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藤堂高虎
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 藤堂 高虎 | 画像 = Toudou Takatora.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代_(日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[弘治 (日本)|弘治]]2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1556年]][[2月16日]]) | 死没 = [[寛永]]7年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[1630年]][[11月9日]]) | 改名 = 与吉(幼名)、高虎 | 別名 = 与右衛門(通称) | 戒名 = 寒松院殿道賢高山権大僧都 | 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の寒松院<ref group="注">寒松院は公園隣接地に移転したが、墓所は[[恩賜上野動物園|動物園]]内に残る(関係者のみ立ち入り可能)</ref> | 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[近衛府|左近衛権少将]]、[[佐渡国|佐渡守]]、[[和泉国|和泉守]] | 主君 = [[浅井長政]]→[[阿閉貞征]]→[[磯野員昌]]→[[津田信澄|織田信澄]]→[[豊臣秀長]]→[[豊臣秀保|秀保]]→[[豊臣秀吉|秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]] | 藩 = [[伊予国|伊予]][[今治藩]]主→[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]主 | 氏族 = [[藤堂氏]] | 父母 = 父:[[藤堂虎高]]、母:[[藤堂忠高]]の娘(多賀良氏の娘・盛との説もある) | 兄弟 = 姉([[鈴木弥右衛門]]室)、[[藤堂高則|高則]]、'''高虎'''、妹([[山岡直則]]室、後に[[渡辺守]]室)、[[藤堂高清|高清]]、[[藤堂正高|正高]]、妹([[藤堂高経]]室) | 妻 = 正室:'''久芳院'''([[一色義直 (旗本)|一色義直]]の娘)<br/>継室:'''松寿院'''([[長連久]]の娘) | 子 = '''[[藤堂高次|高次]]'''、[[藤堂高重|高重]]、娘([[蒲生忠郷]]正室、後に[[専修寺]][[堯朝]]室)、娘([[藤堂忠季]]室)、娘([[岡部桂賢]]室)、娘([[生駒正俊]]室)<br/>養子:''[[藤堂高吉|高吉]]''([[丹羽長秀]]の三男)<br/>養女:''[[織田信清]]の娘''([[藤堂高刑]]室)<br/>養女:''[[藤堂嘉晴]]の娘''([[小堀政一]]室) }} [[画像:Todo Takatora.jpg|thumb|285px|津城址にある藤堂高虎像]] '''藤堂 高虎'''(とうどう たかとら)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[伊予国|伊予]][[今治藩]]主。後に[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の初代[[藩主]]となる。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。[[築城]]技術に長け、[[宇和島城]]・[[今治城]]・[[篠山城]]・[[津城]]・[[伊賀国|伊賀]][[上野城]]・[[膳所城]]などを築城した。高虎の築城は[[石垣]]を高く積み上げることと[[堀]]の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する[[加藤清正]]と対比される。 == 生涯 == === 浅井家臣時代 === 弘治2年(1556年)1月6日、[[近江国]][[犬上郡]]藤堂村(現・[[滋賀県]]犬上郡[[甲良町]]在士)の[[土豪]]・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・[[藤堂高則|高則]]は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた<ref name="楠戸72"/>。幼名を与吉と名乗った。 はじめ近江国の[[戦国大名]]・[[浅井長政]]の[[足軽]]として仕え、[[元亀]]元年([[1570年]])の[[姉川の戦い]]に参戦して織田軍の敵首を取る武功を挙げ<ref name="楠戸72"/>、長政から感状を受ける。[[天正]]元年([[1573年]])に[[小谷城の戦い]]で[[浅井氏]]が[[織田信長]]によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった[[阿閉貞征]]、次いで同じく浅井氏旧臣の[[磯野員昌]]の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・[[津田信澄|織田信澄]]の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている<ref name="楠戸73">楠戸義昭『戦国武将名言録』P73</ref>。 === 豊臣家臣時代 === 天正4年([[1576年]])に信長の重臣・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の弟・秀長(後の[[豊臣秀長]])に300石で仕える<ref name="楠戸73"/>。天正9年([[1581年]])には[[但馬国]]の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった<ref name="Sakuragi">桜木謙堂『高山公』P18</ref>。秀長のもとでは[[中国攻め]]、[[賤ヶ岳の戦い]]などに従軍する。賤ヶ岳の戦いで[[佐久間盛政]]を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された<ref name="Sakuragi"/>。 天正13年([[1585年]])の[[紀州征伐]]に従軍し、10月に[[湯川直晴]]を降伏させ、山本主膳を斬った<ref name="Sakuragi"/>。また秀長の命令で[[雑賀党]]の[[鈴木重意]]を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は[[紀伊国]][[粉河町|粉河]]に5,000石を与えられ<ref>[[新人物往来社]]編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年) ISBN 4404023340 P168、桜木『高山公』P18では1万石加増とする。</ref>、[[猿岡山城]]、[[和歌山城]]の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の[[四国攻め]]にも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。[[方広寺]][[大仏殿]]建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている<ref>『豊臣秀長のすべて』P169-170</ref>。 天正14年([[1586年]])関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった[[徳川家康]]の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。<ref>『高山公実録』</ref> 天正15年([[1587年]])の[[九州征伐]]では[[根白坂の戦い]]で島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。<ref>『新七郎家乗』</ref>この戦功により、秀吉の推挙を受けて[[正五位下]]・[[佐渡国|佐渡守]]に叙任する。天正17年([[1589年]])、[[北山一揆]]の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された<ref>『日本城郭大系』第10巻(新人物往来社、1980年)P187-188</ref>。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている<ref>『三重県の歴史散歩』P271</ref>。 天正19年([[1591年]])に秀長が死去すると、甥で養子の[[豊臣秀保]]に仕え、秀保の代理として翌年の[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に出征している。[[文禄]]4年([[1595年]])に秀保が早世したため、出家して[[高野山]]に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が[[生駒親正]]に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の[[宇和島市]])7万石の大名となる<ref>桜木『高山公』P23</ref>。 [[慶長]]2年([[1597年]])からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、[[漆川梁海戦]]では[[李氏朝鮮|朝鮮]]水軍の武将・[[元均]]率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、[[南原城の戦い]]と[[鳴梁海戦]]にも参加し、帰国後に[[大洲城]]1万石を加増されて8万石となる<ref>桜木『高山公』P31に引く6月23日付けの秀吉朱印状による。尚、桜木は6月26日付けで海船総督に任じられ、幔幕と軍艦を下賜されたとする。桜木『高山公』P32には、[[斎藤拙堂]]の書を引いて日本丸を与えられたのも加増時だとしている。</ref>。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・[[姜コウ|姜沆]]を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。 === 関ヶ原の戦い === [[File:Site of Tōdō Takatora and Kyōgoku Takatomo's Positions.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]] 慶長3年([[1598年]])8月の秀吉の死去直前から[[徳川家康]]に急接近する。これは、高虎は元々家康と親交があって、家康の高邁な志を理解しており、他の大名たちは後漢末の[[劉表]]のようにただ領地を守ることに汲々としており、天下を治める事はできないが、家康は北宋の太祖・[[趙匡胤]]のような人物で、天下を治める力があると考えていたからだといわれている<ref>桜木『高山公』P35。この頃から高虎は儒者の三宅亡羊に[[資治通鑑]]を講義させており、中国の歴史に感激していたという。桜木は、高虎は[[趙普]]のようだと述べている。</ref>。[[豊臣氏]]の家臣団が[[武断派]]・[[文治派]]に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。 慶長5年([[1600年]])、家康による[[会津征伐]]に従軍し、その後の[[木曽川・合渡川の戦い|合渡川の戦い]]に参戦する。9月15日の[[関ヶ原の戦い|関ヶ原本戦]]では[[大谷吉継]]隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予国における[[毛利輝元]]の策動による一揆を鎮圧している([[関ヶ原の戦い#四国|毛利輝元の四国出兵]])。更に[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[朽木元綱]]、[[赤座直保]]らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。 戦後、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20万石に加増されている。 === 江戸時代 === [[ファイル:Toudou Takatora2.jpg|thumb|300px|藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵]] その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、[[江戸城]]改築などにも功を挙げたため、慶長13年([[1608年]])に[[伊賀国|伊賀]][[伊賀上野藩|上野藩]]主・[[筒井定次]]の[[改易]]と[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]主・[[富田信高]]の[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]への転封で今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、[[外様大名]]でありながら[[譜代大名]]格(別格譜代)として重用した。 慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では徳川方として参加する。翌年の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]でも徳川方として参戦し、自ら[[河内国|河内]]方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の[[長宗我部盛親]]隊と戦う([[八尾・若江の戦い|八尾の戦い]])。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の[[藤堂良勝]]や[[藤堂高刑]]をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の[[渡辺了]]と衝突、決別している。 高虎はこの戦いの戦没者供養のため、[[南禅寺]]三門を造営し、[[釈迦]]三尊像及び十六[[羅漢]]像を造営・安置している。[[梅原猛]]によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという([[釈迦如来]]像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、[[常光寺 (八尾市)|常光寺]]の居間の縁側で八尾の戦いの[[首実検]]を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、[[血天井]]として現存している。 家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は第2代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]に仕え、[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])に秀忠の5女・[[徳川和子|和子]]が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという([[およつ御寮人事件]])。寛永4年([[1627年]])には自分の敷地内に[[上野東照宮]]を建立している。 一方で内政にも取り組み、上野城と津城の[[城下町]]建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]と[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。 晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。[[享年]]75。後を長男の[[藤堂高次|高次]]が継いだ。養子の[[藤堂高吉|高吉]]は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した([[名張藤堂家]])。 墓は[[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の[[寒松院]]。また、[[三重県]][[津市]]の[[高山神社 (三重県)|高山神社]]に祀られている。屋敷は東京都[[千代田区]][[神田和泉町]]他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。 == 人物・逸話 == === 体格 === 6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている<ref name="楠戸72">楠戸義昭『戦国武将名言録』P72</ref><ref>[[藤田達生]]『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』([[講談社現代新書]]、2006年)P28</ref>。 高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている<ref>『平尾留書』</ref><ref name="楠戸72"/>。 === 家臣への対応 === ある時5人の家臣([[遊女]]好きの家臣2人と[[博打]]打ち好きの家臣3人)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。この時高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣は減知の上、百日の閉門として家中に残した。不思議に思った側近が尋ねると、高虎は「女好きは物の役に立たないが、博打好きな奴は相手に勝とうとする気概がある」と答えたという([[南条範夫]]『武家盛衰記』)。 高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという([[江村専斎]]の『[[老人雑話]]』)<ref name="itsuwadaijiten">[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 平成8年2月、P664</ref>。この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる<ref name="楠戸73"/>。 戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて[[駿府]]屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した<ref name="楠戸124">楠戸義昭『戦国武将名言録』P124</ref>。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」<ref>『武将感状記』</ref>と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。合戦で右腕を失っており、そのため生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという<ref name="楠戸125">楠戸義昭『戦国武将名言録』P125</ref>。 江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である<ref>『高虎遺書禄二百ヶ条』</ref>。 つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている<ref name="楠戸72"/>。 === 加藤嘉明との対立 === 慶長の役において[[加藤嘉明]]と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]と隣接していたことも事情にあるとされる。別の話もある。[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主の[[蒲生氏]]が嗣子無く[[改易]]されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという(『[[高山公言行録]]』『[[勢免夫話草]]』)<ref name="itsuwadaijiten"/>。 === 何度も主君を変える === 高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に[[儒教]]の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。 {{要出典|秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している|date=2014年5月}}。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、[[四国攻め]]の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。幕末の[[鳥羽・伏見の戦い]]で、藤堂氏の津藩は[[彦根藩]]と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと[[羽生道英]]は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。 === 徳川家康との逸話 === 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている<ref>『忠勤録』</ref>。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の[[大御所]](秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」<ref>『徳川実紀』</ref>とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。 関ヶ原の合戦では[[大谷吉継]]、大坂夏の陣では[[長宗我部盛親]]隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康は「どうしてだ?」と訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという<ref>[[山鹿素行]]『[[武家事紀]]』</ref><ref>『武将感状記』</ref>。 秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという<ref>[[古賀桐庵]]『良将達徳鎖』</ref><ref name="itsuwadaijiten"/>。 元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた[[天海]]を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した<ref>『西嶋八兵衛留書』</ref><ref name="楠戸49"/>。 === 政治家 === 武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や[[能楽]]、[[茶の湯]]を嗜む[[文化人]]でもあった<ref>茶の湯は秀長に仕えていた時に[[千利休]]との交流があったとされる(藤田(2006)P17)</ref>。 [[三大築城名人]]の1人と言われるほどの[[城郭]]建築の名人として知られる。慶長の役では[[順天倭城]]築城の指揮をとった。この城は[[明]]・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また[[天守|層塔式天守]]築造を創始し、幕府の[[天下普請]]で伊賀上野城や[[丹波国|丹波]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]などを築いた<ref>数々の築城は[[大坂城]]の[[豊臣秀頼]]と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の[[淡路国|淡路]][[淡路洲本藩|洲本藩]]から[[伊予国|伊予]][[大洲藩]]への転封もこの政策の一環としている(藤田(2006)P86 - P102)。</ref>。本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩[[蒲生氏|蒲生家]]と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。 === その他 === [[講談]]、[[浪曲]]『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が[[三河国|三河]]吉田宿(現・[[豊橋市]])の吉田屋という餅屋で三河餅を[[無銭飲食]]するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が[[参勤交代]]の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。 === 遺言 === 高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事<ref name="楠戸48">楠戸義昭『戦国武将名言録』P48</ref>、長酒はしてはならない事を述べている<ref name="楠戸49">楠戸義昭『戦国武将名言録』P49</ref>。特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている<ref name="楠戸49"/>。他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している<ref name="楠戸49"/>。 その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している<ref name="楠戸49"/>。 == 家臣 == {| width="100%" |- | valign="top" | * [[赤井直義]] * [[浅井井頼]] * [[浅井吉政]] * [[池田秀氏]] * [[磯野行尚]] * [[磯野行信]] * [[織田昌澄]] * [[小浜直隆]] * [[蒲生郷舎]] * [[蒲生郷成]] | valign="top" | * [[桑名吉成]] * [[佐伯惟定]] * [[新宮行朝]] * [[菅達長]] * [[藤堂家信]] * [[藤堂高刑]] * [[藤堂高吉]] * [[藤堂雅久]] * [[藤堂良勝]] * [[藤堂良政]] | valign="top" | * [[西嶋八兵衛]] * [[服部平左衛門]] * [[真野頼包]] * [[渡邉金六]] * [[渡邉内膳]] * [[渡辺了]] |} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == ;書籍 * {{Cite book|和書|editor=上野市古文献刊行会|title=高山公実録|volume=上巻|series=清文堂史料叢書 ; 第98刊|publisher=[[清文堂]]|year=1998|isbn=4-7924-0437-1}} * {{Cite book|和書|editor=上野市古文献刊行会|title=高山公実録|volume=下巻|series=清文堂史料叢書 ; 第99刊|publisher=[[清文堂]]|year=1998|isbn=4-7924-0438-X}} * 桜木謙堂(謙二)『高山公』伊勢新聞社活版部、大正二年(近代デジタルライブラリー所収) *『三重県史』 *『加茂町史』 * {{Cite journal|和書|author=[[朝尾直弘]]|date=1976-03-31|title=「元和六年案紙」について|journal=京都大學文學部研究紀要|volume=16|pages=23-83|publisher=[[京都大学]]|issn=0452-9774|language =日本語}} * {{Cite book|和書|author=[[久保文武]]|title=藤堂高虎文書の研究|publisher=[[清文堂]]|year=2005|isbn=4-7924-0593-9}} * {{Cite book|和書|author=[[藤田達生]]|title=江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|year=2006|isbn=4-06-149830-4}} * [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]。 ;史料 * 『[[徳川実紀]]』 * 『[[武将感状記]]』 * 『[[武家事紀]]』 * 『[[高虎遺書禄二百ヶ条]]』([[佐伯惟直]]著) * 『[[高山公実録]]』 * 『[[新七郎家乗]]』 * 『[[忠勤録]]』 == 関連作品 == ; 小説 * [[徳永真一郎]]『影の人藤堂高虎』([[毎日新聞社]]1987年、のちPHP文庫1990年) * [[村上元三]]『藤堂高虎』([[徳間文庫]]1992年、のち[[学陽書房]]人物文庫2008年) * [[高野澄]]『藤堂高虎』([[学研M文庫]]2002年) * [[火坂雅志]]『虎の城』([[祥伝社]]2004年、のち文庫2007年) * [[羽生道英]]『藤堂高虎』(PHP文庫2005年) * [[横山高治]]『藤堂高虎』([[創元社]]2008年) * [[安部龍太郎]]『下天を謀る』([[新潮社]]2009年) ; ドラマ *[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](1983年、NHK大河ドラマ、演:[[前田昌明]]) *[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]](1986年、NHK新大型時代劇、演:[[児玉謙次 (俳優)|児玉賢次]]) *[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]](1996年、NHK大河ドラマ、演:[[徳秀樹]]) *[[葵 徳川三代]](2000年、NHK大河ドラマ、演:[[田村亮 (俳優)|田村亮]]) ; ゲーム *『[[采配のゆくえ]]』([[コーエー]]) *『[[戦国無双 Chronicle 2nd]]』([[コーエーテクモゲームス]]) *『[[戦国無双4]]』([[コーエーテクモゲームス]]) == 関連項目 == {{Commons|Toudou Takatora}} *[[北山一揆]] *[[筒井騒動]] *[[生駒騒動]] *[[愛媛縣護國神社]] *[[藤堂とらまる]] - 高虎をモチーフにした[[ゆるキャラ]]。 == 外部リンク == * [http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1171/article.php?articleid=626 津藩祖 藤堂高虎] 津市ホームページ * [http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=80 藤堂高虎・京極高知陣跡] 関ケ原町地域振興課 {{藤堂家当主|9代|? - 1630年}} {{今治藩主|藤堂氏||1600年 - 1608年}} {{津藩主|藤堂氏|初代|1608年 - 1630年}} {{DEFAULTSORT:とうとう たかとら}} [[Category:藤堂氏|たかとら]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:外様大名]] [[Category:今治藩主|藤]] [[Category:津藩主|藤01]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:還俗した人物]] [[Category:1556年生]] [[Category:1630年没]]
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