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藤原能信
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{{基礎情報 公家 |氏名=藤原能信 |画像= |画像サイズ= |画像説明= |時代=[[平安時代]]中期 |生誕=[[長徳]]元年([[995年]]) |死没=[[康平]]8年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1065年]][[3月18日]]) |改名= |別名= |戒名= |墓所= |官位=[[正二位]]、権[[大納言]]、[[春宮坊|春宮大夫]]<br>[[贈位|贈]][[正一位]]、[[太政大臣]] |主君= |氏族=[[藤原北家]][[御堂流]] |父母=父:[[藤原道長]]、母:[[源明子]]([[源高明]]の娘) |兄弟=[[藤原彰子|彰子]]、[[藤原頼通|頼通]]、[[藤原頼宗|頼宗]]、[[藤原妍子|妍子]]、[[藤原顕信|顕信]]、<br>'''能信'''、[[藤原教通|教通]]、[[藤原威子|威子]]、[[藤原寛子 (藤原道長女)|寛子]]、[[藤原長家|長家]]、<br>[[藤原嬉子|嬉子]]、[[藤原尊子 (藤原道長女)|尊子]]、[[長信]]、[[藤原盛子 (藤原道長女)|盛子]] |妻=正室:'''[[藤原祉子]]'''([[藤原実成]]の娘) |子=[[藤原有家|有家]]<br>養子:'''''[[藤原能長|能長]]'''''、''[[藤原茂子|茂子]]'' |特記事項= }} '''藤原 能信'''(ふじわら の よしのぶ)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]・廷臣。[[摂政]][[太政大臣]]・[[藤原道長]]の四男。 == 生涯 == 道長の妻の一人・[[源明子|明子]]腹の三男に生まれる。父・道長に似て勝気な性格だったらしく、15歳の時に敦良親王(のちの[[後朱雀天皇]])誕生を祝う儀式中に同席した[[藤原伊成]]([[藤原義懐]]の次男)と喧嘩をした挙句、加勢した能信の従者によって一方的に負傷した伊成が憤慨して[[出家]]するという事件を起こしている。だが、その勝気さは次第に異母兄[[藤原頼通|頼通]]への対抗意識に変化していった。 道長には頼通・[[藤原教通|教通]]を生んだ[[源倫子]]([[左大臣]][[源雅信]]の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父[[源高明]]はかつての権力者ながらもすでに故人で、しかも[[安和の変]]で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対して、明子所生の子供たちはそれより下の出世に限定されていた。能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。(なお、官位の昇進は[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])の[[正二位]]権[[大納言]]昇進が最後であった) [[長元]]5年([[1032年]])、教通の子[[藤原信長|信長]]の[[元服]]に際して[[加冠役]]を務める。同10年([[1037年]])、後朱雀天皇の[[中宮]](のちに[[皇后]])に[[禎子内親王]](のちの陽明門院)が決まると、その側近である[[中宮職|中宮大夫]]に任じられる。既に頼通の養女・[[藤原げん子|嫄子]]が天皇の新しい[[中宮]]として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営の中心に立った。そして禎子内親王所生の尊仁親王(のちの[[後三条天皇]])の[[後見人]]を引き受けることになった。[[寛徳]]2年([[1045年]])に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を異母兄の親仁親王(のちの[[後冷泉天皇]])の[[皇太子|皇太弟]]にするよう[[遺詔]]を得たとされる(『[[今鏡]]』)。 だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば[[皇太子]]は変更されるだろうと噂され、尊仁親王やその[[春宮坊|春宮大夫]]となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻[[藤原祉子|祉子]]の兄である[[藤原公成]]の娘)である[[藤原茂子|茂子]]を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。 以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、しかも同母兄の[[右大臣]][[藤原頼宗|頼宗]]の急死で大臣への道が開かれたそのわずか6日後の康平8年(1065年)2月9日、71歳で没した。 その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに[[崩御]]すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子である[[白河天皇]]が即位した。後三条天皇は能信の死後に春宮大夫を継いだ養子の[[藤原能長|能長]](実父は頼宗)を[[内大臣]]に抜擢した。また白河天皇は能信に[[太政大臣]]の官職を贈り、必ず「大夫殿」と尊称した。(後三条・白河両天皇による政治とその後の[[院政]]の開始は、[[摂家|摂関家]]による[[摂関政治]]を終焉に導く事となる) なお、少数説であるが、道長とその一族の歴史を鋭い視点で描いた『[[大鏡]]』の作者を能信とする説もある。 == 系譜 == * 父:[[藤原道長]] * 母:[[源明子]] - [[源高明]]の女 * 妻:[[藤原祉子]] - [[藤原実成]]の女 * 生母不詳の子女 ** 男子:[[藤原有家]] * 養子女 ** 養子:[[藤原能長]](1022-1082) - [[藤原頼宗]]の子 ** 養女:[[藤原茂子]](?-1062) - [[藤原公成]]の女、尊仁親王([[後三条天皇]])[[御息所]]、贈[[皇太后]]、[[白河天皇]]生母 == 官歴 == * [[寛弘]]3年([[1006年]]) [[従五位]]上、[[侍従]] * 寛弘4年([[1007年]]) [[兵衛府|右兵衛佐]] * 寛弘7年([[1010年]]) [[蔵人]]、[[正五位]]下 * 寛弘8年([[1011年]]) 兼[[少納言]]、新帝[[蔵人]]、[[従四位]]下 * 寛弘9年([[1012年]]) 兼[[中宮職|中宮権亮]] * [[長和]]2年([[1013年]]) [[近衛府|左近衛権中将]]、[[蔵人頭]] * 長和3年([[1014年]]) [[近江国|近江]]権守、[[従三位]]、[[京職|左京大夫]] * 長和4年([[1015年]]) [[正三位]] * 長和5年([[1016年]]) [[近衛府|右近衛権中将]]、[[従二位]] * [[寛仁]]元年([[1017年]]) [[中納言|権中納言]] * 寛仁2年([[1018年]]) 兼[[中宮職|中宮権大夫]]、[[正二位]] * 寛仁4年([[1020年]]) 兼左[[兵衛府|兵衛]]督 * [[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]]) [[大納言|権大納言]] * [[長元]]6年([[1033年]]) 兼[[按察使#按察使 (律令制)|按察使]] * 長元8年([[1035年]]) 兼[[中宮職|中宮大夫]] * 長元10年([[1037年]]) 兼[[皇后宮職|皇后宮大夫]] * [[寛徳]]2年([[1045年]]) 兼[[春宮坊|春宮大夫]] * [[延久]]5年([[1073年]]) 5月6日:[[贈位|贈]][[太政大臣]]・[[正一位]] ==能信を題材とした小説== * [[永井路子]]『望みしは何ぞ - 王朝・優雅なる野望』 [[中央公論新社]]、[[1999年]] {{DEFAULTSORT:ふしわら の よしのふ}} [[Category:御堂流|よしのふ]] [[Category:平安時代中期の貴族]] [[Category:995年生]] [[Category:1065年没]]
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