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衛星国
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'''衛星国'''(えいせいこく, {{lang-en|Satellite state}})は、主権国家として独立しているが、主要政策で大国により主権を制限され、常に追随する行動を取る国家に対する批判的な呼称。[[第一次世界大戦]]頃から相手の陣営に参加した国に対して用いられるようになった。 <!--[[ソビエト連邦]]に従属する[[モンゴル人民共和国]]の地位を形容するために[http://en.wikipedia.org/wiki/Owen_Lattimore オウエン・ラティモア](Owen Lattimore)が使用し始めた用語--> == 衛星国の使用例 == [[フランス革命期の衛星共和国]]も衛星国と呼ばれる<ref>[[倉田稔]][http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/603/1/ER_50(1)_1-23.pdf オーズトリア・ハプスブルク帝国の非啓蒙的絶対主義の経済政策]</ref>。1944年5月24日の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]演説には[[枢軸国]]陣営を指した「敵国及ソノ衛星国」<ref>外務省政務局「世界情勢ノ動向/第2巻第18報~第51報」([[アジア歴史資料センター]]、ref.B02130491300)</ref>という表現がみられる。 ==ソビエト連邦の衛星国== 日本を含めた[[西側諸国]]では[[ワルシャワ条約機構]]に加盟する[[東側諸国|東欧諸国]]など、ソ連を盟主とする軍事同盟に加盟し、ソ連の[[ブレジネフ・ドクトリン]]により主権を制限された諸国について、マスコミや政治学の用語として使用されるようになった。これらの国には東アジアにおける[[モンゴル人民共和国]]、東欧における[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)、[[チェコスロバキア社会主義共和国]]、[[ハンガリー人民共和国]]、[[ポーランド人民共和国]]、[[ブルガリア人民共和国]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]、[[ルーマニア社会主義共和国|ルーマニア人民共和国]]、[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア人民共和国]]などが該当する。 ===モンゴル人民共和国=== {{Main|モンゴル人民共和国}} [[モンゴル国|モンゴル]]では、[[辛亥革命]]により[[清|清国]]が滅亡すると、清国の統治機構を一掃して独立を宣言、その後、帝政ロシアの経済的・軍事的支援のもと、[[化身ラマ]](活仏)[[ジェプツンタンパ8世]]を君主とする「中国の[[宗主権]]下の自治国」という地位を獲得した。[[ロシア革命]]による混乱でロシアからの支援が途切れると、1919年、中国はモンゴルを軍事制圧して「自治の返上」を強要することに成功した。モンゴルの独立運動家たちは[[モンゴル人民革命党]]を組織し、[[極東共和国]]経由でソビエト共産党と接触、その支援を受けて中国の軍隊と統治機関を一掃し、1922年、ジェプツンタンパ8世(ボグド・ハーン)を元首とする立憲君主体制を樹立、1924年、ジェプツンタンパ8世の死去にともない共和制へ移行、[[モンゴル人民共和国]]が成立した。 ===東欧の衛星国=== [[ファイル:Eastern bloc.png|thumb|280px|第二次世界大戦後共産主義化によるソ連の衛星国となった東欧諸国。図の赤い部分が該当する。]] [[第二次世界大戦]]末期において[[イギリス首相]][[ウィンストン・チャーチル]]とソ連の指導者[[ヨシフ・スターリン]]の間で会談があり、ヨーロッパにおける[[西欧|西側]]と[[東ヨーロッパ|東側]]の勢力範囲が決定され、上記8カ国はソ連の勢力圏と決められた。 ただしこれらの国々を一概に「衛星国」とは言えない向きもあり個々の事例については以下に記す。 ====ドイツ民主共和国==== {{Main|ドイツ民主共和国}} 東ドイツは戦後ソ連の占領を受けたが、[[ベルリンの壁]]が構築されるまで、断続的に反ソ的な暴動が頻発していた。ソ連の影響下において安定するのは[[エーリッヒ・ホーネッカー]]が登場するのを待つことになる。東ドイツは常に[[西ドイツ]](ドイツ連邦共和国)との関係が問題となり、[[東西ドイツ基本条約]]で西ドイツに東ドイツの存在を認めさせたのは[[1972年]]の事であった。また、ドイツは東西冷戦の最前線であり、東ドイツには大量のソ連軍が、西ドイツには[[アメリカ軍]]などの[[北大西洋条約機構]] (NATO) 軍が駐留していた。 そのため、東ドイツの[[ドイツ社会主義統一党]]政権は、国家存続のためにソ連に対して常に忠実である必要が生じた。このため、1974年に改正された[[ドイツ民主共和国憲法|東ドイツ憲法]]第6条第2項では「ドイツ民主共和国はソビエト社会主義共和国連邦との恒久的で取り消しえない同盟関係にある。」と規定されていた<ref>『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)</ref>。すなわち、東ドイツは[[東欧革命]]の発生までソ連の衛星国であり続けた。 ====チェコスロバキア社会主義共和国==== {{Main|チェコスロバキア社会主義共和国}} [[チェコスロバキア]]は第二次世界大戦前に議会制民主主義が機能していた国で、共産党も有力な議会内勢力の一つとして活動していた。戦後もしばらくの間、自由選挙によって選ばれた非[[共産党]]政権が政権を運営していた。当初は[[マーシャル・プラン]]の受け入れを模索していたが、これはソ連の圧力によって撤回された。[[1948年]]に閣内不一致で非共産党系の閣僚が辞任したのに乗じて共産党が実権を掌握し、直後の総選挙で圧勝。「[[人民民主主義]]」宣言を行ってソ連の衛星国の一つとなった。[[スターリン主義]]的手法で国内の社会主義化を進め、[[1960年]]に新憲法を採択して正式に社会主義共和国となった。 [[1968年]]に共産党による改革運動の「[[プラハの春]]」が起こると、ソ連を初めとするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、この動きを圧殺した。その後は共産党の保守派が政権を維持し、ソ連の衛星国として存在し続けた。これは[[1989年]]に[[ビロード革命]]で共産党政権が崩壊するまで変わらなかった。 ====ハンガリー人民共和国==== {{main|ハンガリー人民共和国}} [[第二次世界大戦]]では[[ハンガリー]]は枢軸国側で参戦したが、ソ連に全土を占領されて敗戦した。以降、ソ連の影響下に置かれることとなる。[[1956年]]に反ソ暴動となる[[ハンガリー動乱]]が勃発した。この動きもソ連及びワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。体制は元に戻されたが、チェコスロバキアの[[グスタフ・フサーク]]らと違って最高指導者の[[カーダール・ヤーノシュ]]は比較的穏健な政治姿勢を取り、[[経済]]は比較的自由であった。[[1968年]]頃から西側の経済を緩やかにではあるが取り入れ、ソ連政府の単なる傀儡ではなかった。[[1980年代]]には、国民は[[ハンガリー社会主義労働者党]]の保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受けるような形で改革派が実権を握り、[[ハンガリー民主化運動|ハンガリーは独自に民主化]]([[西ヨーロッパ|西欧]]への帰還)への道を歩んでいったのである。 ====ポーランド人民共和国==== {{main|ポーランド人民共和国}} [[ポーランド]]では長年ロシア・ソ連との対立や抵抗が続き、第二次世界大戦でもロンドンの[[ポーランド亡命政府|亡命政府]]や[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]]によるドイツへの組織的抵抗がソ連の支援を受けた共産党系の運動よりも活発だった。そのため、人民共和国成立後も国民の反ソ感情は強く、1956年、[[1970年]]、[[1980年]]と反ソ暴動、国内改革運動が活発になった。 ただしチェコスロバキアやハンガリーとは異なり、[[ポーランド統一労働者党]]の政府や、1980年の戒厳令で国家統治を党から[[救国軍事会議|事実上肩代わり]]した[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ|ヤルゼルスキ]]などのポーランド国軍は、混乱の自力収拾に成功してソ連やワルシャワ条約機構軍による介入を巧みにかわし、外交面ではソ連の要求へ忠実に応える一方で、国内の改革運動の要求をある程度受け入れることに努めた。この結果ポーランドでは[[ベルリンの壁崩壊]]以前に「東欧」では先陣を切って複数政党制による自由選挙を実施する事につながって来る。 ====ブルガリア人民共和国==== {{Main|ブルガリア人民共和国}} [[ブルガリア]]は歴史的にロシアとの親和性が強く、その独立にも深く関わっていたため、第二次世界大戦におけるソ連軍([[赤軍]])の侵攻もドイツからの解放と受け止める雰囲気が強かった。そのため、比較的素直にソ連による支配を受け入れ、「ソビエト連邦の第16番目の加盟共和国」とも揶揄されるほどの関係を築いた(同様の比喩はモンゴルに対しても見られる)。実際にブルガリアの指導者[[トドル・ジフコフ]]はブルガリアのソ連加盟を打診したことすらあるが、後進地域であるブルガリアを領有することによる経済的負担を忌避したソ連政府により拒絶された。この緊密な状態は両国の指導者が交代しても続き、1989年の民主化運動で共産党政権が退場するまで変わらなかった。 ====ユーゴスラビア連邦人民共和国==== {{Main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国}} [[ユーゴスラビア]]は東欧で唯一ナチスからの自力解放に成功し、その[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]の指導者だった[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]が独自の[[社会主義]]路線の建設を行った。又[[マーシャル・プラン]]も積極的に受け入れた。これはソ連との反目を引き起こし[[1960年代]]までユーゴスラビアとソ連は断続的に国交断絶と回復を繰り返した。 その後もユーゴスラビアは「東側」と言う枠の中には入りきらずに、[[西側諸国|西側陣営]]にも[[東側諸国|東側陣営]]にも属さない[[非同盟|非同盟運動]]を巧みにリードして、米ソにその存在感を見せつけた。その結果、ソ連で脱スターリン化が意識され西側との平和共存路線が主張された1960年代以降は、ユーゴスラビアとの関係が比較的安定した。 このような経緯から、ユーゴスラビアは広く「衛星国」としては扱われない場合が多い。 ====ルーマニア人民共和国==== {{Main|ルーマニア社会主義共和国}} [[ルーマニア]]は第二次世界大戦で枢軸国に付いたが、ソ連軍の侵攻・全土占領により従来の立憲王国は崩壊し、ルーマニア共産党による独裁支配が完成した。他の東欧諸国と同様にソ連に対して忠実で、典型的な衛星国の一つであった。 しかし、[[1965年]]に[[ニコラエ・チャウシェスク]]政権が登場すると、豊富な石油生産を背景にした経済建設に成功した事でソ連から一定の距離をおき、当時ソ連と対立していた[[中華人民共和国|中国]]へと接近し、ソ連との断交と復縁を繰り返した。またソ連共産党との確執のあった[[日本共産党]]にも接近した。 ルーマニアもチャウシェスク政権以降は「衛星国」として扱わない場合が多い。 ====アルバニア人民共和国==== {{Main|アルバニア社会主義人民共和国}} [[アルバニア]]では第二次世界大戦中にパルティザン闘争が盛んで、イタリアやドイツと戦った。戦後は[[エンヴェル・ホッジャ]]による独裁体制が成立したが、常に隣国のユーゴスラビアの存在を意識し、その指導者のチトーが独自の社会主義建設を主張した事で一層ソ連への依存度を高めた。 しかし、[[1956年]]にフルシチョフがスターリン批判を行うとホッジャは激しく反発し、国内での強権支配を一層強化して、修正主義と非難したソ連との関係を断絶した。[[1962年]]にはコメコン、1968年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連の衛星国からは完全に脱却した。 その後は[[中ソ対立]]を通じてイデオロギーが共通した[[中華人民共和国]]へと接近し、[[1965年]]からの[[文化大革命]]も「熱烈に支持」して、中国からの援助を受けた。また[[ヨーロッパ]]の周辺国とは事実上の[[鎖国]]状態となっていた。国交断絶後のソ連との関係はさらに悪化し、ソ連を仮想敵国と見なして国内の兵力増強に努めていた。[[1979年]]には、[[トウ小平|鄧小平]]による急速な改革路線に転じた中国とも断交し、1985年のホッジャ死後も東欧革命まで孤立無援であった。 ===東欧の衛星国を取り留める装置=== ソ連が衛星国に対して求心力を強めるために *[[経済]]的な分野では[[経済相互援助会議]](コメコン) *[[安全保障]]の分野では[[ワルシャワ条約機構]] があった。 ただし西側の「マーシャル・プラン」と比較しても「コメコン」が機能したとはとても言えず、またワルシャワ条約機構は安全保障の枠組みというよりも、チェコ事件等に見られるように、衛星国から抜け出そうとする国に対しての暴力装置としての面が強かった。 この他にも、ソ連は東欧の中で数少ない[[石油|産油国]]であったため、[[エネルギー]]分野でもこれらの国の[[運命]]を握っていた。ただし同じく産油国であったルーマニアはこの限りではなく早々と衛星国の枠組みから抜けてしまった。 ===衛星国の解消=== [[1985年]]に[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が登場すると、これら「東欧」諸国に対するソ連の指導性を否定した(いわゆる[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]・ドクトリン=[[制限主権論]]の放棄)。 これにより各国は独自路線に走ることを許されポーランドやハンガリーなど国内の改革を試みる動きも出てきた([[ポーランド民主化運動]]、[[ハンガリー民主化運動]]を参照)。最終的には[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]し東欧およびモンゴル等の諸国の共産主義政権が総倒れになることによって「衛星国」の枠組みは解消された([[東欧革命]]、[[モンゴル民主化運動]]を参照)。 ===現在=== [[ソ連崩壊]]後ソ連を引き継いだ[[ロシア|ロシア連邦]]は、旧ソ連各国への影響力を残すことを狙っており、実際に影響力の強い[[ベラルーシ]]、[[カザフスタン]]や、[[グルジア]]の独立勢力でロシアが支援する[[アブハジア]]、[[南オセチア]]などの国々を、ソ連時代に倣って「衛星国」と呼ぶことがある。 == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *[[傀儡政権]] *[[付庸国]] *[[保護国]] *[[植民地]] *[[従属国]] *[[冊封国]] *[[フィンランド化]] *[[東側諸国]] *[[モンキーモデル]] ---- {{冷戦}} {{DEFAULTSORT:えいせいこく}} [[Category:冷戦]] [[Category:共産主義]] [[Category:反共主義]] [[Category:20世紀のヨーロッパ史]] [[Category:20世紀のアジア史]] [[Category:南アメリカ]] [[Category:国際関係]] [[Category:ソビエト連邦の国際関係]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1945年-1989年)]] [[Category:植民地]] [[Category:国の分類]] {{Communism-stub}}
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