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'''興遼'''(こうりょう)は[[1029年]]から[[1030年]]の間に存在した[[渤海人]]の王朝。独自の年号を使用していた。 ==歴史== [[1029年]]、([[渤海 (再興)|後渤海国]]の滅亡([[1018年]])のわずか11年後)、[[渤海 (国)|渤海国]]太祖[[大祚栄]]の七世の孫、[[遼]]国東京将軍の[[大延琳]]が、民衆の苦しんでいるのに乗じて遼に反乱、[[遼陽|東京遼陽府]]で独立、[[満州]]の地に「興遼国」を建国した。 当時の東京遼陽府は、10世紀に契丹によって[[渤海人]]が集住させられていた。文化的にも栄え、その繁栄は満州地域に数々の渤海系の国家が興亡していた頃からモンゴル時代まで継続し、まさに都市民化した渤海人の一大中心地であった。 年号を[[天慶 (興遼)|天慶]]とし、大延琳は天興皇帝と称していた。この勢力に[[女真族]]も合流して反乱規模は拡大していった。 翌[[1030年]]、興遼国は遼に鎮圧され、大延琳は囚われ、滅亡した。 この後、[[1116年]]に[[大渤海]]が建国される。 ==関連項目== *[[渤海 (国)]] *[[東丹国]] *[[東北工程]] ==外部リンク== *[http://homepage1.nifty.com/history/history/bokkai.htm 東アジア歴史人物事典(渤海)] {{DEFAULTSORT:こうりよう}} [[Category:渤海国]] [[Category:満州の歴史]]
興遼
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