コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
藤原敏男のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
藤原敏男
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Kickboxing statsbox |name = 藤原 敏男(ふじわら としお) |image = Replace this image JA.svg |caption = |realname = |nickname = キックの荒鷲・キックの神様 |weight = [[ライト級]]([[キックボクシング]]) |nationality = {{JPN}} |birth_date = {{生年月日と年齢|1948|3|3}} |birth_place = [[岩手県]][[宮古市]] |death_date = |death_place = |cm = {{height|m=1.68}} |kg = {{convert|61|kg}} |style = [[キックボクシング]] |total = 141 |wins = 126 |KO = 99 |losses = 13 |draws = 2 |no contests = |}} '''藤原 敏男'''(ふじわら としお、[[1948年]][[3月3日]] - )は、[[日本]]の[[キックボクサー]]。[[岩手県]][[宮古市]][[田老鉱山]]出身。[[外国人]]として初めて[[ムエタイ]]の頂点・[[ラジャダムナン・スタジアム|ラジャダムナン王者]]となった。 その戦いぶりは'''キックの荒鷲'''と呼ばれるほど激しい攻撃力を持ち、一時代を築いた強豪である。ムエタイ現役王者をノンタイトル戦で現地[[バンコク]]で[[ノックアウト|KO]]勝ちなど何度も勝利していることから、[[タイ人]]以外のムエタイ王者としての実績は文句なしにトップである。[[身長]]168[[センチメートル|cm]]、[[体重]]61[[キログラム|kg]]、[[血液型]][[ABO式血液型|A型]]<ref name="ms1391">「マーシャルアーツ」 スポーツライフ社、No.1、1983年9月、31 - 33頁。</ref>。 引退後は「[[藤原スポーツジム]]」で後進の育成や、「[[ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ]](JMD)」の理事長をしている。 == 来歴 == 高校時代は[[テニス]]部に所属し、卒業後に上京し大学の夜間部で設計の勉強を始める。アルバイトで牛乳配達をするが、配達区域に[[目白ジム]]があった。その縁で目白ジムを見学しているうちに[[キックボクシング]]に興味を抱き、[[1969年]][[7月]]に目白ジムへ入門した。[[黒崎健時]]の指導を受け、目白ジムに住み込みでキックボクシングに専念し始めると、[[#練習メニュー|1日10時間年中休みなしの練習漬けの毎日]]を送った。同年10月1日にプロデビュー。坂井田佳央と対戦し[[パンチング|パンチ]]で2[[ラウンド|R]][[ノックアウト|KO]]勝ち。しかし、タイ人選手相手に立て続けにKO負けしたことで、本格的にキックボクシングに取り組み始める。 [[1971年]][[11月5日]]、[[全日本キックボクシング連盟|全日本キックボクシング協会]]の初代王者決定トーナメントで[[玉城良光]]に[[判定]]勝ちし優勝。初代[[全日本キックボクシング連盟#体重別階級|ライト級]]王座を獲得し、新格闘術に転向するまで防衛し続けた。 [[1972年]][[4月]]での[[タイ王国|タイ]]遠征を皮切りに、[[ムエタイ]]の殿堂[[ラジャダムナン・スタジアム|ラジャダムナン]]、[[ルンピニー・スタジアム|ルンピニー]]両スタジアムで本場ムエタイ戦士と対戦。 [[1974年]][[3月]]、キックボクシングに転向していた元プロ[[ボクシング]]世界[[フェザー級]]王者[[西城正三]]と対戦。西城は転向後、16試合15勝1引き分け13KOと連勝街道を突っ走っていた。世紀の一戦と[[マスメディア]]も煽り立てたこの試合は、1Rから西城が[[パンチング|パンチ]]中心で攻めるのに対し、藤原はパンチ・[[蹴り技|蹴り]]と上下に散らし、バランス良く攻める。2Rから藤原の攻めにスピードが乗りヒットし始めると、西城の攻めは空振りが目立ち始める。3Rに入り、西城が一方的に攻められる状態になり、KOなるかの直前に西城陣営からタオルが投げ込まれ、試合を棄権。藤原の[[テクニカルノックアウト|TKO]]勝ちとなった。同年11月26日、[[東京体育館]]でBBTVライト級タイトルマッチでジャイディ・ピサラヌンチャン(ラジャダムナン・[[ムエタイ#階級|ライト級]]王者)と対戦したが4度のダウンを喫し、判定負けした。 [[1975年]]、左[[脛]]を28針縫う手術し引退を囁かれたが、復帰を果たす。このとき45日間入院したが、退院して3日後、[[皇居]][[マラソン]]をやり、5キロメートルを23分ぐらいで走った。決して速いタイムではないが、28針縫って48日間も寝ていた体で走りきる常識では考えられないことをやり遂げた<ref>[[黒崎健時]] 『続 必死の力・必死の心』 [[スポーツライフ社]]、1981年、76頁。</ref>。 [[1977年]][[4月7日]]、タイのラジャダムナン・スタジアムで[[チャラポン・ソータイ]](ライト級王者)と対戦。1Rで藤原が右[[肘打ち]]を出し、お互いがもつれあいになり、両者倒れた。右肘打ちが[[リング (格闘技)|リング]]に倒れる前か後かで判断が分かれたが、ムエタイはダウン以外でも倒されるのはマイナス評価を受ける競技であり、倒れる方が悪いと判断され、藤原はムエタイの歴史上初めて現役王者を破るという快挙を為し遂げ、外国人として初偉業を成し遂げた。 [[1978年]][[3月8日]]、[[後楽園ホール]]で[[モンサワン・ルークチェンマイ]]に4RKO勝ちし、ラジャダムナン・スタジアムライト級王座を獲得し、ムエタイ史上初の外国人王者となった。同年[[6月7日]]、[[シープレイー・ガイソンポップ]](ルンピニー&ラジャダムナンライト級1位:タイ)と対戦し判定負け。黒崎健時や日本の[[マスメディア]]は、タイ側の[[ホームタウンディシジョン]]判定であると主張している。 [[1979年]][[10月30日]]、シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級統一王者)と王座決定戦を行い7RKO勝ちし、黒崎健時が興した「[[新格闘術]]」の世界ライト級王者になる。同年には[[梶原一騎]]総指揮の[[#映画|映画にも出演している。]]また、梶原原作の[[劇画]]「[[四角いジャングル]]」にも重要人物として頻繁に登場した。 [[1983年]][[2月]]に引退し、その後、長い間キックボクシングには関わらなかったが、[[1997年]]に「藤原スポーツジム」を設立し、指導を始める。 [[2010年]]に発足される立ち技系格闘技のコミッション組織「[[ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ]](JMD)」の理事長に就任した<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_01/0125_rebels.htm ムエタイ&RISEをより競技化するためJMD発足、理事長は藤原敏男氏!] - 2010年1月25日 GBR</ref>。 == 人物 == ;師匠が語る [[黒崎健時]]は次のように評している。 {{Cquote|藤原が入門してきた時は痩せていて、おっとりしていて、何のへんてつもない奴で、こいつはモノになるだろうかと思ったほどだ。ただ真面目で、人間が素直ではあった。その時に感じた藤原の長所といえば、勘の良さととキックに向いた身体つきである。手と足を自由自在に使いこなさなければならない[[キックボクシング]]では、瞬間的な判断力、すなわち勘がもっとも大切なのである。そして藤原は、実に素直な人間である。意見を言った時、口先だけでわかりましたと言い、内心そんなことできるかと思う奴と、私の立場になっていったことを本当に理解出来る者とがいるが、その点藤原は素直に私の意見を聞き入れる。だから選手生活も長く、世界チャンピオンになれたのだろう。<ref>黒崎健時 『必死の力・必死の心』 スポーツライフ社、1979年、237 - 245頁。</ref>}} ;ケンカ [[リング (格闘技)|リング]]を降りた藤原は、東北人らしい寡黙で真面目な性格である。その一方で[[佐山聡]]は {{Cquote|路上のケンカといえば、藤原敏男先生。彼が[[掣圏道]]のモデルです<ref name="dgnf2470">「第13回ゴーちゃんの突撃魂-ほんとはどーなの??」『[[ゴング格闘技|GONG KAKUTOUGI]]』 [[日本スポーツ出版社]]、FEBRUARY No.142 2004年、47 - 50頁。</ref>。チャンピオンの[[技術#技と術|技]]をケンカに有効活用されてますよ、徹底的に(笑)。一般的に[[格闘技]]をやったからこそ、技術的にケンカが強いということは確かにあります。しかし、多くの格闘家が[[リング (格闘技)|リング]]上は競技ですから非常に精神力が強いということですけど、一般社会に出て精神力が強い人はあまりいないですよ。藤原先生は両方ありますね。<ref>「天才が語る死を背負う武士道-[[佐山聡]](武士道[[掣圏真陰流]]総帥)」『[[格闘Kマガジン]]』 [[ぴいぷる社]]、MAR. No.78、2005年。</ref>}} と藤原がリングの上でも路上でも強かったことを証言している。 そのほかにも[[新宿]]で10人倒したとか<ref name="dgnf2470"/>、[[銀座]]で言い争いになって6人倒したとか逸話があり<ref name="dgnf2470"/>、その話の続きで *舟木昭太郎<ref group="注釈" name="ex1">当時の[[ゴング格闘技|GONG KAKUTOUGI]]編集長。</ref>「ある大学の[[柔道]]部の奴を滅多打ちにしたって話。[[ローキック]]から始まって、最後は[[ハイキック]]で(笑)」 *藤原敏男「そういうことは・・・。俺も[[警視庁]]で暴れているけどね」 *[[吉田豪]]「あ、その話も佐山さんから聞きましたよ。さんざん暴れて黒崎先生の奥さんがもらい下げに行ったら、刑事の机の上に乗ってたって(笑)」 *藤原「それ、[[丸の内警察署]]ね」 *吉田「藤原先生が『おまえら間違ってる』って警官を叱り飛ばしたらしいですけど、何があったんですか?」 *藤原「それは[[南千住警察署]]の話」 *吉田「いろいろ出てきますね」 *藤原「あのときはウチの選手のことを警察が泥棒扱いしたことを飲んでる時に思い出したから、『よし、今から警察署に乗り込むぞ!』って。それで「うちの選手を捕まえた担当者をだせ、コラ!」って机をバンバン叩いて怒鳴り散らしてたら、防弾チョッキを着た[[機動隊]]がいっぱい集まってきちゃってさ(笑)」 *舟木「それは実際、間違いで、向こうが謝ってケリついたんでしょう?」 *藤原「だから『さ、帰ろうか』って」 もっとも藤原は、佐山の方が喧嘩っ早いと言っている<ref name="dgnf2470"/>。 ;現役時代の体格 {| |style="vertical-align:top"| * 身長・168.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * 視力・左右1.2<ref name="ms1391"/> * 肺活量・6,000立方センチメートル<ref name="ms1391"/> * 握力・左右40.0キログラム<ref name="ms1391"/> * 胸囲・94.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * 腕の太さ・29.5センチメートル<ref name="ms1391"/> |style="vertical-align:top"| * リーチ・54.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * ウエスト・69.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * ヒップ・93.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * [[垂直跳び]]・100センチメートル<ref name="ms1391"/> * 股下・76.0センチメートル<ref name="ms1391"/> * 足・26.0センチメートル<ref name="ms1391"/> |} == ファインティングスタイル == ;変則的な攻め方 藤原はオールラウンドプレーヤーであり、[[パンチング|パンチ]]・[[蹴り技|キック]]ともあらゆる面において優れていた。ただ、攻め方が変則的であった。独特なリズムを持ち、前へ横へと軽快なフットワークを用い、相手の虚を突いて一気に中に飛び込んで攻撃していくタイプである。中に入ってくるかと思えば横へと移動し、横へ動くかと思うといきなり飛び込んでくるので、対戦相手にとっては非常に掴まえにくく、やりにくい。 ヒット・アンド・アウェー<ref group="注釈" name="ex2">相手に[[殴打技|突き]]・[[蹴り技|蹴り]]を当てては、すぐに距離を取り、戦うこと。軽快なフットワークと、個々の突き・蹴りの威力がないと、成立しない戦法である。</ref>タイプの選手は、一度掴まえれば脆さが露見する場合が多いのだが、藤原は打ち合い蹴り合いに関しても、決して引けをとらない。藤原もこの独特のフットワークを自分のものにする以前は、真正面から、それも強引にパンチ・キックで勝負してきた。その基礎がしっかりしていてこそ、初めてこの変則的な攻めが成功していた<ref name="ms1391" />。 ;パワーあふれるキック 堂々と一歩も下がらず攻防する中で[[パンチング|パンチ]]・[[蹴り技|キック]]を繰り出す。どちらが得意かといえばキックだろう。藤原の[[回し蹴り]]は、腰の回転を充分に使ったまるでムチのような力強いシャープな蹴りである。右・左と伸びのある強力なキックを連続して攻撃していくときなど、ダイナミックこの上ない。藤原が強力な[[蹴り技]]を身につけたのも、打倒[[ムエタイ]]を目指し、強力な[[タイ人]]の蹴りと互角に戦えるよう鍛えていったからにほかならない。毎日1時間ぶっ通しで[[サンドバッグ]]を蹴り続け、また大きなタイヤでスネを鍛えたり、[[宇都宮市|宇都宮]]から[[東京]]まで100キロメートルの道を走るなど、超人的な鍛錬を積み重ねたのである。 藤原の師、[[黒崎健時]]の命により「手(パンチ)を使ってはならぬ」という、蹴りだけの試合も行ったことがある。常に蹴りの間合い<ref group="注釈" name="ex3">対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。 * 限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる * 誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる * 相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと</ref>でだけで戦えるものではない。相手も必死で攻撃してくるのだから、パンチの距離に入ってきた時など、手を使えない闘いほど大変なものはない。藤原は蹴って、蹴って、蹴りまくった。結果は4[[ラウンド|R]][[ノックアウト|KO]]勝ち。「この試合ほど疲れた試合はなかった」と藤原は語る。だが、このような試合をこなしてこそ、藤原の強力な、なおかつバランスの良いキックが完成していったのである<ref name="ms1391" />。 ;一発KOパンチ [[蹴り技|キック]]のパワーを身につけた藤原は、[[タイ王国|タイ]]のチャンピオンクラスを倒すには、正確な、パワーある[[パンチング|パンチ]]を身につけなければならないことに行き詰る。今度は徹底的にパンチを練習し、一発で相手を仕留めるスピード・パワー・タイミングと三拍子揃った強力なパンチをマスターして一発[[ノックアウト|KO]]勝ちを続ける。[[全日本キックボクシング連盟|全日本]][[全日本キックボクシング連盟#体重別階級|ライト級]][[タイトルマッチ]]で鈴木勝幸と戦ったとき、鈴木に追い込まれながらも右[[アッパーカット]]一発で、逆転KO勝ちを収めた強力なワンパンチは印象に深い<ref name="ms1391" />。 ;戦術 見た目は八方破れ的な攻撃方法だが、藤原なりに計算を立てた上での変則的な方法である。独特のステップを用い、相手のリズムを崩して強引に自分のリズムで試合を運ぶ。相手の中へ飛び込み、引っかき回しては攻め、また引っかき回しては攻めるのである。一度藤原の術中にハマってしまうと、相手はどう攻めていいのか、いつ攻めていいのかわからず、藤原に触ることもできずに、ただ[[パンチング|パンチ]]と[[蹴り技|キック]]に耐える一方という試合展開になる<ref name="ms1391" />。 また、藤原は、 *対角線上の攻撃 :右[[ローキック]]から左[[ハイキック]]や右ハイキックから左[[ミドルキック]]など攻撃技が対角線になるように攻めること *上下に[[技術#技と術|技]]をちらす :左[[ジャブ]]から右ローキック、右[[パンチング|ストレート]]から左[[ボディブロー]]のような攻撃をすること *縦横のコンビネーション :[[前蹴り]]と[[回し蹴り]]と組み合わせることで縦横の攻撃にすること 以上3つの基本パターンを複合的に何通りにも組み合わせ、スピードの変化に伴う攻撃を生み出し、そしてその底に潜む無限な力強い精神力が大試合で常に感動を呼んでいた<ref name="ms1391" />。 == 練習メニュー == 朝の練習 * ロードワーク・10〜15キロメートル<ref group="注釈" name="ex4">心肺機能を高めるために合間に100・200・300メートルや5キロメートルの全力疾走をしたり、時々20キロメートルのロードレースにも出ていた。</ref> * [[縄跳び]]・ストレッチ・1時間 * [[シャドーボクシング]]・1時間 昼の練習(11時〜15時まで自主トレ) * [[サンドバッグ]]叩き * フットワークを鍛えるため、[[つま先]]だけで移動 * 各技を反復練習 夜の練習(18時〜23時まで) * 通いの練習生と[[スパーリング]]を21時まで * 21時以降は曜日毎に変えて[[講道館]]で[[柔道]]・[[拓殖大学レスリング部|拓大レスリング部]]・[[角海老ジム]]で[[ボクシング]]と出稽古に行く<ref group="注釈" name="ex5">[[キックボクシング]]とは違った筋肉を鍛えるため、[[ボクシング]]テクニックや首相撲を強くする(組んだ時の強さ)を高めるために通っていた。</ref> == 逸話 == ;幻の対決 当時[[ボクシング]]世界王者の[[ガッツ石松]]が「キックはシャモの喧嘩だ」と馬鹿にした発言をした。これに藤原は激怒し、ガッツとの対戦を熱望したこともある。それも「キックなしルールで構わない」と言い切り、ガッツを逆に挑発した。 [[黒崎健時]]と舟木昭太郎<ref group="注釈" name="ex1"/>の話では、 *黒崎「もともと[[東京スポーツ]]の[[永島勝司]](現「背広レスラー」)が煽ったんだよ。それでガッツと会って『ファイトマネーいくらがいいか?』『500くれ』『いいよ』『2,000なら?』『いいよ』って、こちらがあんまり簡単に言うからビビっちゃったんだよ。『これはホントにやるんだったら困るなって』。ガッツ、謝りにきたよ」 *舟木「あのときサバサバしてたね」 *黒崎「だから逃がしてやったんだもん。じゃなかったら、今のガッツはなかったよ。『徹底的にやっちまえ』となってたからね。あのときは、ガッツが逆立ちしても勝てなかったよ」 と、結局ガッツ側は藤原の挑戦を受けずにこの騒動は終わった<ref name="kygnf034">「黒崎健時×[[吉田豪]]」『GONG KAKUTOUGI』 日本スポーツ出版社、FEBRUARY No.130、2003年、54頁。</ref>。 ;ベニー・ユキーデ 藤原敏男と同時代に活躍した[[ベニー・ユキーデ]]との対戦は何度も関係者で[[マッチメイク]]が交渉されたが、ユキーデ陣営の[[肘打ち]]、[[膝蹴り]]の禁止要望が強く、このことがネックとなり、ついに対戦は実現しなかった。[[黒崎健時]]は同じ目白ジムの[[岡尾国光]]が既にユキーデ陣営の主張する条件で試合したのだから、今度はこちらの条件で試合すべきだと主張したがユキーデ陣営は拒否し続けた。ユキーデは[[ムエタイ]]の選手と1試合行っているが「その時に肘、膝の攻撃防御に苦労したトラウマがあるのではないか」という関係者の話や、[[ゴング格闘技]]の編集長である舟木昭太郎も「藤原君とやらせようとしたけど、最終的に逃げてしまった。黒崎道場<ref group="注釈" name="ex6">旧[[目白ジム]]のこと。[[全日本キックボクシング連盟]]から離れて[[新格闘術]]を設立した時に、'''黒崎道場'''と名称を変えただけで場所も中身も変わっていない。</ref>にユキーデとユキーデの兄貴が見学に来て、黒崎師範は『[[スパーリング]]やる』って声かけたんだけど、藤原君が蹴るのを見てたら、兄貴が『もう帰ろう』と言い出した(笑)。黒崎師範は木刀持って立ってるしね<ref name="kygnf034"/>」と証言している。 ;家族 子供はタレントの[[藤原倫己]](元・韓国アイドルクループ[[A'st1]](エースタイル)メンバー) == 主な門下生 == * [[佐山聡]] * [[三州ツバ吉]] * [[中村高明]] * [[前田尚紀 (格闘家)|前田尚紀]] * [[山本真弘]] == 戦績 == プロキックボクシング([[ムエタイ]]含む): 141戦 126勝 99KO 13敗 2引き分け == 著書&参考文献 == * 『真剣勝負論―戦いの真実』 [[辰巳出版]]、[[1998年]]([[平成]]10年)、ISBN 978-4886413536 == 映画 == * 『格闘技世界一 四角いジャングル』 [[三協映画]]、[[1978年]]([[昭和]]53年) * 『激突! 格闘技 四角いジャングル』 三協映画、[[1979年]](昭和54年) == ビデオ == * [[VHS]] 「[[ゴング格闘技]]」『[[ムエタイ]]の頂点を極めた男 - 藤原敏男』 [[日本スポーツ出版社]]、ISBN 4-930943-27-2 C0875 :マニー・ジョンストン([[アメリカ合衆国|アメリカ]])戦、中村省三戦、センシン・ベッチャタヌーン([[タイ王国|タイ]])戦、足立秀夫戦を収録。 <small>※足立戦のみ実況なし。</small> * VHS 「ゴング格闘技」『藤原敏男 - ムエタイ制覇への道 - Vol1 - 敵地でついに現役王者を倒す』 日本スポーツ出版社、ISBN 4-930943-48-5 C0875 :ムンチョン・ジラパン(タイ)戦、シリモンコン・ルークシリパット(タイ)戦、チャラポン・ソータイ(タイ)戦を収録。 <small>※ムンチョン戦のみ実況なし。</small> * VHS 「ゴング格闘技」『藤原敏男 - ムエタイ制覇への道 - Vol2 - 荒鷲がムエタイの頂点に立った日』 日本スポーツ出版社、ISBN 4-930943-49-5 C0875 :モンサワン・ルークチェンマイ(タイ)戦、ソーポンサック・ソーホーヨー(タイ)戦、ワンナロン・ピラミッド(タイ)戦、シープレイー・ガイソンポップ戦を収録。 * VHS 「ゴング格闘技」『藤原敏男 - ムエタイ制覇への道 - Vol3 - 西城 敵前逃亡の大混乱』 日本スポーツ出版社、ISBN 4-930943-50-7 C0875 :土谷亮(山田)戦、鈴木勝幸(相模ジム)戦、中村省三(目黒)戦、[[西城正三]]([[協栄]]P)戦を収録。 * VHS 「ゴング格闘技」『藤原敏男 - 蹴撃のテクニック(基本編)』(実技/藤原敏男、解説/[[黒崎健時]]) 日本スポーツ出版社、ISBN 4-930943-05-1 C0875 * VHS 「ゴング格闘技」『藤原敏男 - 蹴撃のテクニック(実践編)』(実技/藤原敏男、解説/黒崎健時) 日本スポーツ出版社、ISBN 4-930943-06-X C0875 * [[DVD]] 『キックの鉄人 - 外国人初ムエタイ王者-藤原敏男』 UPPER(アッパー) :ムンチョン・ジラパン(タイ)戦、シリモンコン・ルークシリパット(タイ)戦、チャラポン・ソータイ(タイ)戦、西城正三(協栄P)戦、モンサワン・ルークチェンマイ(タイ)戦、シープレイー・ガイソンポップ戦を収録。 <small>※ムンチョン戦のみ実況なし。</small> == テレビ番組 == *[[サタ☆スマ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) :[[香取慎吾]]のレギュラーコーナー『'''怒られ侍'''』に出演。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[岩手県出身の人物一覧]] * [[男子キックボクサー一覧]] * [[全日本キックボクシング連盟王者一覧]] * [[日本のムエタイ世界王者一覧]] * [[日本のキックボクシング世界王者一覧]] * [[藤原祭り]] == 外部リンク == * [http://fujiwaragym.com/ 藤原スポーツジム オフィシャルサイト] {{Championshiptitle-1|初代|[[全日本キックボクシング連盟]]|[[ライト級]]|1971年発足|玉城良光|1971年11月5日 - 1977年}} {{Championshiptitle||[[ラジャダムナン・スタジアム]]|[[ライト級]]|モンサワン・ルークチェンマイ|シープレー・ギャティソンポップ|1978年3月18日 - 1978年6月7日}} {{Championshiptitle-1|初代|[[新格闘術]]|世界[[ライト級]]|1978年発足|船木鷹虎|1978年10月30日 - 不明}} {{DEFAULTSORT:ふしわら としお}} [[Category:日本のキックボクサー]] [[Category:キックボクシングのトレーナー]] [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:リングス]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Championshiptitle
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Championshiptitle-1
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Cquote
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Infobox
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Kickboxing statsbox
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
藤原敏男
に戻る。
検索
検索
藤原敏男のソースを表示
話題を追加