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'''衣通姫'''(そとおりひめ、そとおし-)は、[[記紀]]にて伝承される女性。'''衣通郎姫'''(そとおしのいらつめ)・'''衣通郎女'''・'''衣通王'''とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。 [[Image:ChinunoMiyaAto.jpg|right|200px|thumb|茅渟宮跡(大阪府泉佐野市)]] 記紀の間で衣通姫の設定が異なる。 『[[古事記]]』には、[[允恭天皇]]皇女の[[軽大娘皇女|軽大郎女]](かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である[[木梨軽皇子|軽太子]](かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、[[伊予国|伊予]]へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する([[衣通姫伝説]])。 『[[日本書紀]]』においては、允恭天皇の皇后[[忍坂大中姫]]の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。[[近江国|近江]]坂田から迎えられ入内し、藤原宮([[奈良県]][[橿原市]])に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、[[大阪府]][[泉佐野市]])へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。 紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では[[和歌山県]][[和歌山市]]にある[[玉津島神社]]に[[稚日女尊]]、[[神功皇后]]と共に合祀されている。 {{デフォルトソート:そとおりひめ}} [[Category:古墳時代以前の女性皇族]] [[Category:日本神話の人物]] [[Category:日本の神 (人物神 歌人)]]
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