コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
蒲池鑑盛のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
蒲池鑑盛
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 蒲池鑑盛/蒲池宗雪 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]] | 生誕 = [[永正]]17年([[1520年]]) | 死没 = [[天正]]6年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]([[1578年]][[12月7日]]) | 改名 = 鑑盛、宗雪(号) | 別名 = | 諡号 = 宗雪 | 神号 = | 戒名 = 松梅院殿長國覚久居士神儀 | 霊名 = | 墓所 = [[福岡県]][[柳川市]][[蒲池|東蒲池]]の[[崇久寺]] | 官位 = [[近江国|近江]]守 | 幕府 = | 主君 = [[大友義鑑]]→[[大友義鎮|義鎮(宗麟)]] | 藩 = | 氏族 = [[蒲池氏]]([[嵯峨源氏]]・[[藤原氏|藤原姓]][[宇都宮氏]]) | 父母 = 父:[[蒲池鑑久]]、母:蒲池鑑久の正室 | 兄弟 = | 妻 = 正室:[[貞口院]]([[田尻鑑種]]の姉) | 子 = [[蒲池鎮久|鎮久]]、'''[[蒲池鎮漣|鎮漣]]'''、[[蒲池統安|統安]]、[[蒲池統康|統康]] | 特記事項 = }} '''蒲池 鑑盛'''(かまち あきもり)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[筑後国]]南部の大名。[[蒲池氏]]十六代目。[[蒲池鑑久]]の子。[[諱]]の「鑑」の字は、父同様に[[大友義鑑]]から賜ったもの。法名は'''宗雪'''(そうせつ)。 == 筑後筆頭大身 == [[筑後国]]南部に1万2千町(約12万石)を領した[[大身]](『大友幕下筑後領主附』)。[[筑後十五城]]筆頭大名として筑後を統轄。それまでの[[蒲池城]]に代えて、[[柳川城]]を本格的に造作し、現在の柳川の観光名所でもある水郷の掘割を縦横に張り巡らせ、柳川城を「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と戯れ歌にも歌われるほどの九州屈指の難攻不落の堅城にし、蒲池氏の本城とする。また[[風浪宮]]の本殿の造営その他も行なっており、現在の柳川市のルーツとなる城下町としても形成されつつあった。 == 義心強き武将 == [[筑後国|筑後]]守護[[大友氏]]の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法に長けた武将として、[[筑前国]]、[[肥前国]]など各地に転戦する。 『[[西国盛衰記]]』によれば、父の[[蒲池鑑久|鑑久]]は[[征夷大将軍|将軍]]の供をするという役目を怠って討伐されたとされ、鑑久の死([[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]]))に伴って下蒲池[[蒲池氏]]の家督を継いだものと思われる。父を大友氏によって喪った鑑盛だが、主君を恨むことなく引き続き[[大友義鑑]]・[[大友義鎮|義鎮(宗麟)]]の二代に亘って臣従した。 また、戦の場以外では、大友氏の敵方であるはずの[[龍造寺家兼]]やその曾孫である[[龍造寺隆信]]が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。『肥陽軍記』には「ここに筑後国蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい武勇のほまれ有り和歌管弦にも長じた情ふかい人なり」と記されているが、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚い人柄であったとされている。龍造寺家兼を保護したのち、隆信が肥前を追われた際には隆信をかつて家兼も住んだ蒲池領内の三潴郡一木村([[大川市]])に住まわせ、三百石を扶持し、家臣の[[原野恵俊]]に面倒を見させた。また隆信が佐賀へ戻る時は、蒲池氏の精兵三百で隆信を護衛させ、結果、隆信は本拠地[[佐賀城]]の奪還に成功することになる。この鑑盛による二代に渡る保護がなければ、龍造寺氏は滅びていた可能性があり、その後の龍造寺隆信の興隆もあり得なかったことになる。 鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した[[毛利元就]]と大友宗麟との間の[[門司城]]をめぐる戦い([[門司城の戦い]])や、また元就に加担して大友氏に反旗を翻した[[高橋鑑種]]の討伐戦などに出陣している。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった[[今山の戦い]]に於いても蒲池鑑盛は[[田尻親種]]と共に、宗麟からの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の[[村中城]]を包囲し攻略戦を行った。これらの合戦への参加により、宗麟からの[[感状]]を幾度も受けている。 == 耳川での最期 == [[1578年]]、北上する[[島津氏]]と大友氏との間の[[日向国]]の[[耳川の戦い]]には、大友軍の一翼として参加した。初老の身で病身だったが、嫡子の[[蒲池鎮漣]]や三男の[[蒲池統安]]と共に3千の兵を従えて出陣(『北肥戦史』)した。しかし、既に家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城してしまう。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦したが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した(『大友記』)。その最期について『筑後国史』は「湊川の戦いにおける[[楠木正成]]の壮烈な最期にも比せられる」と記している。 <!--- 蒲池鑑盛(蒲池宗雪)は、大友氏の幕下にあった筑後の大身の旗頭として、戦国時代の筑後を名実ともに代表する大名分の領主といえるだろう。---> 菩提寺の[[崇久寺]]の霊碑には、「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。 == 子孫たち == 蒲池鑑盛には、長子で庶子の[[蒲池鎮久]]、次子で嫡子の[[蒲池鎮漣]](鎮並)、三男の[[蒲池統安]]、四男の[[蒲池統康]](統春)がおり、鎮久の子の[[蒲池貞久]]は[[佐賀藩]]の諫早に蒲池姓、宇都宮姓の子孫を伝え、鎮漣は嫡子の宗虎丸([[蒲池久鎮]])の名跡を[[首藤鑑続|蒲池鑑続]]が継ぎ、筑後の一族は蒲池姓、首藤姓、宇都宮姓その他の子孫を伝えており、次男の宮童丸([[蒲池経信]])は大分の大庄屋として子孫を残し、娘の[[蒲池徳子]]は[[大友氏]]重臣の[[朽網宗暦]]の子の[[朽網鑑房]]との間に生んだ子に蒲池の名跡を再興させ、その子孫には[[徳川幕府]]最後の[[西国郡代]]となった[[旗本]]の[[窪田治部右衛門|窪田鎮勝]](蒲池鎮克)がおり、一族には蒲池姓、朽網姓、江口姓、鶴姓、窪田姓その他の子孫がいる。三男の統安の子の[[応誉]]は瀬高の来迎寺の僧侶だが、[[柳川藩]]祖の[[立花宗茂]]の正室の[[立花ぎん千代|誾千代]]を弔うために[[1621年]](元和7年)に[[柳川市]]の[[良清寺]]を開き、その子孫は蒲池の名跡を再興し、[[江戸時代]]は[[柳川藩]]主の[[立花氏]]の家老処遇を受ける。ちなみに歌手の[[松田聖子]](蒲池法子)の生家は良清寺の蒲池家の子孫で、松田聖子は幕末の[[柳川藩]]の[[蒲池鎮之丞|蒲池鎮之]]の玄孫になる。四男の統康(統春)は、[[龍造寺氏]]の柳川攻め([[柳川の戦い]])の時に討ち死にしている。 == 関連項目 == *[[崇久寺]] *[[蒲池鑑広]] *[[風浪宮]] == 参考文献 == #『柳川市史・史料編Ⅲ 蒲池氏・田尻氏史料』柳川市史編纂委員会 #『柳川藩史料集・第三編 天正時代 郷土の動乱と蒲池氏』永井新著 #『[[蒲池物語]]』[[蒲池豊庵]]著 #『蒲池氏と田尻氏』(柳川の歴史2)大城美知信・田渕義樹著 #『筑後争乱記・蒲池一族の興亡』河村哲夫著 ISBN 487415428X #『筑後戦国史』吉永正春著 ISBN 4751205420 #『[[筑後武士]]』[[江崎龍男]](芸文堂)ISBN 4-905897-57-2 #『蒲池氏の歴史』蒲池大気・猷介著 {{DEFAULTSORT:かまち あきもり}} [[category:蒲池氏|あきもり]] [[Category:戦国大名]] [[Category:戦国武将]] [[Category:1520年生]] [[Category:1578年没]] [[Category:筑後国の人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
蒲池鑑盛
に戻る。
検索
検索
蒲池鑑盛のソースを表示
話題を追加