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見沢知廉
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'''見沢 知廉'''(みさわ ちれん、[[1959年]][[8月23日]] - [[2005年]][[9月7日]])は、[[日本]]の[[男性]][[新右翼]]活動家、[[作家]]。元[[一水会]]相談役。元[[統一戦線義勇軍]]総裁。本名は'''高橋 哲夫'''(のち服役中、家裁で公式に哲央と改名<ref>見沢知廉『獄の息子は発狂寸前』p.102(ザ・マサダ、1997年)</ref>)。 旧姓、平井。[[東京都]][[文京区]]生まれ。 == 経歴 == [[1959年]]、[[東京都]][[文京区]][[千駄木]]に2人兄弟の長男として生まれる。父は芸能プロダクション経営者。母はもともと[[宝塚]]志望だったが厳格な父親に禁じられて断念。このため、母は息子に自らの夢を託し、幼い哲夫を[[劇団ひまわり]]や[[劇団若草]]などの児童劇団に通わせた<ref>見沢知廉『獄の息子は発狂寸前』p.24(ザ・マサダ、1997年)</ref>。小学生の時は表向きおとなしい優等生で、[[日本進学教室]]や[[四谷大塚]]に通って受験勉強に励んでいたが、その反面、[[ヒトラー]]の『[[わが闘争]]』や[[ドストエフスキー]]の『[[罪と罰]]』を耽読し、自分は[[天才]]である、故に何をしても許されると考える側面もあった<ref name="suzuki">[[鈴木邦男]]『続・夕刻のコペルニクス』p.167-168([[扶桑社]]、[[1998年]])</ref>。さらに[[ヘビ|大蛇]]や[[ワニ]]を飼い、生きた[[ネズミ]]を食わせ、その有様を眺めて楽しんだ他、[[ウサギ]]や[[イヌ]]や[[ネコ]]を殺す[[動物虐待|動物虐待者]]の顔を持ち、「猫殺し哲」と呼ばれ、また妄想・虚言癖ゆえに「嘘つき哲」とも呼ばれた<ref name="suzuki"></ref>。 母方の祖父に倣って将来は[[早稲田大学]]に入れたいとの母の希望により、[[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学校]]に[[入学]]。中学時代、父の経営する会社が[[倒産]]して一家離散し、両親が離婚して母に引き取られ、平井姓から高橋姓となる。中学3年の時[[右翼]]組織の活動を手伝うようになるが、失望。反体制の思想が芽生え始める。 中学3年時から[[ヤクザ]]を親にもつ級友の影響でグレはじめる。その後付属の[[早稲田高等学校]]に進学後は[[ヤンキー]]となり、[[カツアゲ]]、[[万引き]]、[[シンナー]]吸引など[[非行]]行為に走る。非行に走った理由は、両親の不和問題や高校の[[管理教育]]に対する反抗とされる。[[暴走族]]でも活動し、[[ブラックエンペラー]]白山支部、千駄木極悪、ZERO根津の集会に参加していた<ref>『アウトロー伝説』ワニマガジン社</ref>。高校2年時、学校には行かず、本ばかりを読む中で、ドストエフスキーと出会い将来、小説を書こうと決意する<ref>『アウトロー伝説』ワニマガジン社</ref>。 高校2年時の学期末試験中にテスト用紙を破り、教壇で試験批判の[[扇動者|アジテート]]をして試験をボイコットする。直後、屋上で『昭和維新の歌』を歌っていたところ、同級生の[[新左翼]]活動家に「決起したな。これでお前も左翼だ。こわっぱ教師なんか相手にするんじゃなく、国家権力と闘おう。」と[[オルグ]]され、[[共産主義者同盟戦旗派]]に加盟する。1978年の[[三里塚闘争]]での成田空港占拠闘争に参加した。しかし1979年には戦旗派を離れる。理由は、「左翼では民衆の心はつかめない。だから右翼に行く」というもの。これは[[三島由紀夫]]の[[自決]]について、戦旗派の上級メンバーが「[[茶番]]」と決めつけたことに対して「人が命がけでやったことを茶番とは何だ。こいつらは人の心が分からない」と左翼に絶望したためだった<ref>『エロか?革命か?それが問題だ』深笛義也</ref>。 早稲田高校は[[退学]]処分となり、[[定時制]]高校に第4年次[[編入学]]して[[卒業]]。[[中央大学]][[法学部]]二部[[除籍]]中退。 [[1980年]]、[[三島事件]]([[1970年]])に感銘を受けた事を機に、[[右翼]]学生団体・[[日本学生同盟]]に加入。[[左翼]]から[[右翼]]に再び転向したが、[[連合赤軍]]には共鳴していたという。 [[1982年]]、新右翼の[[一水会]]-[[統一戦線義勇軍]]書記長に就任。組織名「清水浩司」として、[[IBM|日本IBM]]、[[イギリス|英国]][[大使館]]等への火炎ゲリラ活動を行う。同年秋、[[スパイ粛清事件]](「[[スパイ]]」とは「組織に潜入している[[公安]]当局のスパイ」を指す)を起こし、[[逮捕]]。[[殺人罪]]ならびに[[火炎びんの使用等の処罰に関する法律]]違反で[[懲役]]12年の判決を受け、[[川越少年刑務所]]-[[千葉刑務所]]-[[八王子医療刑務所]]-[[千葉刑務所]]で[[1994年]]12月まで服役。刑務所生活では、千葉刑務所の[[懲罰房]]がもっとも長く、3000日(8年近く)の間服役していた。この懲罰房で執筆活動を行う。千葉刑務所で、[[狭山事件]]で無期懲役となった受刑者や[[新宿西口バス放火事件]]で無期懲役となった受刑者や[[あさま山荘事件]]で無期懲役となった[[吉野雅邦]]などの囚人に出会っている。 釈放後の[[1995年]]に、獄中で執筆した『天皇ごっこ』を発表。第25回[[新日本文学賞]]の佳作に選ばれる。[[1996年]]、獄中手記『囚人狂時代』を発表し、8万5千部を売り上げる。当時は月収100万円に達したこともあるが、[[税金]]の支払が翌年に発生するということも知らず、全額使いきってしまっていたという<ref name="tukuru">[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111018-00000304-tsukuru-peo 狂気と隣り合せの作家 見沢知廉を描いた映画3/3 創 10月18日(火)20時15分配信]</ref>。[[1997年]]、『母と子の囚人狂時代』、『獄の息子は発狂寸前』などを発表。同時期に『調律の帝国』で[[三島由紀夫賞]]候補に選ばれたが落選。このとき見沢自身は受賞を確信し、受賞[[パーティ]]の会場の[[ホテル]]まで予約していた<ref name="tukuru"></ref>。以降は[[講演会]]等を中心に活動していた。 講演活動以外にも、その後[[慶應義塾大学]]文学部通信教育課程に入学し、[[学生]]として勉学し直していたが心身の不調に悩み、[[1998年]]には[[立教大学]]で講演中に[[脳梗塞]]で倒れ、[[救急車]]で搬送された。[[抗鬱剤]]を濫用し、乱脈な生活を送ったために原稿の締切を守れなくなり、招かれたイベントには無断欠席を繰り返し、仕事が減少。諸方に不義理を重ねたことへの自責の念から[[2004年]]には事務所で自殺を図って小指を2本切断し、血まみれの姿を母に発見されたこともある。この時はチーズナイフで少しずつ切断して行ったため出血が多く、「発見があと5分遅かったら危なかった」と医師に言われている<ref name="tukuru"></ref>。 2005年9月7日、横浜市戸塚区の自宅マンション、ドリームハイツ8階から飛び降り転落死。享年46歳。自殺の動機については、経済的に困窮していた事などが言われている。公式ホームページでは自身が[[カンパ]]を求めていた。 == エピソード == * [[奥崎謙三]]は『獄の息子は発狂寸前』を獄中で読んで見沢の実母の心根に感激。「日本女性の鑑だ」と惚れ込んだ奥崎は、「この女性と結婚しろ」との神の啓示を受けたと称し、出所直後に結婚を願い出た。奥崎はすっかりその気になっていたが、見沢母子に逃げ出されて破談になり、「縁はその時一度限りだ。それなのに途中で帰るなんて許さん。クソババアめ!」と激怒し、卒倒した<ref>[[鈴木邦男]]『続・夕刻のコペルニクス』p.149-151([[扶桑社]]、[[1998年]])</ref>。 * [[菊池桃子]]と並び[[伊藤蘭]]を「永遠のアイドル」と崇拝し、成田の管制塔襲撃事件に際しても『[[微笑がえし]]』を心の歌としていた。千葉刑務所でも伊藤蘭への崇拝ぶりはつとに有名であり、伊藤蘭の結婚に際しては「ハハハ、残念だったな。ま、気ィ落とすなよ、ハハハハ」と区長や係長が慰めに来たほどであった<ref>見沢知廉『獄の息子は発狂寸前』p.93(ザ・マサダ、1997年)</ref>。 * 見沢の自書「母と息子の囚人狂時代」によると、見沢は獄中で小説を書くことを禁じられていたという。そのため小説の原稿は獄外の母宛の手紙という形式で書かれた。その手紙はA4用紙一枚に3000字以上に渡る長文が記されていたという。また、見沢はかなりの悪筆であった。見沢の母は手紙の一言一句を原稿用紙にまとめて出版社に送付した。『天皇ごっこ』は母との創作だったともいえる。 * 統一戦線義勇軍や一水会の機関誌に寄稿した政治論文をまとめ、右翼運動の理論書「民族派暴力革命論」という文章を作成した。 == 批判 == * 見沢自身は終生、殺人事件については「[[政治犯]]だった」と主張していた。更に講演会等で「僕も人を殺しましたが…」と冗談めかして話すなどした為、「殺人行為についての反省が無いのではないか」との批判を呼んだ事があった。[[鈴木邦男]]によると、見沢は「馬鹿な共犯者がいたから捕まった。一人なら完全犯罪だったのに」<ref>[[鈴木邦男]]『続・夕刻のコペルニクス』p.168([[扶桑社]]、[[1998年]])</ref>と後悔し、「スパイを殺したのは当然。正当防衛だ」<ref>[[鈴木邦男]]『続・夕刻のコペルニクス』p.171([[扶桑社]]、[[1998年]])</ref>と居直っていたという。見沢自身も、スパイ粛清事件については夢に見たこともなく、魘されたこともないと発言している<ref name="tukuru"></ref>。ただし見沢は晩年の日記で「我々も殴って追放ぐらいにかんがえていたのが、運の悪さや勢いで仕方なくそうなった」、共犯と共に「被害者の遺族のところまで行き、「涙のテロル」をわびている」「真剣で悲劇的で、文学で総括せねばと思っている事件」とも弁解している<ref>[http://web.archive.org/web/20080110020051/misawa.prof.shinobi.jp/Latest misawa - 自己主張 2005年6月16日]</ref>。スパイ粛清事件の総括を意図して書き始めたのが『蒼白の馬上』だが、心の傷から文章による事件の再現に苦しみ、「途中で足と尾骨骨折に靭帯切り全治三ヵ月など、何度も死にかけ、結局、粛清事件の寸前で逃げた」<ref>見沢知廉『テロならできるぜ 銭湯は怖いよの子供達』p.220(同朋舎、2001年)</ref>という。 == 著書 == * 天皇ごっこ 第三書館、1995 のち新潮文庫 * 囚人狂時代 ザ・マサダ、1996 のち新潮文庫 * 獄の息子は発狂寸前 ザ・マサダ、1997 「母と息子の囚人狂時代」新潮文庫 * 調律の帝国 新潮社、1997 のち文庫 * 日本を撃て メディアワークス・角川書店、2000 * テロならできるぜ銭湯は怖いよの子供達 同朋舎・角川書店、2001 * 極悪シリーズ 雷韻出版、2001 * 蒼白の馬上 青林堂、2001 * 七号病室 作品社、2005 * ライト・イズ・ライト―Dreaming 80’s 作品社、2005 * 愛情省 作品社、2006 *背徳の方程式 MとSの磁力 見沢知廉獄中作品集 アルファベータ 2011.8 == 関連項目 == === 人物 === * [[安部譲二]] * [[雨宮処凛]] * [[荒木経惟]] * [[切通理作]] * [[深笛義也]] * [[鈴木邦男]] * [[塩見孝也]] * [[高木尋士]] * [[田中義三]] * [[野村秋介]] * [[PANTA]] * [[福田和也]] * [[町田康]] * [[宮台真司]] * [[安土茂]] * [[平田竜二]] == 外部リンク == * [http://web.archive.org/web/20050211095525/www.cam.hi-ho.ne.jp/misawa/ 見沢知廉 公式サイト] - キャッシュ(2005年2月) * [http://engeki.ne.jp/saisei/ オフィス再生] - 追悼公演サイト == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:みさわ ちれん}} [[Category:日本の政治運動家]] [[Category:日本の右翼活動家]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:自殺した人物]] [[Category:日本の殺人犯]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:2005年没]] {{Writer-stub}}
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