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航海条例
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'''航海条例'''(こうかいじょうれい、英Navigation Acts)は、[[護国卿時代]]の[[1651年]]に[[イングランド]]で制定された[[法律]]である。'''航海法'''、'''航海条令'''とも呼ばれる。イングランドの[[貿易]]をイングランド船に限定した。これにより、戦時にも十分な数の船を確保でき、[[重商主義]]を通じて、[[保護貿易]]主義の形を作ることになった<ref name=Britanica>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/406991/Navigation-Acts Navigation Acts (United Kingdom) -- Britanica Online Encyclopedia]</ref>。 ''Acts''と複数形で呼ばれるのは、航海条例が制定されたのが複数回([[1381年]]から[[1696年]]にかけて9回)だからであるが、ここでは、歴史的に最も頻繁に言及される1651年の航海条例を中心に扱う。 ==概要== [[1381年]]・[[1485年]]・[[1540年]]の航海条例は、海運を盛んにし、海上防衛を強化する点に重きが置かれていた<ref name=Britanica/><ref>[http://www.probertencyclopaedia.com/cgi-bin/res.pl?keyword=Navigation+Act&offset=0 Navigation Act]</ref><ref name=lewrockwell>[http://www.lewrockwell.com/rothbard/rothbard174.html Liberty vs Power in Europe and England by Murray N. Rothbard]</ref>。 1381年に成立した条例は、イングランド所有の船が当時は少なかったため、無効化した<ref name=Britanica/>。1540年の法制定時には、イングランドの貿易商は、大きくて不便なイングランド船よりも、小回りの利くオランダ船を主に使いたがっていた<ref name=lewrockwell/>。 [[1651年]]の航海条例は、[[オリバー・クロムウェル]]が実権を握っていた[[イングランド共和国]]の[[イギリスの議会|国会]]により可決され、共和国政府が発布した条例で、[[オランダ]]商人による[[中継貿易]]の排除を目的とした。[[英蘭戦争]]のきっかけとなり、また[[イギリス商業革命]]の要因ともなった。 {{要出典範囲|明文化はされていないが、[[フランス]]や当時中継貿易の主役であった[[オランダ]]の排除が狙いであることは明白であり、この法案の起草者・支持者もそれを狙っていたといわれる。航海条例の制定を推進・支持した者について、オランダ商人に対抗していたイングランド貿易商人(特に特権から排除されていた密貿易商)の存在が指摘されている。|date=2012年6月}} ==歴史的背景== [[File:Oliver Cromwell Gaspard de Crayer.jpg|thumb|180px|right|オリヴァー・クロムウェル]] 航海条例制定を決定づけたのは、[[八十年戦争]]におけるイングランドの貿易の大きな落ち込みであり、それと同時に起こった、[[スペイン帝国]]と[[オランダ共和国]]間の通商停止の解除だった。両国の通商停止が[[1647年]]に終わったことで、中継貿易港アムステルダムの全権と、他に、オランダにおいて他国と競合しうるだけの利益とが解放された。その後数年で、イングランドの商人は、[[イベリア半島]]や[[地中海盆地|地中海地域]]、[[レバント]]における貿易でオランダに圧倒された。イングランド植民地との貿易でさえも(当時は清教徒革命の最終段階に当たっていて、イングランド共和国が植民地に対してまだ権威を持っておらず、一部の[[王党派]]の勢力下にあった)イングランドは貿易面でオランダの独占状態に遭い、直接貿易も、レバント、地中海、そしてスペイン帝国や[[ポルトガル帝国]]からの商品が一気に押し寄せてきたため締め出しを食らい、そして、[[西インド諸島]]との貿易も、オランダの[[貨物船]]を使ったため、オランダの収益となった。<ref>Israel (1997), pp. 305–309</ref> 元より経済状態のよくなかったイングランドでは、[[1649年]]、貸付金の安全性を高めるべく、[[ランプ議会]]が[[教会]]や[[王室]]および王党派の領地没収を行った。それでも財政は潤わず、議会は軍隊の縮減を要求するにいたったが、これに反発した軍はランプ議会を解散させ、総選挙を要請した。その後の国政は混乱を経て、クロムウェルの[[護国卿]]就任へとつながり、新たに[[ベアボーン議会]]と呼ばれる国会が誕生した<ref name=civilwars>[http://www.british-civil-wars.co.uk/glossary/nominated-assembly.htm The Navigation Act 1651]</ref>。 イングランドと[[スコットランド]]は、これらの望まざる輸入にはかかわらないのが、どうやら正解のようだった。イングランドが先例としたのは、[[グリーンランドカンパニー]]が、[[1645年]]に、自社の船以外の貨物船で、[[クジラ]]製品輸入を禁じた条例だった。[[1648年]]には、[[レバントカンパニー]]が、国会に、[[トルコ]]の商品を、オランダやほかの土地の経由でなしに、生産地からじかにイングランドに輸入してほしいとの請願を出した<ref>Israel (1997), p. 309</ref>。[[バルト海]]沿岸の国々と貿易をおこなう商人たちもこれに便乗し、1650年にはStanding Council for Trade(常設貿易委員会)とイングランド共和国国務評議会とが、地中海や植民地の産物を、オランダ経由でイングランドに輸入されるのを阻止する総合法を立案した<ref>Israel (1997), pp. 309–310</ref>。 ==航海条例の制定== {{要出典範囲|1=[[オリヴァー・クロムウェル]]が実権を握っていた時期にこの法案が議会を通過したため「クロムウェル航海法」とも呼ばれるこの法案には、実際はクロムウェルは関わっていない。[[1651年]]10月に議会を通過したとき、クロムウェルは国王軍討伐の遠征の途上にあった。法案は[[清教徒革命|ピューリタン革命]]で議会に残った[[ランプ議会]]が通過させたが、この発案者や推進者が誰なのかは分かっていない。クロムウェルは、[[プロテスタント]]勢力が相争うことになると思われるこの法案に批判的であり、クロムウェル率いる軍と議会の溝は深まっていった。|date=2012年5月}} [[File:Oliver St John by Pieter Nason.jpg|thumb|180px|right|オリヴァー・セントジョン]] 1651年、クロムウェル指揮下の国会で、最初の航海条例の法案が可決された。この法案は、イングランドの植民地貿易の利権を守るため、そして、急成長するオランダの海洋貿易から、イングランドの産業を守る目的があった。 その条件としては *イングランド及び植民地に外国船を入れない *イングランド人(植民地の住民を含む)乗組員が、最低半数を占めること<ref name=stamp>[http://www.stamp-act-history.com/timeline/27/ 1651-Navigation Acts]</ref> *イングランドの船であること<ref name=Britanica/> である。また、イングランドは、居住地でなく国籍を重視したため、イングランド植民地の住民は、植民地間の貿易をおこなうことができた。 また、イングランド領アジアやアフリカの物品は、ブリテン諸島やアメリカの植民地のみにしか送れなかった。逆に、西インド諸島やアメリカの植民地からは、外国船で諸外国に送ることができ、ヨーロッパ諸国の輸出品は、イングランド船で運送するか、産出国の船で運ぶかのどちらかだった<ref name=stamp/>。 この条例は特にオランダに対象を絞っていた<ref name=civilwars/>。元々同じ[[プロテスタント]]の共和国(当時)として、友好関係にあった[[オランダ]]との関係が、三十年戦争で、オランダがスペインの所領と市場の多くをものにし、イングランドと張り合うようになった<ref>[http://www.helium.com/items/1444045-an-overview-of-the-navigation-act-of-1651 An overview of the Navigation Act of 1651 - by Mark Hopkins - Helium]</ref>オランダはヨーロッパの各国間での貿易の大部分と、イングランドの沿岸貿易の多くをも握っていた。条例によりオランダは、不可欠であるイングランドとの貿易から締め出された。オランダの経済は競争力があったが、イングランドと互いを捕捉し合う関係にはなく、条例施行後も、両国間での取引はなされていた<ref name=Israel316>Israel (1997), p. 316</ref>。しかしこの条例によって、オランダの商業が依存していた中継貿易は無力化され、オランダの船は、オランダの輸出品(主に[[乳製品]])をイングランドとその植民地に送るだけになった<ref name=civilwars/>。しかも、この貿易での収益は、オランダの貿易収益全体ではごくわずかであった。航海条例は、しばしば第一次[[英蘭戦争]]の主な原因と言われるが、条例そのものは、イングランドの大々的な外交方針の一部でしかなかった<ref name=Israel316/>。その方針に基づいて、[[オリヴァー・セントジョン]]と[[ウォルター・ストリックランド]]が、イングランドとオランダの同盟を交渉したものの失敗に終わり、セントジョンは交渉で恥をかかされたことへの仕返しとして、この条例を推進した<ref name=civilwars/>。 [[File:Beerstraaten, Battle of Scheveningen.jpg|thumb|200px|right|スケフェニンゲンの戦い<br/>ベールストラーテン作]] [[1652年]]、両国は交戦状態に踏み切った。[[1653年]]に[[イングランド海軍]]は、[[ポートランドの戦い]]、[[ガバードの戦い]]、そして[[スケフェニンヘンの戦い]]の勝利と、自国領海の戦いで圧倒的な強さを見せた<ref name=Israel316/>。元々は、1651年の条例の限定条項を無視したオランダ船への攻撃が発端だったが<ref name=stamp/>、バルト海や地中海といった、戦場をはるか離れた場所では、オランダはイングランドの貿易を停止し、独占権を握っていた。英蘭両国は、互いの首を真綿で締めるようなことをやっていた <ref name=Israel316/>。最終的に、オランダは条例を認めざるを得なくなった<ref name=stamp/> [[1658年]]にオリヴァー・クロムウェルが没し、息子の[[リチャード・クロムウェル]]が護国卿に就任したが、軍との軋轢から失脚し、これが王党派の勢いに火をつけて、[[ピューリタン革命]]の終焉と[[王政復古]]への道を早めた。航海条例は、王政復古後も続いたが、18世紀以後は様々な制約が加えられた<ref name=civilwars/>。 ==1651年以降の航海条例== [[File:Boston Tea Party w.jpg|thumb|230px|right|茶税法に反対するアメリカ住民の抗議行動([[ボストン茶会事件]])]] [[1651年]]の航海条例は、[[イングランド]]植民地における外国船(オランダ船)の交易を禁じていた<ref name=stamp/>。[[1660年]]には、[[砂糖]]や[[タバコ]]などの植民地の主要産物は本国にのみ輸出できるとし(他国への輸出を禁止)<ref name="Purvis1997">{{cite book|last=Purvis|first=Thomas L.|title=A dictionary of American history|url=http://books.google.com/books?id=556-YcjJYhkC&pg=PA278|accessdate=26 July 2011|date=23 April 1997|publisher=Wiley-Blackwell|isbn=978-1-57718-099-9|page=278}}</ref>、イングランドに直接送られる特定輸出品がリストアップされるようになった。特定輸出品は砂糖(1739年まで)、[[藍]]、タバコなどで、18世紀には[[米]]と[[糖蜜]]が加わった<ref name=Britanica/>。さらに[[1663年]]の条例(指定市場法)は、ヨーロッパから植民地への輸出はイングランドを介して行うものとした<ref name="Purvis1997"/>。これによってイングランドは植民地との交易を完全に掌握するに至り、密貿易を取り締まる目的で[[1673年]]にも再制定された。[[1696年]]航海条例は、商務植民地庁(商務院、イギリス商務省の前身、Board of Trade and Plantations)を設置し、貿易の統制・監督を行わせるためのものであった。[[1773年]]にも、西インド諸島の砂糖を対象に重税を課した法が制定され、このため砂糖の値段が急騰した。この法は[[糖蜜条例]]と呼ばれた<ref>[http://www.colonial-america.info/navigation-acts.htm Navigation Acts***]</ref>。 ==本国と植民地== [[File:1670 virginia tobacco slaves.jpg|thumb|200px|left|ヴァージニアのタバコ工場で働く[[奴隷]]たち]] この航海条例は本国と植民地の相互関係にあったが、反対運動も起こった。[[ジェームズ2世]]が、条例を悪用して植民地の自主性を妨害したことへの非難や、この条例の課税手段化への反発もあった。また、本国の産業を守るために、[[帽子]]作りや[[羊毛]]工業に歯止めをかけ、植民地産業のダメージをもたらした。[[1750年]]にも、競合を避ける意味から、植民地の[[錬鉄]]や[[鋼]]加工の発達に待ったをかけたこともあった<ref name=encyclopedia>[http://www.encyclopedia.com/topic/Navigation_Acts.aspx Navigation Acts Facts, information, pictures | Encyclopedia.com articles about Navigation Acts]</ref>。 [[File:Inside the Docklands museum - geograph.org.uk - 869645.jpg|thumb|180px|right|西インド諸島のドックランド博物館、元は砂糖工場であった。]] 帽子や鉄鋼にまつわるあからさまな制限、あるいは密輸は、かなり一般的に行われ、17世紀から18世紀にかけては、北アメリカへ、複雑な海岸線を利用しての密輸が後を絶たず、本国政府もこれへの対応が遅れていた。それ以外に関税機関の職権乱用や、[[賄賂]]、偽造などが密輸を手助けした。18世紀半ばには、密輸が当たり前になり、[[砂糖法]]([[1764年]])や[[茶法]]([[1773年]])が定められたが、密輸業者への懲罰というよりは、アメリカの愛国者蜂起に火を注ぐ結果となった。[[イギリス帝国]]の貿易は、アメリカ植民地あってこそのもので、また、ニューイングランドの[[造船]]産業は、航海条例による保護貿易の恩恵を受けていた。その後開かれた第一回[[大陸会議]]では、[[ベンジャミン・フランクリン]]により、航海条例をアメリカの諸植民地に沿って制定するという提案がなされた<ref name=encyclopedia/>。 [[1707年]]の[[連合法 (1707年)|連合法]]施行までスコットランドは外国として扱われ、[[1670年]]から[[1779年]]の間、[[アイルランド]]は条例の適用外だった<ref name=Britanica/>。 ==航海条例の廃止== これら諸航海条例は、次第に強制力の強いものとなり、それへの反発で[[アメリカ独立戦争]]が起こり、条例は重大な危機に瀕した。その後違法行為が増え、輸出品目の列挙は1822年に廃止された<ref name=Britanica/>。 イギリスにおける[[自由貿易]]の支持者の台頭により、航海条例と同じく保護貿易政策だった[[穀物法]]が[[1846年]]に撤廃された。航海条例も[[1849年]]と[[1854年]]とを以て撤廃された。<ref>Anthony Howe, January 2004 [http://www.liberalhistory.org.uk/item_single.php?item_id=16&item=history Free Trade and the Repeal of the Corn Laws ]</ref> ==関連事項== * [[英蘭戦争]] * [[清教徒革命]] * [[重商主義]] * [[保護貿易]] * [[タウンゼンド諸法]] * [[反穀物法同盟]] ==脚注== {{Reflist}} ==参考文献== * Israel, J.I., "England's Mercantilist Response to Dutch World Trade Primacy, 1647–74," in: ''Conflicts of Empires. Spain, the Low Countries and the struggle for world supremacy 1585–1713''. Hambledon Press, (1997)ISBN 1-85285-161-9, pp. 305–318 {{イギリスの経済}} {{DEFAULTSORT:こうかいしようれい}} [[Category:歴史上の法令]] [[Category:イギリスの法律]] [[Category:海事法]] [[Category:重商主義]] [[Category:交易の歴史]] [[Category:イングランドの歴史]] [[Category:イギリスの歴史]] [[Category:清教徒革命]] [[Category:1651年の法]] [[Category:アメリカ大陸の植民地化]] [[Category:イギリス帝国]] [[Category:13植民地の歴史]]
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