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菊池武時
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 菊池 武時 | 画像 = Kikuchi-Taketoki.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 菊池武時/[[菊池容斎]]画『前賢故実』([[明治時代]]) | 時代 = [[鎌倉時代]]末期 | 生誕 = [[正応]]5年([[1292年]]) | 死没 = [[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]([[1333年]][[4月27日]])<ref name="足利直冬p200"> 瀬野精一郎 著『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.200</ref> | 改名 = 正竜丸、次郎、寂阿<ref name="足利直冬p200"/> | 別名 = | 戒名 = 広福院真空寂阿 | 墓所 = 首塚:[[福岡市]]中央区六本松の菊池霊社<br/>胴塚:同市城南区七隈の[[菊池神社]] | 官位 = 贈[[従一位]]([[1902年]]〈明治35年〉[[11月12日]]) | 幕府 = [[鎌倉幕府]] | 主君 = [[守邦親王]] | 氏族 = [[菊池氏]] | 父母 = 父:[[菊池隆盛]] | 兄弟 = | 妻 = | 子 = [[菊池頼隆|頼隆]]、'''[[菊池武重|武重]]'''、[[菊池武茂|武茂]]、[[菊池武澄|武澄]]、[[菊池隆舜|隆舜]]、[[菊池武吉|武吉]]、[[菊池武義|武義]]、[[菊池武光|武光]]、[[菊池武尚|武尚]]、[[菊池武士|武士]]、[[菊池武隆|武隆]]、[[菊池武敏|武敏]]、[[菊池武豊|武豊]]、乙阿迦丸<ref name="足利直冬p200"/> | 特記事項 = }} '''菊池 武時'''(きくち たけとき)は[[鎌倉時代]]末期の[[武将]]。[[菊池氏]]の第12代当主。[[菊池隆盛]]の次男。第10代当主・[[菊池武房]]の孫で、第11代当主・[[菊池時隆]]の弟にあたる。 == 生涯 == === 家督相続 === 父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の[[菊池武本]]がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武本が共に滅んだため、その後を継いで当主となった。この頃の九州は、[[元寇]]の後に[[鎮西探題]]が設置され、[[北条氏]]による支配が強化されており、御家人達の不満は募っていた。 === 挙兵 === [[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])3月11日、[[博多]]に到着した武時は鎮西探題に出仕したが、[[侍所]]から遅参を非難され、口論となった。13日、武時は挙兵し、博多の所々に火をつけて焼き払った。そして[[少弐貞経]]、[[大友貞宗]]らに使者を使わし、[[隠岐国|隠岐]]を脱出した[[後醍醐天皇]]の[[綸旨]]を受けているので同調するように告げる。しかし両者の反応は冷たく、少弐貞経は堅粕([[福岡市]]博多区・東区)で菊池の使者を斬り、大友貞宗も使者を斬ろうとして逃走された。武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の[[菊池頼隆]]以下菊池一族と共に討たれた。[[享年]]42。一族200名あまりの首が犬射馬場に懸けられた。 === その後の鎮西探題 === この挙兵の有様は訴訟のために京都から鎮西探題に派遣されていた僧の良覚によって目撃され、『博多日記』に書きとどめられた。武時は探題で行われた裁判で敗訴していた事も挙兵の遠因とされている。その性急な挙兵は[[少弐氏]]や[[大友氏]]の支持を得られず、自滅する結果となるが、武時の探題襲撃計画は九州における討幕運動の契機となり、この2ヶ月後の5月22日に[[鎌倉幕府]]が滅亡すると、その3日後に少弐貞経、大友貞宗ら九州の武士達は倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼす事になる。 [[建武の新政]]で[[楠木正成]]は、「武時は帝(後醍醐天皇)に一命を賭した忠臣第一の人」と賞賛し、武時の後を継いだ[[菊池武重]]は恩賞として[[肥後国|肥後]]一国を与えられた。 [[福岡県]][[福岡市]]の[[菊池神社 (福岡市)|菊池神社]]や[[熊本県]][[菊池市]]の[[菊池神社 (菊池市)|菊池神社]]の主祭神として祀られている。 また、非常に子沢山で頼隆と武重のほかにも10数人以上の子がいた。江戸幕末の画家・[[菊池容斎]]は、武時の子孫であると伝えられる。 == 贈位 == 没後570年近く経った1902年(明治35年)11月12日に、[[明治天皇]]より贈[[従一位]]に叙され、 同日に子の[[菊池武重]]と[[菊池武光]]も贈[[従三位]]に叙された。<ref>『官報』第5810号、「叙任及辞令」1902年11月14日。</ref> == 脚注 == === 註釈 === {{Reflist|group="註"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == ;書籍 * [[瀬野精一郎]]『足利直冬』(人物叢書)吉川弘文館、[[2005年]] ISBN 464205233X * [[平泉澄]] 『菊池勤王史』 菊池氏勤王顕彰会 昭和16年4月、皇學館大学出版部 52年3月 ;史料 {{肥後菊池氏歴代当主|第12代|1304年 - 1333年}} {{DEFAULTSORT:きくち たけとき}} [[Category:菊池氏|たけとき]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:肥後国の人物]] [[category:日本の神 (人物神 建武中興)]] [[Category:1292年生]] [[Category:1333年没]]
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