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{{Chinese| t=諡號/謚號| s=谥号| p=''shì hào''| kanji=諡号| hiragana=しごう| revhep=''shigō/tsuigō''| hangul=시호| hanja=諡號| rr=''siho''| qn=''thụy hiệu''| hantu=諡號 }}'''諡'''(し、おくりな)、あるいは'''諡号'''(しごう)は、主に帝王・[[相国]]などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。 ==概説== 国家が与える公の諡と、個人が付ける私諡に分けられるが、一般にいう諡は前者の方である。[[日本]]の[[仏教徒]]の[[戒名]]は[[受戒]]し仏弟子となり、世俗生活の俗名を離脱するためにつけるものであり、本来は生前に付け、時に[[追善]]のため臨終ないし死後につけたものであるが、「臨終ないし死後」に贈られることが一般化した結果、実質的な「忌み名」として用いられている。「[[忌み]]名」も私諡の一種であり、そこから諡一般のことを'''[[諱]]'''(いみな)と言う場合もあるが、諱とは本来は個人の通称である[[字]](あざな)に対する本名を意味し、本人に対する敬意として口に出すことを憚る名、のことで、本義は諡とは異なる。 諡号を奉るということについては、王権継承から着目し、即位を正統化する儀式であることに本来の意義がある。 立諡制度の起源は[[中国]]の[[周]]代中期([[紀元前9世紀]]頃)といわれ、[[天子]]のみならず、[[諸侯]]・[[卿]][[大夫]]・高官・[[儒教|名儒]]等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。 初期の諡号には褒貶の義はなかったようであるが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に成立した『[[逸周書]]・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。 諡字はおおむね、その意味をもって上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)に分けられる。「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」「章」「壮」「景」「宣」「明」「昭」「正」「敬」「恭」「荘」「粛」「穆」「烈」「桓」「威」「貞」「節」「靖」「真」「順」「顕」「和」「高」「光」「英」「睿」「憲」「孝」「忠」「恵」「徳」「仁」「智」「慎」「礼」「義」「敏」「信」「清」「良」「謙」「純」「哲」等、死者への褒揚が込められた字が名君賢臣に贈られた。これに対し、「野」「戻」「厲」「昏」「煬」「幽」「夷」等は悪諡として暴君奸臣に贈られることになっている<ref>[http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/45s3.html 諡字一覧](諡字注釈)</ref>。 立諡制度は、死後に子や臣下によって批判されることにあたり不敬であるという理由で、[[秦]]の[[始皇帝]]によって一時廃止されながらも、[[前漢]]以降中国の歴代王朝に踏襲され、日本には少なくとも[[天平宝字]]六年([[762年]])以前に、[[律令制|律令政治]]の成立と前後して輸入された。 なお、厳密には「諡」といえば、諡された字のみを指す。例えば、「順平侯」というのは「諡号」であり、「諡」という場合は「順平」を指す。 == 中国の諡号 == === 帝王(中国)の諡号 === 秦の始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価すべきではない。始皇帝、[[胡亥|二世皇帝]]、三世皇帝……万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」という意志を持ち、短時期ながら諡法を廃止した。しかし、前漢の皇帝たちはこれを復活させ、さらに2通りの帝王諡号を制定した。[[文帝]]・[[武帝]]・[[明帝]]・[[元帝]]などの帝号と、[[高祖]]・[[太宗]]・[[世宗]]・[[宣宗]]などの[[廟号]]があるわけである。一般に言うと、[[隋]]以前は帝号をもって帝王の尊称としたが、[[唐]][[宋 (王朝)|宋]]以後は多く廟号を用いるようになった。帝号もなくなったわけではないが、唐以降は[[太宗 (唐)|唐の太宗]]の「文武大聖大広孝皇帝」、[[真宗 (宋)|北宋の真宗]]の「應符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」のように長くなる傾向があり、呼びにくいので通常はあまり用いられなくなった(この影響から[[高麗]]や[[李氏朝鮮]]、[[ベトナム]]の歴代王朝などでも王号が長くなり、廟号で呼ぶようになっている)。 ほとんどの君主はこの両種類の諡を持っているが、例外として、[[廃帝]]や[[末帝]]には廟号が贈られなかった。廟号を得ることは、[[太廟]](皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味する。一つの王朝が滅亡すればその王統の祭祀をする者もいなくなるのであり、廟号自体に意味がなくなってしまうゆえである。 一族の祖、王朝の初代や再興を遂げた皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちで特に称揚される者には「某宗」の廟号が奉られた。例えば、[[前漢]]の高帝[[劉邦]]は初代皇帝なので廟号を「太祖」(太祖高皇帝の略で、『[[史記]]』以来「高祖」と一般に呼ばれる)、漢の再興を果たした[[後漢]]の[[光武帝]]は廟号を「世祖」とされ、それ以外の漢代の皇帝には「某宗」という廟号を贈られた者がいた。[[清]]の初代[[ヌルハチ]]は「太祖高皇帝」、初めて[[中原]]を支配した第3代[[順治帝]]は「世祖章皇帝」、その子で賢君の誉れ高かった[[康熙帝]]は「聖祖仁皇帝」とされ、一代三祖となっている。[[北魏]]ではさらに一代五祖となっている。ちなみに、日本でも「'''皇祖皇宗'''」という表現が用いられる([[教育勅語]]や[[玉音放送]]など)。 帝王の諡字選定の原則も、臣下のそれと同様であった。悪諡を贈られた著名な例が[[隋]]の[[煬帝]]であるが、唐宋以降はよほどの暴君でもない限り悪諡は避けられた。遊楽に耽って危うく国を傾けそうになった[[北宋]]の[[徽宗]](実際に亡国)、[[明]]の[[正徳帝|武宗]]なども美諡を得た所以である。その一方で、後継者の都合によって「暴君」もしくは不適格とされた君主は死後、諸侯王ないし諸侯扱い、さらには庶民に降格されたり(例:[[魏]]の[[曹髦|高貴郷公]]、[[斉 (南朝)|南斉]]の[[蕭宝巻|東昏侯]]、[[金 (王朝)|金]]の[[海陵王]]→廃帝海陵庶人、ほか)、在位そのものが否定される場合(前漢の[[少帝弘]]、唐の[[殤帝 (唐)|少帝重茂]]、明の[[建文帝]]ほか)があった。 ==== 后妃の諡号 ==== [[后妃]]たちに諡が見られるようになるのは漢代からであるが、この時代は[[皇后]]であっても諡のない女性も多い。気をつけるべきなのは、史書における后妃たちの表記では、姓や自身の諡の前に、必ず配偶者である皇帝の諡を冠していることである。 たとえば、前漢の[[武帝 (漢)|武帝]]が寵愛した李夫人は、『史記』において「孝武李夫人」と記される。この場合「孝武」とは武帝(孝武皇帝)のことであり、李夫人の諡ではない。訓ずる場合は「孝武帝の李夫人」と読む。一方、武帝の曾孫・[[宣帝 (漢)|宣帝]]の皇后である[[許平君]]は「孝宣共哀許皇后」と記される。この場合「孝宣」が夫帝の諡で「共哀」は皇后自身の諡となり、「孝宣帝の共哀許皇后」と訓ずる。 [[魏晋南北朝]]になると、皇后(贈号も含む)には特殊な場合を除いて全て諡され、一部の后たちにも諡されるようになるが、基本的な表記は同じである。例えば、魏の[[曹丕|文帝]]の[[文昭皇后甄氏|甄皇后]](贈号)は諡を「昭」というので『[[魏志]]』における表記は「文昭甄皇后」、また文帝の後妻・[[文徳皇后郭氏|郭皇后]]は諡が「徳」であるので「文徳郭皇后」と記する。「文」は文帝のことであり、皇后たちの諡ではない。「[[夏侯徽|景懐夏侯皇后]]」「[[羊徽瑜|景献羊皇后]]」とあれば、それは「景帝の配偶者」という意味で「景」と付くのであり、彼女たちの直接の諡ではないのである。 唐以降、皇帝の諡そのものが長くなると、后妃たちの諡も上記の法則を外れることになる。唐、宋代は2~4字であったが、明・清代には皇帝と同じく20字近い長さの諡が贈られた。どの時代も、皇后と皇妃では諡の文字数に差異があることが共通する。 === 爵諡 === 家臣などに対し、死後に生前より上位の[[爵位]]号を贈ることを爵諡という。たとえば[[関羽]]は死後、軍神([[関帝]])として祀られた際、後世の歴代の王朝から贈られている。死後40年後[[景耀]]3年(260年)[[蜀|蜀漢]]の[[劉禅]]から前将軍・壮繆侯を贈られ、以降、北宋の徽宗から[[崇寧]]に忠恵公、[[大観 (宋)|大観]]に武安王、[[宣和]]に義勇武安王、[[南宋]]の[[高宗 (宋)|高宗]]から[[建炎]]に壮繆義勇王、[[孝宗 (宋)|孝宗]]から[[淳熙]]に壮繆義勇英済王、[[元 (王朝)|元]]の[[トク・テムル]]から[[天暦 (元)|天暦]]に顕霊義勇武安英済王、[[明]]の[[成化帝]]から[[成化]]に壮繆義勇武安顕霊英済王といった具合である<ref>小島毅「国家祭祀における軍神の変質-太公望から関羽へ-『決定版「三国志」考証事典』別冊歴史読本 新人物往来社 1996年(平成8年) ISBN 4404024096</ref>。 ===周辺諸国への影響=== 中国の諡号は、[[朝鮮半島]]や[[ベトナム]]の歴代王朝、[[西夏]]や[[遼]]などでも使用され、歴代の王や皇帝やその家族、臣下などは中国風の諡号を付されている。後述のように漢字文化圏である日本にも大きな影響を与えたが、日本では中国風の諡号をそのまま使用する期間は短く、[[天皇]]に対して中国風の廟号を付けるようなこともされていない。 == 日本の諡号 == 日本の天皇の崩御後の称号には、諡号と追号の別があり、諡号は高貴な人や高徳の人の死後におくる美称であり、追号は宮号や陵名などを用いる。諡号として[[#和風諡号|国風諡号]]・[[漢風諡号]]の2種類がある。このうち、国風諡号は日本特有のもので、和風諡号・国語諡・本朝様諡等の別称がある。 諡号には「ヤマトネコ」「タラシヒコ」のように同じ称を持つものがある。例えば、7代[[孝霊天皇|孝霊]]、8代[[孝元天皇|孝元]]、9代[[開化天皇|開化]]の諸天皇は「ヤマトネコ」の称を、12代[[景行天皇|景行]]、13代[[成務天皇|成務]]、14代[[仲哀天皇|仲哀]]の諸天皇は「タラシヒコ」の称を共通に持っている。これらの称はずっと下って7世紀の初めに実在した天皇にも見られ、後世の称を遡って付けた可能性も指摘されている。つまり、実在しなかった天皇を造作したのではないかという疑問が提出されている。この外には「ワケ」「イリ」の称を共通に持っている天皇のグループがある。これらは同じ王朝を示す称であり、実在した天皇ではないかと推測されている。 [[奈良時代]]から[[平安時代|平安]]初期にかけて、[[天皇]](その称号自体が諡である)・后妃・[[皇太子]]の諡号には和風と漢風が併用され、例えば43代[[元明天皇]]は[[漢風諡号]]を元明天皇、和風諡号を「日本根子天津御代豊國成姫」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇といった。 現在は全ての天皇を、漢風諡号または追号を用いて「某天皇」と呼んでいるが、[[明治]]3年([[1870年]])以前は63代[[冷泉天皇]]から118代[[後桃園天皇]]まで(81代[[安徳天皇]]と96代[[後醍醐天皇]]を除く)は「某天皇」とは呼ばず、「某院」と称していた。 なお、ここに記す天皇の代数は、現在の[[皇統譜]]による。時代によって天皇の数え方が異なるため、典拠史料に第何代と書かれているものと異なる場合がある。(→[[天皇の一覧]]) === 和風諡号 === 和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代[[持統天皇]]以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=[[殯]](もがり)の一環として行われてきた。その殯の場では、先帝の血筋が正しく継承されたものであることやその正統性を称揚するとともに、併せて先帝に和風諡号を贈った。持統天皇から[[平安時代]]前期の54代[[仁明天皇]]まで追贈された(途中、当時は廃帝とされた47代[[淳仁天皇]]と唐風文化を愛した52代[[嵯峨天皇]]には和風諡号らしきものはない。46代[[孝謙天皇]]([[重祚]]して48代称徳天皇)は、「高野姫天皇」「倭根子天皇」と呼ばれた例はあるが、いずれも和風諡号ではない)。 初代[[神武天皇]]「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)から40代[[天武天皇]]「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきのまひと)までの名も、慣例的に和風諡号と呼んでいるが、必ずしも実際に諡号だったわけではない。特に15代[[応神天皇]]から26代[[継体天皇]]までの名は、22代[[清寧天皇]]を除き多くの研究者により諱(いみな=実名)と考えられている。したがって和風諡号の制度ができたのは、その後である(制度として確実なのは持統天皇が最初である。それより前、27代[[安閑天皇]]以降、29代[[欽明天皇]]の崩御時と考える説もある)。 ==== 和風諡号はいつから始まったか? ==== *「持統説」 - 確実に和風諡号だとわかるのは、『[[続日本紀]]』の[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])12月17日、持統天皇の火葬の際に「日本根子天之広野日女」と奉ったことが書かれており、これが史料上最初の記録である。よってそれ以前のものは本当に諡号なのかも知れないが、生前からの別名である可能性もある(和風諡号的な名前と他の皇子と同じような素朴な名前が伝わっている場合は、後者は実名と考えるのが自然であるが、前者は死後の諡号なのか生前からの別名(尊号)なのか判然としない)。 *「欽明説」 - 欽明天皇の「天国排開広庭」(あめくにおしはらきひろにわ)は、諡号のように見えること、また和風諡号を奉る「殯」(もがり)の儀式は欽明天皇崩御後に始まっていることから推定された説である。前2代の安閑・宣化両天皇も諡号のようにみえるので、あるいは安閑天皇崩御時かとも考えられるが、上宮聖徳法王帝説のような古い所伝に継体天皇の直後欽明天皇が即位したとあり、一時的に両王統が対立したとも考えられるので、欽明天皇崩御時にあらためて欽明天皇によって否定された安閑・宣化ともども諡号を追贈することによって、王権内の安定を期したとする。 === 漢風諡号 === ====漢風諡号制度の導入==== 漢風諡号の方は、中国とほぼ同様、生時の行いを評して、『逸周書・諡法解』などの定義によって選定された。諡を撰して奏上するのは[[明経道]]を学んだ明経博士や大外記などの[[儒家]]である。 ただし、日本では悪諡は適用せず、あえて評価を避けた諡号を贈った。例えば[[薬子の変]]の敗者である[[平城天皇]]の諡号は、[[平城京]]に愛着をもっていた事から贈られており、その行動に対する評価を含まない。 8世紀半ばに成立した『[[釈日本紀]]』に引用された「私記」に、「師説」として初代[[神武天皇|神武]]以下の諡号は[[淡海三船]]の撰とある。そのため、神武天皇から41代[[持統天皇]]まで(当時天皇に数えられていなかった大友皇子=39代[[弘文天皇]]を除く)、及び43代[[元明天皇|元明]]・44代[[元正天皇]]の諡号は、淡海三船によって[[天平宝字]]6年([[762年]])~同8年([[764年]])に一括撰進されたと想像されているが、[[天平勝宝]]3年(752年)の『懐風藻』には「[[文武天皇]]」(42代)と見えており、また天平宝字2年(758年)に「[[聖武天皇]]」(45代)に「勝宝感神聖武皇帝」、[[孝謙天皇]]<ref>重祚したとして48代としては称徳天皇となる。</ref>(46・48代)に「宝字称徳孝謙皇帝」を諡した事例があるなど、別の基準もあったことがわかっている。「弘文天皇」は天皇と認められた[[明治]]3年([[1870年]])の撰進である。 ====漢風諡号制度の衰微と廃絶==== 漢風の諡号(帝号)は平安期の[[光孝天皇]]まで続いたが、その後、[[律令制|律令政治]]の崩壊と共に途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から[[鎌倉時代|鎌倉]]初期における75代[[崇徳天皇|崇徳院]](讃岐院から改める)、81代[[安徳天皇]]、82代[[後鳥羽天皇|顕徳院]](隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代[[順徳天皇|順徳院]](佐渡院から改める)の4例を見るのみである(いずれも[[怨霊]]を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。なお、讃岐院、隠岐院、佐渡院はもちろん諡号ではない)。[[南朝 (日本)|南朝]]の96代[[後醍醐天皇]]にも[[北朝 (日本)|北朝]]の側から「元徳」という諡号を奉るという案があった(後述、[[#諡字による諡号の意味]]参照)。 ====諡号の復活と追諡==== [[江戸時代]]後期の[[光格天皇]]の時に漢風諡号が復活し、[[仁孝天皇]]、[[孝明天皇]]の3代を数えた。また[[明治時代]]には、'''淡路廃帝'''を47代[[淳仁天皇]]、'''九条廃帝'''を85代[[仲恭天皇]]とし、'''大友皇子'''を即位したものとして39代[[弘文天皇]]とし(→[[大友皇子即位説]])、さらに[[大正時代]]には、[[南朝 (日本)|南朝]]の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代[[長慶天皇]]とした。 === 追号 === 国風諡号・漢風諡号が帝王に奉られなくなった後、代わって死後の称号として主流となった'''追号'''(ついごう)も、諡の一形態に属するが、厳密に言って正式な諡号ではない。追号には褒貶の義はなく、単なる通称の域を出ない。追号の命名法は、大別すると、地名、[[皇居]]の宮名、[[後院]](譲位後の御在所)の名もしくは[[出家]]した[[寺]]の庵号をもって呼ばれる場合、[[山陵]]の名を宛てる場合、加後号といって「後」某院と称する場合、先代の2つの漢風諡号から1字ずつを取って追号とする場合とがある。 更に漢風諡号が奉られなくなって以後も、追号に天皇号を用いる慣例はしばらく続いてきたが、[[冷泉天皇|冷泉院]](正確には先に没した[[円融天皇|円融院]]が初例となる)以後は、没後の天皇の追号は[[院号]]とされた。これは特に諡号が贈られた[[安徳天皇]]を例外として院号が贈られ続けた。なお、『[[神皇正統記]]』によれば、[[後醍醐天皇]]は[[南朝 (日本)|南朝]]によって天皇号を贈られたとされているが、[[北朝 (日本)|北朝]]の系統である明治以前の朝廷がこれを認めずに「後醍醐院」と称したことは、江戸時代の『[[雲上明鑑]]』『[[雲上明覧]]』の歴代天皇欄より知ることが出来る<ref>『[[帝室制度史]]』第6巻P728・766-767。</ref>。もっとも、「院号」は天皇以外の者でも没後に用いることが出来る称号であるため、[[江戸時代]]後期には[[中井竹山]](『[[草茅危言]]』)や[[徳川斉昭]]によって批判され、諡号復活論へと導かれることとなる<ref>藤田覚「天皇号の再興」(『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第八章)</ref>。 また、遺詔によって自ら決める追号を遺諡と言い、[[大治 (日本)|大治]]4年([[1129年]])7月の[[白河天皇|白河院]]を初めとして、著名な例だけでも[[後嵯峨天皇|後嵯峨院]]・[[後醍醐天皇]]・[[後小松天皇|後小松院]]・[[後水尾天皇|後水尾院]]などの諸帝がいる。私的性質が強い追号は帝王のみならず公武の臣下にも多く、邸宅の号や縁の地をもって「某殿」と称するのは帝王の場合と同趣である。 諡号献呈は時代がはるかに下った[[江戸時代|江戸]]後期に、119代[[光格天皇]]によって復活し、この時に「天皇号」も復活した。以後、[[仁孝天皇]]・[[孝明天皇]]の2代を経て、[[明治天皇|明治]]の[[一世一元の制|一世一元]]と共に[[元号]]を以って帝号(追号)とするように定められた。また、[[大正]]14年([[1925年]])には追号における院号を全て廃止して「天皇号」に統一した。 === 后・妃の諡号 === これに対して后妃の諡号は、[[上代]]末頃にはすでに見られなくなり、代わって生前から使われる[[女院]]号が盛んに宣下された。[[明治時代]]に至り、女院号の廃止を承けて后妃にも諡号が奉られるようになる。以来、孝明天皇の[[女御]]「[[英照皇太后]]」、[[明治天皇]]の[[皇后]]「[[昭憲皇太后]]」、[[大正天皇]]の皇后「[[貞明皇后]]」、[[昭和天皇]]の皇后「[[香淳皇后]]」の4人が追諡を受けている。 なお追諡における「皇太后号」「皇后号」については記事「昭憲皇太后」の「[[昭憲皇太后#追号について|追号について]]」の項目も参照されたい。 === 臣下の諡 === 臣下に賜る諡としては、[[右大臣]]在任中に没した[[藤原不比等]](文忠公・淡海公)が嚆矢であるが、後の世には[[摂関]]・[[太政大臣]]を務めて在俗のまま没した者に限って漢風諡号と国公が贈られ、[[貞観 (日本)|貞観]]14年([[872年]])9月4日の[[藤原良房]](忠仁公・美濃公)、[[藤原忠平]](貞信公)をはじめ、[[摂関期]]に9例を数えた。 {| class="wikitable" style="background-color: #fff; width:50%; " |- !氏名 !漢風諡号 !国公(国名、国の遠近・等級) |- |[[藤原不比等]]||文忠公||淡海公([[近江国]]、近国・大国) |- |[[藤原良房]]||忠仁公||美濃公([[美濃国]]、近国・上国) |- |[[藤原基経]]||昭宣公||越前公([[越前国]]、中国・大国) |- |[[藤原忠平]]||貞信公||信濃公([[信濃国]]、中国・上国) |- |[[藤原実頼]]||清慎公||尾張公([[尾張国]]、近国・上国) |- |[[藤原伊尹]]||謙徳公||三河公([[三河国]]、近国・上国) |- |[[藤原兼通]]||忠義公||遠江公([[遠江国]]、中国・上国) |- |[[藤原頼忠]]||廉義公||駿河公([[駿河国]]、中国・上国) |- |[[藤原為光]]||桓徳公||相模公([[相模国]]、遠国・上国) |- |[[藤原公季]]||仁義公||甲斐公([[甲斐国]]、中国・上国) |- |} また[[江戸時代]]には[[朱子学]]などの影響で武家、特に[[大名]]の間でも諡を贈る習慣が生まれた。[[水戸藩]]では歴代藩主に漢風の諡号が贈られており、[[徳川光圀]]に贈った「義公」、[[徳川斉昭]]に贈った「烈公」などが有名である。 === 僧侶の諡 === [[僧]]に関しては、[[清和天皇]]の貞観8年([[866年]])7月、[[最澄]]に伝教、[[円仁]]に慈覚の[[大師 (僧) |大師]]号が初めて贈られ、後には[[国師]]号、菩薩号なども諡として併せて贈られている。 === 諡字による諡号の意味 === 日本の諡号に用いられた諡字について、次のような説がある。 *「徳」‐殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られた美称である([[井沢元彦]]の説 - [[逆説の日本史]]より)。 **元々は[[懿徳天皇]]や[[仁徳天皇]]のように、本当に徳のある(と考えられた)天皇に贈られた。 **[[飛鳥時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて、[[天智天皇|皇太子]]に実権を握られ都に置き去りにされ崩御した36代[[孝徳天皇|孝徳]]、[[藤原良房]]と対立したために内裏に住むことができなかった55代[[文徳天皇|文徳]]、流刑先で崩御した75代[[崇徳天皇|崇徳]]、82代[[後鳥羽天皇|顕徳]](後に後鳥羽と改めた)、84代[[順徳天皇|順徳]]、[[平家]]滅亡の際に入水した81代[[安徳天皇|安徳]]が該当する。また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。なお井沢説によると、徳の諡字が怨霊封じとして贈られた最初の例は(天皇ではないが)[[聖徳太子]]とされる。 **ただし怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり、「顕徳」の諡号を贈った天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「[[後鳥羽天皇|後鳥羽]]」の諡号を贈り直す事となり、怨霊封じとしての徳の字の使用は終焉した。 **[[南朝 (日本)|南朝]]の96代[[後醍醐天皇]]には、当時対立していた[[北朝 (日本)|北朝]]から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある(実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された)。 **「四徳」や「元徳」は、追号が続いていた時代に諡号を贈られたこと自体が、異例のことである。 *「光」‐傍系から出て皇位を継承した場合、中国の[[後漢]]の[[光武帝]]になぞらえて、「光」の字を贈ることがある。 **49代[[光仁天皇|光仁]]、58代[[光孝天皇|光孝]]、119代[[光格天皇|光格]]の3人の天皇は、いずれも先代から見て傍系の出身である。ちなみに、光孝天皇の次の[[宇多天皇]]から、光格天皇の前の[[後桃園天皇]]まで、上記の「四徳」や、[[明治維新]]後に追諡された天皇を除いて、諡号を贈られた天皇はいない。 **[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[北朝 (日本)|北朝]]の天皇は、自身の正統性を主張するためか、[[後円融天皇]]を除き、遺諡によって「光」の字を含んだ追号を持つ。後円融天皇も、[[平安時代]]に対立した2つの皇統のうち後世に皇位を伝えた方の初代である[[円融天皇]]の加後号を遺諡としている。また、南北朝合一時の100代[[後小松天皇]]も、[[光孝天皇]]の異称「小松天皇」の加後号を遺諡としている。 **101代[[称光天皇]]は、[[奈良時代]]に[[天武天皇]]系の[[孝謙天皇|称徳天皇]]から[[天智天皇]]系の[[光仁天皇]]へ皇統が移行したことを踏まえて、両者から1字ずつ取った追号である。[[後光厳天皇]]系の称光天皇の次は、[[崇光天皇]]系の[[後花園天皇]]が即位し、皇統が移行している。 *「天智」「天武」の諡号には、[[放伐]]の意図が込められている(井沢元彦の説 - 逆説の日本史) **天智天皇の諡号は、[[帝辛|殷の紂王]]が焼身自殺した際に携えていた[[宝石]]:「天智玉」に由来する。一方で天武天皇の諡号は[[武王 (周)|周の武王]]を意識したものである。これは天武天皇が自らの行為を放伐と認識していた事を意味する。 == 朝鮮の諡号 == [[朝鮮半島]]で諡の制度の実施された記録は『[[三国史記]]』に[[新羅]][[法興王]]1年(514年)に先王の諡号で[[智証麻立干|智証]]を贈諡したというのが最初である。しかし、その前の時代の[[高句麗]]や[[百済]]の王の称号が[[諱]]と違うことで推測するとこれらを諡号ではないかという見解もある。 [[李氏朝鮮]]に至っては諡号を国王と王后、王の[[宗親]]、正二品以上の官吏と功臣に与えられる慣例が定着されたし、徐々にその対象が拡がる傾向を見せた。また、朝鮮王は中国から諡号を下賜されていた<ref name="chosunon20070916"/>。 ===君主の諡=== [[新羅#中代|三国統一]]の以前には各々の国で独自の制度にしたがって諡号を追贈したように見えるが、新羅による三国統一の以後、[[唐]]の影響を受けて諡の制度も中国の諡法に従うようになった。以後、[[高麗]]・朝鮮の王は皆漢風諡号を持つようになっている。ただ、高麗・朝鮮の王は[[廟号]]を使った通り名を主に用い、諡号についてはあまり言及されていない。 [[李氏朝鮮]]に至って制度が整備され、君主、または后妃が死ぬと臨時機関であった[[諡号都監]]を設置して諡号を追贈するようにした。また朝鮮は、[[明]]や[[清]]の属国であった関係で、君主が死ぬと中国の皇帝から二字の諡号が追封されて、これに朝鮮の独自の諡号も追贈した。例えば、朝鮮の第九代目の王、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の尊号は「成宗康靖仁文憲武欽聖恭孝大王」であるが、この中、「成宗」は廟号、「康靖」は明から追封された諡号、「仁文憲武欽聖恭孝」は朝鮮で追贈した諡号である。なお、[[丙子胡乱]]で清の冊封を受けるようになった以後では清から諡号を受けた。これらの諡号は「忠」や「順」といった君主より臣下に使用される文字が使用されており、清が朝鮮王を臣下として処遇した現われであった。一方、朝鮮では、外交文書などを除きほとんど使わず、国内ではその存在を隠していた<ref name="chosunon20070916">[http://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち] 朝鮮日報 2007/09/16</ref>。表向きは恭順の姿勢を装った朝鮮人の意識の中には、清に対する反発が拭い難く根付いており、朝鮮王朝は、贈られた諡号を公式的に使用しなくなるほどの、ほとんど完全な政治的自主権を保持していた<ref name="chosunon20070916"/>。 ===后妃の諡=== 百済と高句麗の王妃に対する諡号は、現在、伝えていない。新羅の場合、[[武烈王]]以前の時期の王妃を称する時に○○婦人と○○王后の称号を混用して使っているし、称号も漢風ではなく独自の者に比べて、武烈王の王妃であった文明王后以後では君主の諡号と同じく漢風諡号を使うのが一般的になった。以後、高麗と朝鮮時代にも、王后の死後諡号を追贈する礼法がつながった。 ===臣下の諡=== 高麗以前に対しては確かではない。高麗以後には功のある臣下に贈諡することが一般的になり、『[[周礼]]』と『[[史記]]』の諡法にしたがった。例えば[[高麗]][[太祖 (高麗王)|太祖]]の将軍であった[[申崇謙]]には壮節公、[[遼]]の侵入を沮止した[[姜邯賛]]には仁憲公の諡号が与えた。 李氏朝鮮にいたって、諡法が整備されながら王族以外の者の諡号を追封は[[奉常寺]]が主観するようにした。初期には正二品以上の官吏と功臣の冊封を受けた者に限ったが、以後その対象が拡がる傾向を見せた。臣下に対する贈諡は概して次のような手続きを経た。まず、諡号を受ける人の死後、子孫や弟子等が在世の行実を記録した[[行状]]を作成してそれを[[曹#李氏朝鮮における六曹|礼曹]]に提出すると、礼曹でそれを検討して奉常寺に移管する。奉常寺ではそれを根底で三種の候補を決めて諡状を作成、これを[[議政府]]の署経を経て王に諡号望単子を作成してあげると王が諡号を選び、これを諡号受点と言った。以後また諫官の検討を経て確定されて、公式的な追封が行われた。 == 注釈 == <references /> == 関連項目 == {{wiktionary}} * [[中国帝王一覧]] * [[天皇の一覧]]、[[日本の皇后一覧]] * [[朝鮮の君主一覧]]([[朝鮮国王の廟号と諡号の一覧]]、[[高麗王]])、[[高麗王后]] * [[ベトナム帝王一覧]] * [[同諡号廟号一覧]] * [[森鴎外]](「帝諡考」を著わした天皇諡号研究の第一人者) == 外部リンク == * [http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html 諡法解](歴史研究者による解説や参考文献などの一覧) *[[筧敏生]][http://ci.nii.ac.jp/naid/110000295617 「藤原仲麻呂政権期の尊号について」]名古屋大学文学部研究論集 史学 42、243-254p 1996年 {{デフォルトソート:おくりな}} [[Category:諡号|*]] [[Category:栄誉称号]] [[Category:中国の制度史|し]] [[Category:人名]] [[Category:東アジア史]]
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