]]』でも正親町天皇[[崩御]]と同年となっている。</ref>、殺生禁断の地である[[比叡山]]で鹿狩りをしたという<ref>『さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。(中略)六月八日、関白殿比叡山に女どもを召しつれられ、御あがりなされ、根本中堂院内に馬をつながせられ、鹿狩りを御張行。(中略)雨ふり、一日御とうりう、御帰りののち、~』 「戦国史料叢書1 太閤史料集」秀次暴虐の次第 の項より</ref>。しかし正親町天皇の崩御は文禄2(1592)年1月5日のことで、その喪中である同年の6月8日、秀次は大坂城・山里丸で[[山科言経]]の訪問を受けており([[言経卿記]])、上記の事件は事実ではない<ref>金子 拓「『信長記』と信長・秀吉の時代」</ref>。 *獲物を寺の中で調理したり<ref name="戦国321"/>、殺した鹿肉を僧侶の食用の塩や酢の中に投げ込んだ、鉄砲の稽古だと称して田畑で働く農夫を的にして撃ち殺す、盲人を捕まえて切り刻む、夜な夜な京の市街に出て手ごたえを確かめるように辻斬りを繰り返す<ref name="戦国322"/>、妊婦の腹を裂いて胎児を引き出す(『[[日本西教史]]』では宣教師が「惨害無情の一語につきた」と記している)などがある<ref name="戦国321"/>。これらのうち、宣教師の記録にも秀次の乱行は伝わっているため、いくらか行状に問題があったとは思われるが、これらの伝聞は典型的な暴君・愚君をさらに強調するものであり、どこまで真実かには疑問もある。 == 系譜 == ; 父母 * [[三好吉房]]:尾張国の土豪。 * [[日秀尼]]:秀吉の姉。 ; 兄弟 * [[豊臣秀勝]]:叔父・秀吉の養子となって[[羽柴秀勝]]の跡を継ぐ。 * [[豊臣秀保]]:叔父・[[豊臣秀長|秀長]]の養子となって跡を継ぐ。 ; 妻子<ref>戦国人名事典</ref> * 正室:[[池田恒興]]の娘・若御前(若政所) * 側室:[[菊亭晴季]]娘・[[一の台]](継室とも言われるが、若御前は存命していたため不明。) * 側室:[[日比野下野守]]の娘・於和子 ** 長男:[[豊臣仙千代丸|仙千代丸]] * 側室:[[山口重勝|山口少雲]]の娘・お辰の方 ** 次男:[[豊臣百丸|百丸]] * 側室:[[北野松梅院]]の娘・阿左古の方 ** 三男:[[豊臣十丸|十丸]] * 側室:[[竹中重定]](貞右衛門)の娘・お長の方 ** 四男:[[豊臣土丸|土丸]] * 側室:[[毫摂寺善助]]の娘・お亀の方(中納言局) ** 娘:露月院誓槿大童女(秀頼の許嫁) * 側室:[[淡輪隆重]]の娘([[淡輪重政]]の姪)・小督局 ** 娘:[[お菊]] * 側室:[[最上義光]]の娘・[[駒姫|お伊万の方]] * 側室:[[近江国]]出身・おきいの方 * 側室:[[伊丹兵庫頭]]の娘・おきくの方 * 側室:[[大島親崇|大島新左衛門]]の娘・お国の方 * 側室:[[和泉国]]丹和出身・おこごの方 * 側室:[[最上衆]]娘・おこちゃの方 * 側室:[[鯰江才助]]の娘・お古保の方 * 側室:[[武蔵長門守]]の娘・おさなの方 * 側室:元は捨て子・お竹の方 * 側室:[[四条隆昌]]の娘・おつまの方 * 側室:[[岡本美濃]]の娘・お虎の方 * 側室:[[坪内三右衛門]]の娘・おなあの方 * 側室:[[斉藤吉兵衛]]の娘・お牧の方 * 側室:[[三条顕実]]の娘・お宮の方(母は一の台) * 側室:[[堀田二郎左衛門]]・およめの方 * 不詳 ** [[豊臣甘丸|甘丸]] ** [[豊臣水丸|水丸]] ** 梅小路家室<ref group="注釈">真田信繁の側室となった妹・隆清院が、1615年[[大坂夏の陣]]の後、姉の嫁いだ公家の梅小路家に身を寄せたという。一般に知られる[[梅小路家]]は、祖の梅小路定矩が1619年生まれのため、年代的に合わない。当時梅小路に居を構えていた公家であると思われる。</ref> ** [[真田信繁]]の側室・隆清院 == 官職位階履歴 == ※日付=旧暦 * [[天正]]13年([[1585年]])10月、[[従四位|従四位下]]・[[近衛府|右近衛権少将]]に叙任。 * 天正14年([[1586年]])右近衛権中将に転任。11月25日、[[参議]]に補任。右近衛権中将如元。 * 天正15年([[1587年]])11月22日、[[従三位]]に昇叙し、[[中納言|権中納言]]に転任。新中納言と称される。その後、近江中納言あるいは、江州中納言とも称される。 * 天正16年([[1588年]])4月19日、[[従二位]]に昇叙。権中納言如元。この時期、[[清華家]]の家格に列す。 * 天正19年([[1591年]]) ** 2月11日、[[正二位]]に昇叙し、[[大納言|権大納言]]に転任。 ** 12月4日、[[内大臣]]に転任。 ** 12月28日、[[関白]]宣下。[[内覧]]宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。 * [[文禄]]元年([[1592年]])1月29日、[[左大臣]]に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。 * 文禄4年([[1595年]])7月8日、出家。 7月15日、没す。 == 秀次の特殊な偏諱 == 大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに[[偏諱]]を授けている。偏諱を受けたと思しき武将には[[田中吉次]]、[[織田長次 (長兵衛尉)|織田長次]]、[[増田盛次]]らがいる。秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。 == 墓所と供養 == [[画像:Hidetsugu.JPG|thumb|230px|[[瑞泉寺 (京都市)|慈舟山瑞泉寺]]境内にある秀次墓石]] ; 墓所 : 京都市の[[瑞泉寺 (京都市)|慈舟山瑞泉寺]]に豊臣秀次の五輪の塔と、処刑された者の墓がある。墓所は[[善正寺 (京都市)|妙慧山善正寺]]にある<ref group="注釈">秀次の首塚と母日秀の墓がある。</ref>。また秀次が切腹した高野山にも墓所がある。 ; 供養 : 豊臣秀次の命日の7月15日には、[[瑞龍寺 (近江八幡市)|村雲門跡瑞龍寺]]住職により、八幡山(滋賀県近江八幡市)で供養が行われる。 == 関連作品 == NHK大河ドラマ *[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] (1965年、演:[[田村正和]]) *[[春の坂道]] (1971年、演:[[伊藤孝雄]]) *[[黄金の日日]] (1978年、演:[[桜木健一]]) *[[おんな太閤記]] (1981年、演:[[宮沢公栄]]→[[井浦秀智]]→[[松本秀人]]→[[広岡瞬]]) *[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]] (1983年、演:[[氏家修]] ) *[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]] (1987年、演:[[陣内孝則]]) *[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]] (1996年、演:[[三国一夫]]) *[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]] (2002年、演:[[池内万作]]) *[[武蔵 MUSASHI]] (2003年、演:[[新晋一郎]]) *[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]] (2006年、演:[[成宮寛貴]]) *[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]] (2009年、演:[[眞島秀和]]) *[[江〜姫たちの戦国〜]] (2011年、演:[[北村有起哉]]) == 注釈 == {{reflist|group="注釈"}} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == ; 書籍 * 斎木一馬「関白秀次の謀反―独裁政権の陰翳として―」(『日本歴史』17号、1949年) * 宮本義己「豊臣政権の番医―秀次事件における番医の連座とその動向―」(『国史学』133号、1987年) * 宮本義己「豊臣政権における太閤と関白―豊臣秀次事件の真因をめぐって―」(『國學院雑誌』89巻11号、1988年) * 藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年) * 別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』 新人物往来社、2008年、ISBN 9784404036131。 * [[三鬼清一郎]] [http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/9812 「豊臣秀吉文書に関する基礎的研究」](『名古屋大学文学部研究論集史学』34号、1988年) * 『歴史群像No.51 信長の独断 豊臣秀次とピノキオ』学習研究社、2002年 * [[小和田哲男]]『豊臣秀次 -「殺生関白」の悲劇-』PHP新書197、2002年 * [[阿部一彦]]「近世初期軍記と『武功夜話』 ― 関白豊臣秀次事件をめぐって―」(『愛知淑徳大学論集―文学部・文学研究科篇―』33号、2008年) * [[泉秀樹]]『戦国なるほど人物事典』([[PHP研究所]]、[[2003年]]) ; 史料 == 関連項目 == {{Commons|Category:Toyotomi Hidetsugu}} * [[若江八人衆]](秀次の精鋭家臣団) * [[松花堂昭乗]](秀次の子息との説あり) * [[不破万作 (小姓)]] (秀次の小姓) * [[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い]] * [[九戸政実#九戸政実の乱]] * [[八所社・熊野社合殿#小松寺砦跡]] * [[三田城]] - 短期間城主となっていた {{歴代関白|1592 - 1595}} {{豊臣政権}} {{DEFAULTSORT:とよとみ ひてつく}} [[Category:豊臣氏|ひてつく]] [[Category:木下氏|ひてつく]] [[Category:三好氏]] [[Category:摂関]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:廃嫡された人物]] [[Category:能に関連する人物]] [[Category:刑死した人物]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:1568年生]] [[Category:1595年没]]
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