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'''蟻通 勘吾'''(ありどおし かんご、[[天保]]10年([[1839年]])- [[明治]]2年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]([[1869年]][[6月20日]]))は、[[新選組]]隊士。 == 生涯 == [[讃岐国]]高松(現・[[香川県]][[高松市]])出身。愛刀は[[播磨住昭重]]。 [[文久]]3年([[1863年]])6月頃、新選組に入隊。 [[元治]]元年([[1864年]])[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の[[池田屋事件]]の際には[[井上源三郎]]の六番隊に所属し、報奨金17[[両]]を受け取っている。また、[[慶応]]2年([[1866年]])[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]に起きた[[三条制札事件]]の際には三番組に属し報償として金千疋を受け取り、慶応3年([[1867年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]の[[天満屋事件]]の際には[[原田左之助]]隊に属し[[斎藤一]]、[[大石鍬次郎]]らと共に紀州藩公用人[[三浦安|三浦休太郎]]らの護衛にあたった。慶応3年(1867年)の[[幕臣]]御取立ての儀に際して平士として見廻組並御雇の格を受ける。 [[戊辰戦争]]では[[会津戦争]]が緒戦、慶応4年閏(1868年)5月1日、[[白河口の戦い]]において重傷を負うも、[[土方歳三]]に従い[[蝦夷]]へ渡航。明治2年(1869年)、[[箱館戦争]]において5月11日、箱館山の上で戦死した。遺体は函館の大円寺に埋葬されたとされる。 勘吾は、新選組草創期から隊に所属した古参隊士でありながら、終始平隊士の地位であった。 {{DEFAULTSORT:ありとおし かんこ}} [[Category:新選組隊士]] [[Category:箱館戦争で戦死した人物]] [[Category:1839年生]] [[Category:1869年没]]
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