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花壇橋
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'''花壇橋'''(かだんばし)は、江戸時代初期、[[17世紀]]前葉に仙台の[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]にかかっていた[[橋]]である。今の[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市) |青葉区]]の花壇と[[川内追廻]]とを結んでいた。 [[仙台城]]の大手門に直結する仙台橋([[大橋 (広瀬川)|大橋]])からみると、花壇橋は数百メートル川下にあった。追廻は、[[仙台城]]本丸のある[[青葉山 (仙台市)|青葉山]]の麓で、広瀬川に面した東西に細長い地区である。花壇は広瀬川の屈曲部に三方をはさまれた東西に細長い地区で、東に地続きになっている。 花壇橋は[[伊達政宗]]の時代に架けられた。政宗は花壇に屋敷を作ってそこで過ごすことが多く、城との往復の便のために作ったらしい。<ref>1954年刊『仙台市史』第1巻(本篇1)70頁。2001年刊『仙台市史』通史編3(近世1)、414-416頁。</ref> あるいはまた、大橋方面に迫る敵への横撃を可能にするためだったともいう。<ref>『仙台城歴史散策』、54頁</ref> 長さ約200間(約360メートル)<ref>『仙台鹿の子』、1953年刊『仙台市史』第8巻215頁。</ref>。いわゆる廊下橋で、屋根と壁が取り付けられ、通行が外から見えないようにされていた。 元和3年([[1617年]])4月10日の大水で大橋とともに流され、ともに架け替えられた。しかし、寛永14年 ([[1637年]]) 6月26日に大橋とともに流されたとき、大橋は架けなおされたが、花壇橋は復旧されなかった<ref>『仙台鹿の子』、1953年刊『仙台市史』第8巻215頁。</ref>。泰平が続いて軍事の重要性が低下したこと、この頃仙台城に二の丸が造られて政治機能がそちらに移り、本丸の重要性が低下したことが原因であろう。 == 注 == <references /> == 参考文献 == * 作者不明『[[仙台鹿の子]]』、元禄8年(1695年)成立。仙台市史編纂委員会編『仙台市史』第8巻(資料篇1)に収録、仙台市役所、1953年。 * 仙台市史編纂委員会『[[仙台市史]]』第1巻(本篇1)、仙台市役所、1954年。 * 仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編3(近世1)、仙台市、2001年。 * 宮城県文化協会『仙台城歴史散策』、1988年。 * 松村博『[[日本百名橋]]』、鹿島出版社、1998年。ISBN 4-306-09355-7 {{DEFAULTSORT:かたんはし}} [[Category:日本の廃橋]] [[Category:仙台市の橋]]
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