花倉の乱のソースを表示
←
花倉の乱
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''花倉の乱'''(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に起きた、[[駿河国]]の[[守護大名]]、[[戦国大名]]でもある[[今川氏]]の[[お家騒動]]。「花倉」とは、[[静岡県]][[藤枝市]]の地名で、[[玄広恵探]]らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳([[今川義元]])らが勝利し終結。 == 経過 == [[足利氏]]の氏族である今川家では、[[文明 (日本)|文明]]8年([[1476年]])に[[遠江国|遠江]]で[[今川義忠]]が戦死した後にも、家督を巡り一門衆と有力被官の争いで家中が分裂する騒動が起こっており、これは[[室町幕府|幕府]][[申次衆]]の伊勢盛時([[北条早雲]]、[[後北条氏]]の祖)の仲介で[[長享]]元年([[1487年]])に[[今川氏親]]への家督相続が行われた。 氏親は、[[守護代]]となった盛時に支えられ当主の宗主権強化に努める。[[分国法]]である『[[今川仮名目録]]』を制定して家中を統率。自身の死後の内訌を防止するため、嫡子龍王丸([[今川氏輝]])への家督相続を確実にし、[[大永]]3年([[1523年]])には[[京都]]の[[建仁寺]]から[[太原雪斎]]を招き、五男の芳菊丸(正室[[寿桂尼]]の第三子。のちの義元)を養育させ、大永5年([[1525年]])に得度させて富士郡瀬古の善得寺(静岡県[[富士市]])に入らせる。氏親は翌6年([[1526年]])に死去し、嫡子氏輝が今川家当主となる。 氏輝の時代には、対立していた[[甲斐国|甲斐]]の[[武田氏]]と和睦し、一門衆や有力[[被官]]の合議制を確立させ、分国統治を整備する。だが、[[三河国|三河]]で[[松平氏]]が活動を強めると、守勢であった氏輝は三河を放棄し、甲斐侵攻を計画。[[太原雪斎]]とともに京で修行していた弟の栴岳承芳(義元)を呼び寄せる。 天文5年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]](1536年[[4月7日]])、当主の氏輝と、上位継承者である弟の[[今川彦五郎|彦五郎]]が急死する。家中での影響力も強かった氏親正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは栴岳承芳(義元)を[[還俗]]させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、義元と名乗らせる。さらに甲斐の武田家と和睦を成立させる。家督を継がせようとするが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた[[福島氏]]が反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の[[玄広恵探]]を擁立して対抗した。 [[5月24日 (旧暦)|5月24日]]([[6月12日]])、寿桂尼は恵探派の[[福島越前守]]([[福島正成]]と同一?)と面会して説得を試みるが失敗。翌[[5月25日 (旧暦)|25日]]([[6月13日|13日]])、恵探派は[[久能山]]で挙兵し、駿河府中の今川館を襲撃する。今川館の守りが堅く襲撃が失敗すると、恵探派は[[方ノ上城]]([[焼津市]])、[[花倉城]](葉梨城、[[藤枝市]])を拠点として抵抗、[[遠江国|遠江]]などで同調するものも現れた。 義元は相模の後北条氏の支援も得て、[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[6月28日]])に[[岡部親綱]]が方ノ上城を攻撃、落城させる。次いで恵探の篭る花倉城をいっせいに攻め立てた。恵探は支えきれずに逃亡、瀬戸谷の普門寺で自刃。遠江での戦闘も収束すると、義元は自身の家督相続を宣言し、宗主権強化に努める。 == 関連項目 == * [[日本史の出来事一覧]] {{DEFAULTSORT:はなくらのらん}} [[Category:今川氏|戦はなくらのらん]] [[Category:日本の戦国時代の戦い]] [[Category:静岡県の歴史]] [[Category:1536年]]
花倉の乱
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報