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'''胡 質'''(こ しつ、? - [[250年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将、政治家。[[魏 (三国)|魏]]に仕えた。[[字]]は'''文徳'''。父は胡敏(胡通達)。子は胡威・胡羆。孫は胡奕。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志に伝がある。 [[揚州]]の名士として[[蒋済]]・[[朱績]]([[呉 (三国)|呉]]の朱績とは別人の可能性もある)と並んで名を馳せていた。父は徳の高い人物として知られていたという。蒋済が[[曹操]]に仕え揚州の別駕に任命されたとき、曹操は父胡敏の子孫について蒋済に尋ねて胡質のことを知り、即座に頓丘[[県令]]に登用した。そのときに蒋済から「父に品行と智謀の面では及ばないが、事務処理の精密さの面においては長けている」と評価された。 県で発生した殺人事件について、偽りの自白をした者がいたが、胡質は嘘を見抜いて厳しく吟味し、事実を明らかにして刑に服させた。その後、丞相東曹議令史となり中央に呼ばれたが、州の要請により治中として留まった。 当時の[[刺史]]は[[温恢]]であった。また近隣に[[張遼]]が駐屯していたが、張遼は[[武周 (三国)|武周]]と仲違いを起こしていた。あるとき張遼は胡質の評判を聞き、部下にしたいと温恢に申し出たことがあった。しかし胡質が病気を理由にそれを断ると、張遼はわざわざその理由を尋ねるために胡質の元へやって来た。このため胡質は張遼に「武伯南(武周)は正しい人物です。張遼殿は昔、武周を尊敬しておられましたが、今は仲違いされております。ましてや私のような拙い者では、張遼殿とうまく付き合えないと思うのです。」と答えた。これを聞いた張遼は感心し、武周との仲違いを解消したといわれる。 再び曹操に召され、丞相属となった。[[黄初]]年間には[[吏部]]郎となり、地方に出て[[常山郡|常山]][[太守]]・[[東莞]]太守となった。再び殺人事件を解決する一方で軍功も積んだが、褒美は人々に分け与えたため家に余財が残らなかった。郡での務めは九年間に及んだ。[[228年]]、呉侵攻では[[賈逵 (魏)|賈逵]]に従い[[満寵]]と共に監軍として参加したが、揚州方面から侵攻した[[曹休]]が呉領深く侵攻し大敗したため、失敗した(魏志「賈逵伝」)([[石亭の戦い]])。 その後、[[荊州]]刺史になり、振威将軍・[[関内侯]]となった。[[237年]]、柤中に侵攻した呉の[[朱然]]を蒲忠と共に迎撃したが、朱然の果敢な戦略や奮闘で前方の蒲忠が退却してしまったため、後方にいた胡質も退却した(魏志「[[曹叡|明帝]]紀」・呉志「朱然伝」)。[[241年]]、朱然が2万の兵を率いて[[樊城]]に侵攻して来たが、周囲の反対を押し切り軽装の軍を率いて救援し、城内を安んじると共に朱然を退却させた(魏志「明帝紀)。 のちに征東将軍・仮節[[都督]][[青州|青]][[徐州|徐]]諸軍事となり、農業と防備の充実に力を注いだ。 <!-- 非常に内政に優れ、冷静であり、赴任先の各地で人々に慕われたといわれている。 --> 250年に死去。家には余財が残らなかったため、楊陵亭侯に昇進させられた上で領地を百戸与えられた。貞侯と諡され、子が跡を継いだ。 [[254年]]、同じく故人となっていた[[徐バク|徐邈]]・[[田豫]]らと共に清廉さを顕彰され、家に銭と穀物が与えられている。 小説『[[三国志演義]]』では、石亭の戦いで曹休を援護するときの出陣場面のみが描かれている。 {{DEFAULTSORT:こ しつ}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:250年没]]
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